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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

女性運動と障害者運動

米津知子

1972(昭和47)年は、優生保護法の改悪案が国会に提出された忘れられない年だ。女性の生殖を支配して障害者の出生を阻むというこの法律の強化に、障害者と女性の反対運動がはじまった。3歳になる少し前にポリオで右足に障害をもった私は、そのとき、東京のウーマン・リブ運動の拠点の一つ「リブ新宿センター」にいて、この改悪を知った。女であり障害をもっている自分を縛ってきた問題二つが、そこに重なっていた。社会的な問題とつなげて、ようやく自分の障害に向き合うことができた年でもあったと思う。

優生保護法“生まれる子を減らして質を高める”

優生保護法は、日本が第二次大戦に敗れた3年後、1948(昭和23)年に成立した。人工妊娠中絶と優生手術(優生上の理由による不妊手術)を行う条件を、規定した法律だ。どちらも5つの条件があり、うち3つは優生上の理由で、障害を次の世代に伝える可能性のある人に子孫を残させないことが目的だ。

日本には明治13年から今も、中絶を処罰する堕胎罪がある。戦前はこれを発動して医師と女性を取り締まり、兵士や労働力となる人口を増やした。しかし戦後の混乱期に、人口を減らす必要に迫られた政府は、堕胎罪の適用を抑えて中絶ができるようにしようと考えた。また、生まれる子が減るなら、その質をいっそう高める必要があると考えただろう。そのために作られたのが優生保護法だった。

中絶も優生手術も、基本は本人と配偶者の同意と医師の認定によって行われるのだが、優生手術については、本人の同意なしで強制できる条文があった。1996(平成8)年に同法が優生条項をなくして母体保護法へと改訂されるまで、統計にあるだけでも16,477件の強制的な優生手術が行われた(注)。その7割が女性だ。

またこの法律があることで、障害者とくに障害女性の生殖を奪うことが正当化され、子宮を摘出する違法な手術も黙認された。妊娠がおこらないだけでなく、月経介助の手も省けるため、施設入所の条件として暗に提示されたという経験談が残っている。

時代に合わせる改悪案

72年の改悪は3点あった。

1.中絶を認める条文のひとつ「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ(第14条4項)」から「経済的理由」を削除すること。

2.胎児が重度の精神又は身体の障害の原因を有するおそれがある場合も中絶を認めるという、「胎児条項」の導入。

3.初回分娩を適正年齢で行わせる指導を、優生保護相談所の業務に加える。

1の目的は、人口を再び増やすための中絶規制だ。2と3は、生まれる子の質を高めようとしている。

改悪案の背景と考えられることが、60年代に起きていた。人口を減らす政策が成功し、政府と経済界は一転して、将来の労働力人口減少を心配し始めていた。また、経済成長とともに公害・薬害が多発し、その被害により障害をもった子の出生が相次いだ。福祉の充実が求められるのと同時に、福祉コスト削減のため“障害児の発生防止”の声も高まる。そして、羊水から胎児の障害の有無を診断する技術が、日本でも実施されるようになった。

優生保護法が成立したとき、優生政策の手段としてあったのは、障害が子孫に遺伝する可能性のある人に子をもたせない手術だけだったから、胎児の障害は中絶を許す条件に入っていない。そこで胎児条項の新設が提案された。政府は3点の改悪で、70年代の現実に法律を対応させ、人口政策・優生政策を再編し強化したかったのだろう。

女性と障害者の葛藤

女性の運動は早くから改悪の動きを知って、「中絶禁止法」という言葉で中絶の規制に反対を表明した。障害者の運動は、胎児条項の導入に強い危機感をもって立ち上がり、改悪に反対する運動の場で両者が出合うことになった。東京のリブ運動にいた私は、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会と接する機会が多かった。デモや集会を重ねる中で、女性が掲げるスローガン「子宮の国家管理を許すな」「産むも産まぬも女が決める」に対して、障害者は厳しく迫った。「女が決める」とは、障害のある胎児なら中絶することも含むのか?ならばそれは女のエゴ。我々は安易に連帯しない…。そんな発言が、集会のたびに投げかけられた。

女性の運動は、そこまでを意図してはいない。国は人口政策の必要から、ときに中絶への処罰をもって産むように仕向け、また、処罰を緩めて産まないように仕向ける。しかし、そんな政策は一般には見えていない。産むことも産まないことも子育ても子の健康も、女が負うべき責任と考えられ、避妊について男性の認識の低さが問われることもなく、中絶は女性の身勝手と非難されていた。そして再び規制を強めるという。

こうした理不尽への拒否を叫んだのだ。生殖に対する国の支配を止めること、安全な避妊、避妊が及ばなかったときに中絶が安全で合法であることを求めた。また、女性が妻・母の役割においてだけ価値付けられることを批判し、そこからの解放が性差別社会を変えると考えていた。

しかし当時の状況で、障害者にそれは伝わりにくい。まず、障害をもつ男性も女性も多くが性と生殖を奪われ、産むか産まないかを悩む状況でさえなかった。その上、胎児条項の提案によって存在そのものが否定されかけていた。

また、「青い芝の会」神奈川県連合会は、70年に起きた障害児が殺される事件と、加害した母親の減刑を求める声に対して、強い怒りを表明していた。そして少なくない障害者が、この事件を他人事と思えない経験をもっていた。その立場からすれば、リブ運動の主張は女性が子を守る役割を放棄し、障害をもつ子をさらに拒否すると見えたかも知れず、自分への拒否と感じたかもしれない。

障害者からの問いかけは厳しかったが、女性たちがこれを受けとめて、優生政策への認識を深めたことが当時のビラに現れている。74年まで続いた改悪反対運動の過程で、胎児条項への批判が大きくなり、スローガンも変わっていった。「中絶禁止法」の表現は使われなくなり、それに代わって、パンフレットのタイトルにもなった「産める社会を産みたい社会を!」が現れる。

つながった差別は両方から解こう

1974(昭和49)年6月に、改悪案は審議未了廃案となった。中絶の規制も胎児条項も、反対運動が阻止したのだ。同じ時期に西ドイツでも中絶をめぐる法改定が行われ、76年に中絶を認める範囲が拡大された。そのとき、胎児の障害を理由とする中絶も認められている。日本でのこの結果は、障害者と女性が葛藤しつつも力を合わせたからこそと私は思っている。

さらに女性の運動はその後も、優生思想を女性への差別に関わる問題として考え続けた。80年代には「DPI女性障害者ネットワーク」が発足し、障害をもつ女性の立場から優生保護法の廃止を求めて、障害をもたない女性の運動と交流を重ねた。こうした積み重ねを経て、1994(平成6)年にカイロで開かれた「国際人口・開発会議」のNGOフォーラムに、障害女性の安積遊歩さんが、障害をもたない女性たちと共に参加。国際社会に向けて優生保護法を告発した。これもきっかけの一つになって96年、優生保護法は優生条項を削除して母体保護法に改正された。

その後も胎児条項導入の動きが2回起きたが、女性の運動は障害者と共に強く反対してこれを退けた。また、90年代に拡大した出生前診断、受精卵診断に対しても、共に反対の立場を表明している。

障害者と女性の運動の葛藤のもとは、優生保護法に現れた人口政策・優生政策にある。女性の生殖を支配して、女性を、障害者の出生を阻む道具にする仕組みだ。また、女性は健康な子を産み育ててこそ価値があるとする性差別だ。それは障害者への否定であると同時に、女性が妊娠・出産する自由を否定する。障害のあるなしで子を選別させられることなく、生まれる子が無条件に受け入れられてこそ、女性の生殖の権利は成り立つからだ。

障害者差別と女性差別はつながっている。解放には、互いの立場への理解と両方向からの取り組みが必要だ。1972年、運動はこのことに気がついた。その大切さを、今あらためて考えている。

(よねづともこ SOSHIREN女(わたし)のからだから、DPI女性障害者ネットワーク メンバー)


(注)16,477件は、1949~1996年の件数。出典は「医制80年史」(厚生省1955年)ならびに各年次の「優生保護統計報告」(厚生省、厚生労働省)による。