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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

医学と総合リハビリテーションの面から戦後30年を振り返る

上田敏

はじめに

戦後30年は敗戦の虚脱からはじまり、戦後民主主義、廃墟からの立ち上がり、復興から高度成長にまで至る激動・激変の時代であったが、障害者と関連する医学・医療の分野も例外ではなかった。本稿では視野をやや広げて、統合された障害者支援の態勢をめざす「総合リハビリテーション」の角度からこの時代を概観してみたい。

1 障害像の歴史的変化

戦後の30年は障害像の面でも激変の時代であった。大きくみると、リハビリテーションの主要な対象となる障害者は「児童」→「青年・成人」→「高齢者」と、あたかも人の一生をなぞるかのように重点を移してきた。この最初の重点の移行が、戦後の最初期に起こったのである。

〈ポリオの時代〉

昭和の初期から高木憲次東大教授が「肢体不自由児の療育」を提唱し実践したことは有名であるが、その時の対象者はいうまでもなく児童であり、対象となった障害は主にポリオ、一部脳性麻痺であった。

〈切断と労働災害の時代〉

戦時中にこの点に大きな変化が起った。戦傷兵のリハビリテーションが大きな課題となったのである。当然ながら青年層が中心であり、主な障害は切断であった。義肢の製作や訓練の経験が蓄積され、それがそのまま戦後の「障害者更生指導所」などに受け継がれた。

戦後の復興のための石炭増産は、同時に多数の労働災害(落盤など)による脊髄損傷者を生み出し、そのリハビリテーションが大きな課題となった。

こうして戦中・戦後にかけて「児童から青年・成人へ」と重点が移行したのである。

〈高齢化の時代〉

ところが、医療の進歩・普及、生活条件(栄養・上下水など)の向上によって、戦後間もなく平均寿命は著しく延長をはじめ、早くも1960年代初めには、高齢疾患、特に脳卒中が大きな問題になりはじめた。今日に続く「青年・成人から高齢者へ」の重点の移行が始まったのである。

一方、児童の分野では生ワクチンによるポリオの「制圧」によって脳性麻痺が主流になり、青・壮年では労働災害は減る一方「交通戦争」で頸髄損傷(四肢麻痺)が増える、などの障害像の変化も起こった。また障害児・者の寿命も延長し、「障害者の老化」や「二次障害」が問題となりはじめた。

2 障害者福祉制度とその問題点

障害に関わる制度も戦後まもなく整備された。特に「身体障害者福祉法」(1949年)は、良くも悪しくも戦後日本の障害者施策全体のあり方に大きな影響を与えた。特に諸外国に比べ、「障害」「障害者」の定義・範囲が限定的なことが特徴で、初期の非常に限定されたものから、関係者の運動によって少しずつ拡大されながら今日に至っている。詳しくは他論文に譲る。

3 予防と治療―ジレンマと成果と

戦後30年間の医療の進歩・普及は著しく、障害の原因となる疾患の予防・治療も進んだ。ポリオの予防についてはすでに述べたが、脳性麻痺についてみれば、3つの時期を経過して、結果的には予防が相当程度に成功している。

第1期は、産科・小児科医療の進歩による死産、新生児・乳児死亡の激減の時期であり、このような救命の成功の結果、皮肉なことに脳性麻痺の発生は一時的に増加した。しかしその後の第2期で、アテトイド型脳性麻痺の主原因である血液型不適合に対する出生直後の交換輸血の普及によって脳性麻痺の発生は半減し、さらに第3期の、新生児集中ケアユニット(NCU)の普及によってさらに半減した。

このように救命・延命がかえって(少なくとも一時的には)障害者を増やす現象は、頸髄損傷、重度脳卒中、重度脳外傷、遷延性意識障害などにもみられるジレンマであるが、医学の進歩がそれ自体を解決することに成功するかどうかが注目される。

4 画期的な年1963年

東京オリンピックの前年の1963(昭和38)年は、わが国の医学的リハビリテーションにとって記念すべき画期的な年であった。それはこの年に、リハビリテーション医学の教育、研究、診療の三本柱が、期せずして同時に発足したからである。

〈教育―清瀬のリハビリテーション学院〉

同年5月1日東京都清瀬に、「国立東京病院附属リハビリテーション学院」(学院長:砂原茂一)として、わが国最初の理学療法士・作業療法士養成施設が開校した。これは、厚生省にかねてからあった「リハビリテーション研究会」(座長:大村潤四郎)が、1962年に「医学的リハビリテーションに関する現状と対策」の中間報告書を出し、それが年度末ギリギリの補正予算につながり、1か月遅れの開校にこぎつけたものである。

これは3年制の専門学校であったが、世界水準の教育を目指していた。国際的な理学療法士(PT)・作業療法士(OT)の連盟の基本姿勢は「PTの教育はPTの手で」「OTの教育はOTの手で」というもので、基礎・臨床医学は医師が教えてもよいが、PT・OTの専門科目と実習はPT・OTの手によらなければならなかった。当時の日本には有資格者はほとんどいなかったので、窮余の策として、当時は首都圏にまだかなりあった米軍基地病院の勤務者、あるいは米軍将校の家族の有資格者を雇用し、足りない分は海外から招聘した。「病院長よりも高給らしい」という噂があったぐらいである。

実習も米軍病院あるいは大学病院に有資格者を派遣するかたちで行った。これは学生にとっては、授業も実習指導も、試験もレポートも英語でということであり、まるで明治維新直後のような話であった。

〈研究―リハビリテーション医学会〉

同年9月29日、東京文京区の学士会館赤門分館で、100人の発起人の呼びかけで「日本リハビリテーション医学会」の設立総会が開かれた。会は初代会長に水野祥太郎阪大教授を選出、その他理事、監事、幹事を置き、発起人は全員評議員となった。

これにも前史があって、整形外科側と内科・神経内科側との別々だった動きが、4月の大阪での日本医学会総会を機に大同団結したものである。

〈診療―東大病院リハビリテーション部〉

同年7月1日に東京大学病院に「中央診療部運動療法室」が発足した。これは3年後に作業療法部門、物理療法部門を合わせた「リハビリテーション部」として独立する。これも数年前からの関係者の努力が稔(みの)ったもので、筆者は最初の専属医となった。

大学病院は医学生と研修医の教育と研究的な高度の診療を行う場であり、リハビリテーション医学を科学的な根拠をもった、真に有効なものとしていくためには、そこにリハビリテーション診療部門を置くことが不可欠である。小さな出発点であったが、これはその後、多数の大学に診療部門・講座が設置される端緒となった。

5 総合リハビリテーションをめざして

「リハビリテーション」とは「機能回復訓練」と思われることが多いが、実は「権利・名誉・尊厳の回復」という意味の一般用語であり、障害者の「人間らしく生きる権利の回復」(「全人間的復権」)が本当の意味である。

そのような全人間的な事業は、医学だけ、教育だけ、福祉だけ、また職業面の支援だけで実現できるものではなく、これら4分野に、介護、工学、行政、インフォーマル・サービス、さらにはピア・サポートまで加えた多数の分野が有機的に協力する「総合リハビリテーション」が絶対に必要である。

1965年4月13~17日に東京千代田区の旧ヒルトン・ホテルで「第3回汎太平洋リハビリテーション会議」が国際障害者リハビリテーション協会(現リハビリテーション・インターナショナル、RI)と日本障害者リハビリテーション協会(リハ協)との共催で開かれた。これがわが国のリハビリテーション従事者が、専門の枠を超えて一堂に会した最初であった。

そして「このような場を恒常的にもちたい」という声に応えて、本特集の期間をちょっと外れるが、1977年に「第1回リハビリテーション交流セミナー」が有志の手で東京で開かれ、それはやがてリハ協主催の「総合リハビリテーション研究大会」となって、今年第35回(横浜)を迎えるまでに発展してきている。

おわりに

以上、戦後30年の「総合リハビリテーション」関連の動きを概観した。

(うえださとし 日本障害者リハビリテーション協会顧問、元東京大学教授)