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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年9月号

私のお気に入りスポット

ハード面のバリアは人の思いで変えられる(伊勢神宮と永寿湯温泉)

谷口真大

私の旅行のルーツを辿(たど)ると行き着くのは、間違いなく中学2年の冬である。当時、東京の学校に通っていた私は、神戸にある実家への行き来のたびに、いつも少なからず旅行のような感覚を味わっていた。その冬休み、私は実家へ初めて一人で帰省することになった。かねてから一度はやってみたいと思っていたこと。それは、東京から神戸までを、普通電車を乗り継いでの帰省だった。新幹線で約3時間。それを10時間もかけて行くというのだから、そんなアホらしい旅に誰(だれ)も付き合ってくれるわけでもなく、私は一人で帰れるようになれば絶対に実行しようと思っていた。無事到着できるかの不安。そしてこの旅が終わる時、はたしてもう一度どこかへ出かけたい、旅をしたいと思えるのか。そんな前日の夜の思いは、今でも忘れない。

それ以後、数え切れないほどの旅行を重ねる中で、また行動範囲が広がるにつれて得たのは、もちろん良い経験ばかりではない。

私が初めて大きな壁に突き当たったのは、島根県の山中の宿を訪れようとした時だった。当時高校2年生だった私は、同じ視覚障害の友人とただ田舎に行く、という旅行を計画。これは今考えてみるとあまりに目指すものが定まっておらず、唐突で極端過ぎたのだ。電車を降りてすぐにいつもとは違うことに気づいた。ホームに点字ブロック一つ無いのである。けたたましいエンジン音を響かせながら徐々に遠ざかって行く1両編成のディーゼルカーを見送った後に残されたのは、ただ私たちだけだった。ここにきて初めて、迷ったら誰かに聞けばいい、ということが通用しないことを実感した。尋ねる人がいないのだから。思えばそれを目的に来たのに、わがままな話である。

初めての土地で、しかも歩いて15分の道のりは、私たちにとってはいろいろな意味で遠すぎた。しかも、都会を歩く感覚で歩いていては、数秒も歩かないうちに間違いなく川底だ。そうなのである。ここにきてもう一つ愕然(がくぜん)としたのは、川から田んぼ、用水路に至るまで、たとえそれらがどれほどの深さを持っていても柵が無いのである。近くに転がっていた石を投じて、それがどこか異世界に着地する音が聞こえるまでの異様に長い沈黙が、私たちの不安をさらに増大させた。道も分からずに闇雲(やみくも)に歩くのは危険である。そう判断した私たちが、無い知恵を絞って到達した答え。それは駅で一夜を明かすことだった。

また、こんな経験もした。懲りずに新潟の奥地の温泉を訪れた時である。同じ失敗は繰り返さない。ということで事前に駅近の温泉を調べ、無事到着したのは良かったのだが…。思いもよらなかった入浴拒否である。説得を試みても「責任が…」の一言を壊れた機械のように繰り返す人を前に、私たちは引き下がるほか無かった。

しかし、そうした理解の乏しい場所ばかりかというと、決してそうではない。私が大学の友人と訪れた伊勢神宮は、ぜひもう一度行きたい場所のひとつである。観光客が多いということももちろん関係しているのだろう。駅前からほとんど段差も無く、点字ブロックが設置されている。しかし、私が感動したのはそんなハード面のことではない。伊勢神宮では有名なおかげ横丁を友人と歩きながら、何とはなしにお土産屋さんを散策していた。

友人が私に、ショーケースの中に入っているものを説明してくれる。そんな時、お店の方が自然にケースから商品を出して触らせてくれたのだ。しかも、それは一つのお店だけではなかった。営業目的ではなく、あくまで自然に、当たり前のようにそうしたことが行われる雰囲気が、私の心を強くひきつけたのだと思う。

また、函館にある温泉を訪れた時のことである。基本的に視覚障害者が宿や温泉を訪れると、必要以上に配慮をしてもらえるところが多い。もちろん相手は親切心からの行為であり、悪気は無いとは分かっていても、やはりお互いになんとなく気持ちの良い空間ではなくなってしまう。

そんな中でここの何が特別だったのか。それは、私たち視覚障害者が必要としているサポートをお願いした時、それだけをしてもらえるというところにあったのだ。必要以上にあれこれと気を使われたり、頼んでいない、自分自身でできることまでやってもらえたりすることの無いという環境が、こんなにも心地よいものだったということを、私でさえその時、初めて気づいたのだ。

私のこれまでの旅行から見つけ出した一つの答え。今回のコラムでは、極めて取りとめの無い話の連続になってしまったが、観光におけるバリアフリーの可能性を考えた時、それはハード・ソフト両方の理解が欠かせない。人が場所を作る観光においては、後者の理解がより重要と言えるだろう。ハード面でのバリアは、人の思い一つで変えられることがたくさんある。逆にどれほど施設が整っていても、そこにもう一度訪れたい、と思わなければ意味が無いのである。障害者を取り巻く観光が、まだまだそうした課題を抱えているのは事実である。しかし、課題ばかりでは無いということもまた、今回伝えたかったことなのだ。初めての土地を訪れたい、そして旅がしたい。そうした思いと自信が、一人でも多くの方の中に生まれることを願いながら、このコラムを締めくくらせていただきたい。

(たにぐちまさひろ 奈良県立大学地域創造学部観光学科4年)