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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

「青い芝の会」初期の運動と人々

鈴木雅子

青い芝の会とは、今から55年前に結成され、現在も活動を続けている脳性マヒ者の当事者団体である。この会は、重症児殺し告発運動、優生保護法改定反対運動、川崎駅前バス占拠闘争など、1970年代の激しい差別告発運動により、広く世に知られるようになった。その激しさゆえに「過激集団」と呼ばれることもあったが、近年の研究によって、その運動のプラス面が正当に評価されてきたといえる。しかしその反面、1957(昭和32)年の会結成から1960年代末までの運動は忘れられがちで、その歴史が正しく伝えられてきたとは言い難い。そこで今回は、1960年代以前の運動とその担い手たちを取り上げてみよう。

青い芝の会は、東京都大田区に住む高山久子、金沢英児、山北厚の3人の脳性マヒ者によって、1957年11月に結成された。3人は、1932(昭和7)年に開校された日本最初の公立肢体不自由学校、東京市立光明学校(現・都立光明特別支援学校)の卒業生であり、また、戦後まもなく同校の卒業生たちが創刊した身障者の文芸誌『しののめ』の同人でもあった。

当時、高山は31歳。光明学校卒業後は在宅で過ごしていた。金沢は25歳。光明中学校を卒業後、いくつかの職に就いたが、当時は求職中の身であった。同じく25歳の山北は、その頃の障害者としては珍しく、国学院大学政経学部の学生であった。

会結成のきっかけは街角の出会いにあったという。1957年5月、大田区の障害者の大会に参加した3人は、軽度の障害者中心の会場の雰囲気になじめず、会の終了後、近くの路上で立ち話をしていた。そんな彼らに声をかけたのが、大森職業安定所・身障者係の原田豊治であった。「他の障害者はたがいに励ましあい、助け合う会を持っているのに、脳性マヒ者にはそれがない」と嘆く3人に、原田は「まず、あなた方が中心になって会をつくることだ」と助言する。この一言が彼らを動かし、発会の準備が始まった。

趣意書や会則の作成は山北が担当し、金沢は会員集めの在宅訪問に奔走した。高山の着想から、会の名は「青い芝の会」と決まる。その名には、青々とした芝のように踏まれても踏まれても強く明るく生きていこうという思いが込められた。10月12日、会結成のニュースが朝日新聞に掲載されると、翌日から激励、入会希望、寄付、協力の申し出が全国から寄せられたという。

11月3日、大田区の矢口保育園で会の発会式が開かれ、光明学校卒業生など約40人が会員となる。初代会長は山北厚。会の目的は「脳性マヒ者の福祉向上」と「会員相互の親睦」とされた。

当時は、障害者に対する露骨な差別があり、家族が障害者の存在を隠そうとする傾向も強かった。そのようななか、脳性マヒ者の多くは外出を禁じられ、家族からも厄介者扱いされながら家のなかでひっそりと暮らしていたのである。会は、そのような仲間を外に連れ出すため、バス旅行、キャンプ、勉強会などを企画する。会員たちは、外に出て仲間と出会うことにより孤独感や劣等感から解放され、前向きに生きる力を獲得していった。初めてバス旅行に参加した青年は、その喜びをこう述べている。

バスに乗ったのも、同病の方々と接したのも、外で食事をしたのも、砂浜を自分で歩き回ったのも、みんな僕には初めてのことでした。…皆さんと一緒になると、劣等感はたちまち消えてしまいました。

続いて会が取り組んだのは、会員の生活向上のための活動であった。1959年にはアケビ細工(アケビの蔓(つる)を加工して籠(かご)などをつくること)や編物の講習と、会員がともに働く場としての施設づくりの活動を開始する。

1960年代に入ると、重度障害児・者の施設の不足が社会問題になり、青い芝のなかでも施設づくりが会の中心的課題となっていった。「重度身障者収容施設設立資金募集」を掲げて、会がチャリティー歌謡ショーを開催したのは、1962年7月のことである。島倉千代子、神戸一郎などが無料出演したショーは大成功を収め、多数の新聞、週刊誌に取り上げられた。この間、会員は急増し、同年末には全国で支部数10、会員・賛助会員数約500人となる。

一方、同じ頃、従来の微温的な会のあり方に異議を唱えるグループが現れた。1961年に入会した東京久留米園(現・くるめ園)の会員たちである。久留米園は、国立身体障害者更生指導所(現・国立障害者リハビリテーションセンター)の職員有志が、指導所を出ても就職できない重度障害者のために1960年に設立した施設で、指導所職員の田中豊が妻とともにその運営に当たっていた。組合運動の活動家でもある田中は、入所者の自由と自主性を尊重する一方で、障害者が団結して政治に関心を持ち、自ら行動を起こす必要を説いた。田中を信奉する脳性マヒ者たちは、青い芝のなかで「久留米園グループ」と呼ばれ、会に要求運動という新しい運動スタイルを持ち込むことになる。

1962年5月、国立重度者施設の設立をはじめとする12項目の要求を掲げて、会は政府への要求運動を開始した。「要求運動趣意書」は次のように述べている。

放っておいても害にならず、役に立たない重度者はどうなってもよいと云う政府の態度に怒りを感じます。…真の障害者福祉は重度者本位でなければならないのです。私達にも生きる権利を主張する場を作ることこそ、社会保障の第一歩であると確信します。

障害者の「生きる権利」を根拠として、軽度者中心の従来の障害者福祉を重度者本位のものに改めるべきだとしたのである。当時は、「重度者対策=施設設立」というのが一般的な考え方であった。しかし、この頃から、会のなかでは障害者福祉をめぐる価値観が変化していく。

まず、会の結成当初の会員たちの願いは、働いて経済的に自立することであった。ところが、会員たちの体験を通して脳性マヒ者の職業自立の難しさが明らかになり、1960年代初頭には「職業自立」に替わって「施設設立」が会の中心課題となった。しかし同時に、この頃から、入所者への自由の束縛や社会からの「隔離」など、施設の負の側面も明らかにされていく。なかでも、1964年に重度脳性マヒ者の木村浩子が九州の施設から逃げ出してきた事件は、会員たちに大きな衝撃を与え、会では、この頃から「障害当事者が運営に参加する地域社会のなかの小規模施設」が理想の施設と考えられるようになる。

他方で、1960年代半ばには会員の結婚が急増し、一部は生活保護を受けながら地域社会で暮らし始めた。久留米園においても、1966年には秋山和明夫妻が、68年には寺田純一が施設を出て、地域での自立生活を開始する。こうして1960年代後半には、「脳性マヒ者が生まれ育った家や施設を出て、生活保護を受けながら地域社会で生活する」という新しい生活スタイルが生まれたのである。

「重度障害者にも地域社会で人間らしく生きる権利がある」という考え方は、1970年代の運動にも受け継がれ、冒頭で触れたような差別告発運動の前提となった。

1960年代までの青い芝の会は、これまで一般に、単なる親睦団体とみなされて来た。しかし、脳性マヒ者の意識の覚醒、社会へのPR活動、政府への権利要求運動、障害者福祉をめぐる価値観の転換など、その果たした役割は決して小さくない。1970年代と同様にそれ以前の運動もまた、正当に評価されることを期待したい。

(すずきまさこ 障害者運動史研究者、静岡県近代史研究会)


【参考文献】

◎青い芝の会編『青い芝』1号(1957年12月)~68号(1968年6月)

◎高山久子『無足の性』私家版、2000年

◎廣野俊輔「1960年代後半における「青い芝の会」の活動―実態と意義をめぐって」『社会福祉学』第四九巻第4号、2009年

◎鈴木雅子「高度経済成長期における脳性マヒ者運動の展開―日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」をめぐって」『歴史学研究』778号、2003年

しののめとわたし

横田弘

まさか55年以上もお世話になるとは思いませんでした。

私がどうにか自分の考えを書いてみようかと思ったのは、20歳位だったでしょうか。横浜の詩の同人誌「象(かたち)」に参加させて頂いて、好きなことを書いていたのですが、5年程経った頃、NHKラジオで女性の脳性マヒ者の詩が紹介されました。もともとのヤジウマ根性で手紙を書いたところ、それが山北厚さんの手で「しののめ」にまわって、私もいつの間にか同人扱い。

それからはもう御迷惑を掛け通し、大仏(おさらぎ)怪僧、茨城の共同生活、青い芝での社会運動。

こんなことを言うのは恥ずかしいのですが、私の運動の根底は、詩を書くことによって成り立ってきたと思います。私の80年は、「しののめ」によって支えられてきたと言えます。これからもよろしくお願いします。