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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年9月号

文学やアートにおける日本の文化史

「戦後の障害者史(1945~1975)―ゼロからのスタートを省みる」8月号特集の意義

石渡和実

1 はじめに

1981年の国際障害者年。この年に筆者は、埼玉県のリハビリテーションセンターで、社会人としてスタートした。その後の「国連・障害者の10年」も経て、世界的な規模で、障害者関連の施策、社会が大きく変わっていった時代である。アメリカで誕生した自立生活運動は各国に広まり、障害のある人々が大きな役割を果たした。この間の変遷については、筆者も自らの体験を通して実感できる。

しかし、「1945年~1975年」という30年間については、8月号特集を読んで「あぁ、そうだったのか」と、「ゼロからのスタート」を再認識させられた次第である。筆者と同じ思いを抱いた読者は多かったのではないだろうか。だからこそ、この特集を企画し、貴重な機会を提供してくださった花田春兆氏に心から感謝申し上げたい。「残された時間は、今しかない」という切迫感をもっての特集から、我々は何を学び取るべきであろうか。

多彩な執筆陣に、まず驚嘆させられる。わが国の障害者福祉行政の草創期を担い、今も現役で活躍する板山賢治氏。国際レベルでリハビリテーションの発展に寄与し、なお新しい方向を求め続けておられる上田敏氏。それぞれの立場で障害者運動を担われてきた佐々木卓司氏、米津知子氏、佐藤三郎氏、金澤恂氏。研究者としての鈴木雅子氏、岡本明氏、荒井裕樹氏、大杉豊氏。そして、ベストセラー『困ってるひと』の大野更紗氏と、立場も年齢もさまざまである。それぞれが花田氏の意図を汲んで、その立場ならではの論文を、限られた紙幅の中でまとめ上げてくださっている。

2 各分野の進展を考える

まず、板山論文に注目したい。有能な行政マン・研究者でありながら、現場で障害者とともに歩んでこられた板山氏ならではの視点にあふれている。障害者施策が、「白衣の傷痍軍人」に象徴される「貧困対策からの脱却」であったこと、氏が「憲法的存在」と呼ぶ心身障害者対策基本法も、「障害者の定義問題だけが残されていた」との指摘には、今と重ね合わせて納得させられてしまう。

上田論文では、清瀬のリハ学院で、初期のPTやOTが外国人教師から英語で教育を受けたという話に、「この業界は時代を先取りしていたのだ」と、大きな「発見」をさせられた。そして、氏が「見果てぬ夢」とさえ述べて、ピア・サポートの存在を含めた「総合リハビリテーション」を、改めて強調されていることに大きな感銘を受けた。

岡本氏の「盲ろう児教育の夜明け」には、この時期から、先駆的な実践があったことに感動させられた。今、「盲ろう」と言うと、東京大学の福島智氏を思い浮かべる方が多いと思う。時代の推移に応じて、説得力のある発言を続ける福島氏に共感する声は多いが、それも教育があればこそ、である。また、山地彪(やまじたけし)氏との出会いから、時代や地域、国を超えて、手話の文化的な意義、特に「ろう者コミュニティーの歴史を編み直す」ことを強調する大杉論文にも多くの発見があった。

3 障害者運動を問い直す

「障害者運動」と言えば、脳性マヒ者の「青い芝」と誰もが考える。この特集でも、多くの著者が触れている。鈴木論文では、1970年代の重症児殺し告発など「過激」(しかし、やはり意義深い!)と言われる面だけではない、結成当初の活動を紹介してくださっている。花田氏も活躍された『しののめ』の同人も多く、文芸面の活動もリードしてきた(その『しののめ』が、最近廃刊となってしまったのは残念でならない)。

また、地域で重度障害者が孤立せざるをえなかった時代、親睦活動や共同生活の場としての施設設立にも熱心であった。しかし、すでに60年代半ばには、寺田純一氏らが施設を出て、地域での自立生活を開始するのである。青い芝のこうした活動は、アメリカの自立生活運動に先行するとの指摘にも改めて納得させられる。

「青い芝」とは異なる運動として、「千草の舎を守る会」を紹介している佐々木論文も興味深い。会をリードした健全者であるY氏の存在も大きかったと思われるが、働くことも重視して、地域で暮らす障害者が連携し、新しい生き方を模索していた活動と言えよう。障害者運動の原点として、「集団とはその個人を強く豊かにするために存在するものだ」という言葉を紹介していることにも注目したい。

大野更紗氏は、「府中療育センター闘争」で「武闘派」と称される新田勲氏にインタビューしている。あの「足文字」を読み取る介護者を「人形浄瑠璃の黒子」に見立て、その力量に驚嘆もしている。1968年に、妹の絹子氏とともに入所した当時の非人間的な扱いに触れ、入所者の人権を取り戻す運動を強力に展開する一方で、新田氏らがハンストまでして介助者の権利保障を求めている点に注目している。この「わが身」だけではない視座に、障害者運動の本質がある。大野氏が「これまで僕が、勲さんに生かされてきたようなものです」という介助者の言葉を、「『黒子』の彼からこの日唯一聞いた、人間らしい感情のこもった声」と紹介していることにも、「納得!」である。

米津論文では、1972年に国会に提出された優生保護法の改悪案を機に、対立していた障害者運動と女性運動とがお互いの立場を認め合い、強力な連携を実現して改悪を阻止した経緯を紹介している。荒井論文は、結核やハンセン氏病らの「患者運動」と障害者運動との協力を、基本的人権を位置付けた憲法制定とも絡めて語り、多くの発見がある。「新憲法は百万の味方であった」というハンセン氏病患者の言葉は、ずしんと胸に迫る。

4 「文芸やアート」を考える

そして、荒井論文では「療養文芸」についても紹介している。特に、同人誌としての『しののめ』が、連帯の場を持たずに散在していた在宅障害者をつなぐ役割を果たしていた点を強調する。そこでは、佐藤・金澤論文で紹介される低額郵便制度SSKが、「障害者運動の生命線とも言うべき『機関誌文化』を死守するという、重要な意味を持っていた」とも指摘している。

荒井氏は、結核療養所でもハンセン氏病療養所でも、患者たちによる文芸同人誌が多数発行されており、「療養文芸」として文壇の一角を形成していたと主張する。在宅障害者は障害者運動という政治闘争だけでなく、こうした文芸活動からも大きな力を得ていたのだという。そもそも運動を展開するには、「闘って守るに値する自分」という根源的な自己肯定感が前提として必要である。そのために文芸活動が求められ、「患者運動の底流には、文学を通じた自己表現活動が力強く脈打っていた」と主張する。

運動と文芸とでは「位相」は異なるが、文学という抒情的表現を紐帯とする心理的連帯感があったからこそ、社会を変革する運動を展開していけたのだと指摘する。佐藤・金澤論文では、障害の種類や立場も違う孤立しがちな人々に対して、SSKという制度が情報発信、社会参加への有力な手段として機能してきたのだと主張する。今の課題に触れながらも、福祉制度の大切な柱として、低額郵便制度のあり方について提言している。

5 おわりに

花田論文では最後に、著名な障害者を列挙し、「殆どが文学やアートに関連を持ち、それもそれぞれの分野で高く評価される力量の持ち主だったのだから驚く。障害者運動の一翼を担いながら、内臓する豊かな人間性を見事な結晶で示していたのだ。」と主張する。そして、「障害は障害のままに受け入れながら、それぞれの分野で生き抜くエネルギー、生き甲斐を得ていたのだ」と結論付ける。

先の荒井氏の主張とも併せ、障害者運動と芸術活動とが表裏一体の、分かち難いものであることが理解できる。その原点は、やはり、「障害をもって生きてきた」ことにあると言えよう。障害ゆえに不条理を押し付けられ、差別も受けてきたからこそ、人間の根源に立ち返り、必死になって生きることを求め続けてきたのではなかろうか。それが社会に発信されるとき、「文学やアート」となって大きな力を発揮し、障害者運動という行動へとつながっていく。

改めて、「文化」とは、「人間の生きる営みの積み重ね」なのだと考える。これからの「連載」で「文学やアート」に触れることは、「人としていかに生きるか」を問い続けることになるのではなかろうか。その中で、障害がある人をはじめ、あらゆる人を包み込む社会のあり方、ソーシャルインクルージョンについて考えることも大きな課題となってこよう。

(いしわたかずみ 東洋英和女学院大学教授・本誌編集委員)