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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

先天盲ろう児教育の夜明け
―山梨県立盲学校における実践記録―

岡本明

昭和23年、山梨県立盲唖学校の堀江貞尚(さだなお)校長は、県下の盲児・ろう児の実態調査を行った。当時、盲学校・ろう学校の義務教育化が実施されたにもかかわらず、就学状況や障害の状態はほとんど把握されていなかった。陽の目を見ないでいる子どもを発見し導くことは、教育指導者としての重要な任務であるという信念から、堀江は調査を開始したのである。

調査は県下のすべての小学校教員および児童、大学生、医師などに呼びかけて行われた。教員は児童に、「みなさんの家族や隣り近所には、眼が見えない人や耳が聞こえなくてことばが言えない人はいませんか。もしそのような人が居たら赤ちゃんから年寄りまで一人のこらず知らせてください」と呼びかけ、情報が続々と集まってきたという。個人情報保護が過剰に意識され、必要な情報でさえ得にくい現在では考えられないことである。

調査の結果、盲児40人、ろう児190人が確認され、その中から思いがけず盲ろう二重障害児5人が発見された。うち4人は重度の精神障害、発育不全がありどうにも手が下せないが、2歳のとき発熱し失明、失聴したという4歳の男児(以下、T男)は教育による効果が期待できると判断された。

堀江はT男を教育することを決意し、入学準備が松井新二郎教諭(第二次大戦で失明。後に日本盲人職能開発センターを創設)と富田和子教諭によって始められた。T男は生活訓練ができておらず、歩行も十分でなかったため寄宿舎には入れず、松井や富田が自宅に引き取って教えながら、おぶって学校へ行くという毎日であった。昭和24年のことである。

同年、山梨県立盲唖学校は盲学校と聾学校に分離され、堀江は聾学校校長に就任した。盲学校(以下、山梨盲)校長には少し遅れて三上鷹麿(たかまろ)が就任した。T男の担当は山梨盲となったが、三上は堀江の考えを理解して盲ろう児への教育に熱意を持ち、堀江も三上を信頼して多くを委ねることができた。

松井らの努力によりT男は昭和25年、正式に入学して寄宿舎に入り、学校教育を受けることになった。翌26年、横浜の児童相談所から、3歳で高熱のため失明、失聴した7歳の女児(以下、S子)が連れて来られた。三上は受け入れを決断した。ここに日本で初めての先天盲ろう児への学校教育が開始されたのだが、その夜明けといえるまでにはまだ年月を要する。

2人の盲ろう児への指導は大きな困難と、それを乗り越える献身、愛に満ちたものであった。先例もなく経験もない教員・寮母たちのこの取り組みはまさに壮絶といってよい。寄宿舎で24時間、必死に2人の世話をした古田立子寮母は「若い体力と情熱、そして何よりも好奇心がなければできない仕事だった。私も好奇心を駆り立てられ、未知の世界へと誘われていった」と回想している。ある夏休み、古田はS子を連れて自分の実家で何日かを過ごした。このとき近所の人から、「S子を見てあげるから休みなさい」といわれて床についた彼女は2日間眠り続けたというエピソードからも、その苦労が並大抵ではなかったことがうかがえる。同じく2人の教育に情熱を傾け、昭和29年からは盲ろう児専任となった志村太喜彌(たきや)教諭は「終戦間もない当時、何かをやろう、という気概が皆にあった」と語っている。

2人とも食事、用便などのしつけがほとんどされていなかったため、教育はまず日常の基本的習慣づけから始められた。指示は身振りサインである。これには24時間を通した長い月日がかかったが、教員たちはくじけなかった。やがて歯磨きや手洗い、食事、着替えなども自分でできるようになった。

次は言語である。点字と物との結び付けの訓練が、彼らが好きな飴や菓子と「あめ」「かし」と点字で打ったカードを工夫して、忍耐強く続けられた。しかし、これはなかなか進歩しない。のどや唇を触らせて言葉を読み取らせる「触話法」もほとんど進まない。教員たちには焦りと諦めが強まっていった。堀江は「盲児への教育経験から、盲ろうであっても比較的簡単に言語シンボルを理解させることができると考えていたが、楽天的空想に過ぎなかった」と述懐している。

そのような中、昭和26年、梅津八三(うめづはちぞう)東大教授が、旧知の三上を訪ねて山梨盲に来て、偶然に盲ろう児2人に出会ったのである。そして教員たちが必死に試行錯誤している様子を見た。半年後、再び山梨盲を訪れた梅津は、盲ろう児の動作が活発化し、身振りサインでの交信ができ、日常行動のコントロールがかなりできるようになったことに驚いた。しかし梅津はもっと複雑多様なことに対して、普通の人と同じように自他をコントロールできる「言語行動」の信号系を彼らも獲得できないものかと考えた。今の方法はアメリカの先例を真似たものだが、それ以上はうまくいかない。改めて方法を考えてみるべきだと直感したのである。

梅津は専門の心理学の知見をもとに仮説を立てた。「言語行動」は人に先天的に備わった仕組みの活動であり、盲ろう児も適切なきっかけを与えてやればその仕組みを発動できると考えたのである。そして、いろいろ組み合わせて使える「高単位」の信号系を得ることを目標とした。つまり、文字を覚えるにしても、それを自由に組み合わせて無限の表現ができるようにならなければならないとしたのである。

三上らは2人の教育の再出発のために奔走し、ようやく県の予算が得られ、専任教師も認められ、杉村今朝恵(けさえ)助教諭が初の盲ろう学級専任となった。そして昭和27年に「盲聾教育研究会」が発足したのである。梅津、三上のほか、中島昭美(あきよし)東大助手(後に重複障害教育研究所を創設)らが加わっていた。研究会メンバーは頻繁に山梨盲を訪れ、夏休みには合宿を行ったり、梅津や中島の自宅に泊まらせて盲ろう児とともに生活した。その中で科学的知見に基づく教育方法が模索され、実践が始まったのである。いよいよ日本の先天盲ろう児教育の本格的夜明けである。

梅津は段階を経て訓練することにした。いきなり点字の訓練をするのではなく、まず物の形に対するカテゴリー形成の訓練から始め、次に点の位置の識別、それから実物と点字の結合に入る。物の名前の点字カードと、名前の点字を貼った物を比べて選ばせる。やがて物と点字の間に対応関係が成立するようになった。単語は徐々に増え、動詞なども学習し、文章を組み上げて高単位の交信ができるようになった(約2年)。

続いて音声による発信の訓練に入った。まず口の形をつくることを教え、次に意図的に息を出すこと、声帯を緊張変化させることへと順に進み、最後にこの3つを統合して訓練し、徐々に言葉が出せるようになった(約1年)。

ローマ字指文字による言葉の受発信も訓練され、さらに算数、社会などの教科の学習も行われた。これらは点字学習、発声の矯正なども合わせてT男、S子や、その後入学した2人の盲ろう児が転校や卒業するまで続けられた(約15年)。

このようにして、先天盲ろう児は奇跡とも思える発達を遂げたのであるが、これは科学者の研究と現場の教員たちの献身的な実践とが見事にかみ合った成果といえる。

ところが、T男、S子ほかが卒業した後、山梨盲ではやがて盲ろう児教育打ち切りとなってしまう。志村はこのとき山梨盲を辞して国立特殊教育総合研究所に転出し、教育資料を同研究所へ移して梅津とともに整理を始めた。これらはその後、同研究所の中澤恵江(めぐえ)研究員(現横浜訓盲院学院長。全国盲ろう教育研究会会長)によって丁寧に保管され、平成23年、再び山梨盲へ戻された。山梨盲では2,250点にも上る膨大な資料を保管する一室を設け、劣化を防ぐ方策をとって保管し、また梅津が作成した教材の整理カードと教材実物との照合、資料の電子データ化などに取り組んでいる。また盲ろう教育研究委員会を設立し、年報発行や資料展開催などの広報活動にも努めている。これにはかなりの労力と資金を要するが、山梨盲の方々は熱意をもってあたっておられる。山梨盲の資料は現在、盲ろう児の教育に取り組んでおられる方々に大いに役に立つものと思われる。

本稿をまとめるに当たって、山梨盲引田秋生(ひきたあきお)元校長、志村太喜彌元教諭、白倉明美教務主任、青い鳥成人寮標照二(しめぎしょうじ)施設長ほかの方々にいろいろご教示いただきました。心より感謝いたします。(文中敬称略)

(おかもとあきら 筑波技術大学名誉教授、工学博士)


【参考文献】

・堀江貞尚「ろう盲(二重障害)児」、『東北大学教育学部研究年報 昭和28年度』1953

・『山梨県立盲学校における盲聾教育に関する研究 ―文部省指定実験学校報告書―』文部省初等中等教育局特殊教育課、1970