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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

1000字提言

短くなる命の時間

永瀬哲也

医療に関する科学技術が進む。その進歩によって、人間の寿命は延びてきたが、今の時代はそれとは逆方向への力が働いているように思う。なんとなく感じているのではなく、確信に近いものとなっている。人間の寿命を「終わりから、そして初めから短くする」力がはっきりとある。

心臓、肝臓、腎臓の機能が働かないことを「心不全」、「肝不全」、「腎不全」と呼ぶのに、脳の機能不全は「脳不全」と言わずに「脳死」と呼んで強引に死とイメージ付けされている。欧米では「脳死が死である科学的根拠がないのは明確」だが、それで脳死下臓器摘出の反対になるかというと、そうならずに「移植の為に合法的な殺人として認める」と論じられている。脳死下臓器提供の承諾は本来の命の時間を縮める「自殺」であり、家族が提供を承諾し、温かい身体から動いている臓器を摘出するのは…。美談などではなく、ただただ悲劇である。

「命の終わりを手前で絶ち切る行為」の基本にあるのは「意識がなければ死んだも同然」と考える思想だ。尊厳死もそういう行為だ。最初は「自己決定」という耳触りの良い言葉を条件とし、臓器移植法と同じように、早晩「家族の承諾」で命を断つことが認められるようになる。その先は「意識がない人にも、臓器提供や尊厳死を選択する権利がある」と主張され、家族のない人の生死は「専門家による第三者機関」で判断される。そういう方向に向かうだろう。

「生命の終わり」が手前で断たれるのであれば、「始まり」にもその考えは広がる。「意識の有無が人間の生死を決める」のだから「意識を持つ前の段階の胎児はまだ人間ではなく、再生医療に使用してもよい」、「そうなのだから、細胞分裂した胚も当然使っていい」。技術発展への欲望を力に、「我々人間のため」として進むこの流れに抗するのはとても難しい。たとえ数時間でも数日でもより早く命を断つことは本質的には「殺人」であるのだが、さまざまなベールを被せられて「正当化」されていく。

一方で「死ぬまでの過程で医療に関わるな」とか、「食べられなくなったら諦めろ」と主張する乱暴な本が売れている。「自分らしい死に方」という流行りの個人主義礼賛の飾りとともに「死にそうなら、死んでしまっていい」という考えがむやみに広がることにも危険を感じる。それが医療費のカットという政治の都合と重なればなおさらのことである。

脳死、臓器移植、尊厳死、生殖医療、再生医療。これらの事柄を通じて「命の操作」を認める方向づけの動きが明確にある。イメージに流されず、冷静にまた温かいハートを持って、それに対抗できるか。今を生きる我々の真正面にある課題であると思う。

(ながせてつや 人工呼吸器をつけた子の親の会会員)