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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年11月号

差別禁止法制定に向けて

太田修平

部会意見

障害のある人や、その家族ならば誰(だれ)でも差別された体験は持っているだろう。もし“差別”という言葉が硬いとしたら、他の人々によって理不尽ないやな思いをさせられた経験のある人は、すべてといっていいぐらいに多いことと思う。アメリカにADAができて20年の月日が流れるが、この間多くの国々では障害者差別禁止法がつくられ、先進国でそれがないのは日本ぐらいなものになってしまった。日本の障害者施策が貧困なのも、このベーシックな障害者差別禁止法がいまだにできていないことと関係するのかもしれない。

さて差別禁止部会(以下、部会)は、9月14日“「障害を理由とする差別の禁止に関する法制」についての差別禁止部会の意見”(以下、部会意見)をまとめた。私はJDF(日本障害フォーラム)代表として部会の委員となった。部会は法律関係の学識関係者が多く、当初は抽象的議論が多くなされ、一時は「うまくまとまっていくだろうか」と心配していた私であるが、2年間で当事者からのヒアリングなどを何回か行い、そういう中で徐々に具体的な問題が明らかにされていった。そして棟居部会長の鋭い感覚や見識、担当室の巧みな交通整理もうまく作用し、今回の意見書がまとめられた。私もなるべく当事者の意見を反映させなければと、部会では最初に発言することも多く、積極的にふるまった。

今後内閣府では、この部会意見を基に、法案化の作業に入る。来年の通常国会提出を目指すが、政権がどのようになっているかとも大きく関係するとみられ、予断はできない。

共生社会の実現

部会意見では、まず法律の必要性について「何が差別に当たるのか「物差し」を明らかにし社会のルールとして共有すること、簡易迅速な紛争解決の仕組み等の法的な保護の仕組みを用意すること」をうたった。そのうえで第1章総則では「完全参加と平等」、「共生社会」の実現、「多様性」や「差異」の尊重が述べられている。さらに、差別の防止に向けた調査や啓発等、国等の責務があげられている。

さて障害の定義であるが、障害者基本法と同様の定義が妥当だとしている。さらに、この法律の本質部分である障害に基づく差別の定義であるが「不均等待遇」と「合理的配慮の不提供」の2つについて掲げられている。「不均等待遇」とは「障害又は障害に関連する事由を理由とする区別、排除又は制限その他の異なる取扱い」とされ、「合理的配慮の不提供」とは「障害者の求めに応じて障害者が障害のない者と同様に、人権を行使し、又は機会や待遇を享受するために、必要かつ適切な現状の変更や調整を行うこと」としている。ただしそれらの行為がやむを得ないものと認められた場合は正当化され、差別にあたらなくなる。また「合理的配慮の不提供」の場合は、相手方に「過度な負担」が生じる時は、例外となる。

第2章の各則では、特に重要と思われる10分野(公共的施設・交通機関、情報・コミュニケーション、医療、教育、雇用等)について、「障害に基づく差別」の具体的内容について、考え方を整理している。

第3章では紛争解決について述べられ、簡易迅速な紛争解決の仕組みを都道府県単位でつくっていき、差別を受けた障害者の相談や、相手方との調整や調停等の仕事を行い、これまで泣き寝入りするしかなかった状況から、解決できる状況をつくろうとしている。最終的には裁判で争うことになる。

大きな一歩へ

障害者差別禁止法が実現すれば大きな一歩となることは間違いない。障害があることを理由に、就職差別を受け、雇用差別を受け、また教育についていえば、初めから「障害をもっている子は特別支援学校に行くのは当たり前」という偏見で物事が進められ、就学通知も障害のない子と障害のある子では、全く別の形式で出されているのが現状である。差別禁止法ができれば、これは明らかな不均等待遇という差別とみなされる。また現在でも、鉄道会社は電動車いすのタイプによっては鉄道の乗車を拒否(特にハンドル形車いすなど)しているが、鉄道会社にそれを正当化できるだけの根拠がない限り、これも不均等待遇という差別となる。

ある障害のある人が会社に就職しようとした時に、過去に障害があったからとの理由で、不採用にする(これは精神障害の人に多い)ことも、会社側の差別となる。また勤務の形態を少し変える、たとえば4時間働いて2時間休むことや、休憩場所を設けることなど、その人の必要性に応じた対応をすることによって、他の労働者と同じように働けるとしたら、事業者側はそういう対応をしなければならないのである。そのことを合理的配慮の提供といい、その合理的配慮を提供しないことも、差別とされるのである。

障害があっても他の人と同じように生活あるいは人生をエンジョイし、可能性を最大限発揮して社会で暮らしていく権利があるはずで、このような合理的配慮が社会の隅々にされていくならば、教育・労働・役務(サービスのこと)・公共交通機関や施設など、いろいろな場面で、他の人と同じように社会参加が進んでいくことであろう。

JDF試案

さて、JDFとしても7月28日の部会で「障害に基づく差別禁止等に関する法律」試案を明らかにし、部会資料として提出をしている。

私たちが障害に基づく差別を受けてきた実態の重さ、差別を受けた場合、泣き寝入りすることなく何らかの法律的な仕組みによって解決されることの重要性、そしてこれらは権利条約に明記されていること、などを盛り込んだ前文を付けることを強く訴える内容のものである。そしてJDF試案では【差別の禁止】の項目で、1.何人も障害に基づく差別をしてはならない。2.何人も障害に関連して、いやがらせ、いじめ、侮辱、その他著しく尊厳を冒す行為はしてはならない。とした。

また障害の定義では、障害とは身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む)その他の心身の機能の障害をいう。障害には著しい変異や喪失といった身体構造上の障害(構造障害)も含まれる。とし、ICFの概念を主に取り入れたものとした。

障害に基づく差別とは、

1.不平等待遇及び合理的配慮を行わない事をいう。不平等待遇とは、障害に基づき、あるいは、障害に関連して、区別、排除、制限、その他の不平等な待遇をいう。ただし、当該待遇等に正当な目的があり、かつ、その目的を達するために、必要やむを得ないことを証明した場合はこの限りではない。

2.差別の原因が複数あり、その原因の一つが障害であると認められる場合、この行為は、本法の適用を妨げない。

3.過去の障害の経歴、将来発生しうる障害、または、障害がないにもかかわらず障害をもつとみなされることによって差別を受ける場合も、この法律における障害に基づく差別である。

と明記している。

他にも重要なポイントが少なくないが、JDFの差別禁止法制小委員会で議論してきた集大成とも言える。

JDFは障害女性というような、複合差別の問題や、欠格条項の廃止などについても、差別禁止法の中で盛り込むように求めた。これについて、部会意見には完全とまではいかないまでもある程度反映させることができた。

以上、JDF試案を簡単に見てきたが、部会意見にその多くが盛り込まれていることは心強い。

ところで、基本的には差別禁止法を作っていくことにすべての委員が賛成の立場で議論が行われたことは非常に評価できるし心強い。一方で、それを補強する形で「合理的配慮を具体的にどういう状況で、どこまで行なっていけばよいのか」「正当化事由はきちんと担保されるのか」等の事業所の立場に立った時の懸念される問題についても多く出され、建設的な議論となった。

さて、私は部会意見の中で気になっている箇所がある。それは「本法は、差別禁止という要請を国や行政だけでなく、私人間の行為規範としても法定化することに大きな意義を有しているが、私人間においては、結社の自由や私的自治の原則、法律による規制はできるだけ慎重であるべきこと等を踏まえると、合理的配慮の分野でも述べるとおり、どのような関係を取り結ぶかについて、個人の自由な意思に委ねられ、異なる取扱いをすることが社会的に容認されている私的な領域においては、法律で差別とすることは妥当ではない。」とあるところだ。人々に差別をしないように行為を促しているが、親密な関係、この場合は自主的なサークルも含まれるわけだが、強制力は持たせない、というのである。

ある意味、法律の限界なのだろうか。

「差別を受けた」という理由だけで

私の親もたぶんそうだったに違いないが、「障害という苦労を負わせてごめんね」という気持ちを子ども本人に抱きながら、また社会に対しては「少しでもこの子が迷惑をかけることがないように」などといった、障害に対して否定的な感覚を持っている障害者の親は圧倒的に多いことだろう。現実に、コンサートに障害をもっている子と一緒に行っても騒いだりして「何でこういうところにこんな子を連れてくるんだ!非常識な親だ」と非難されたりする。そういう差別は親に対しても日常的で、それが積み重なると親子心中や子殺しを考えるようになる。障害のある当事者からすればとんでもない話であるが、親たちにとっても深刻な話で、せめて自分が介護できなくなった時は、安心して暮らせる施設に入れてやりたい、自分の責任で子どもに苦労を負わせたくない、と大抵の親は考えている。子どもは必ずしもそうは思ってはいない。そこに構造的な差別がある。

およそ40年前、「青い芝の会」の障害者たちが、障害をもつ子の親子心中問題、子殺し問題を取り上げ、さらに、当時行われていた、重度障害者の施設収容問題に対し、「障害はあってはならないのか」という根源的問いかけを行い、それが現在の障害当事者運動の原型ともなっていったとも言える。

今回差別禁止法ができたとしても、この構造的な差別にどこまで迫っていけるかは正直言って難しい面が多い。しかし、障害を区別・排除・制限する行為などは差別であると明確にされ、同時に、雇用で言えば勤務形態の柔軟化、教育であれば障害に対応した教材の配布等、必要な場面で合理的配慮を受けることが当たり前となるのである。

もう一度確かめておきたい。障害者差別禁止法の本質であり、最も重要な点は、差別を受けたら、障害に基づいて「差別を受けた」という名目で、救済機関とも言える「裁判外紛争解決の仕組み」の委員会に相談ができ、そこが相手方との調整などに入ってくれるようになり、「差別を受けた」との理由で、訴訟も起こせるようになることである。今まではいろいろな法律を駆使して訴えなければならなかったが、「差別禁止法」という法律ひとつで、泣き寝入りをしなくてもすむようになるのである。訴えが多くなれば、関連する法律も国は改正せざるを得なくなるのである。その意味はとても大きい。

差別禁止法はその中で定義された差別を禁止するので、人々の意識までには及ばず、差別に対してパーフェクトなものではない。しかし、人々が差別を考え直す絶好な機会となる。制度的なフレームをつくることにより、人々の意識が少しずつ変わっていく、そして新たな制度をつくっていく。そういう繰り返しが重要である。

内閣府は、札幌をはじめ全国6か所で地方セミナーを企画している。自民党など保守的な政治家から今一つ理解を得られていない状況であるが、国際的な視点から考えれば、保守もリベラルも差別禁止では一致しているのである。決してイデオロギーの問題ではない。差別禁止法の制定は権利条約批准の要件でもある。声を大にして運動を盛り上げようではないか。

(おおたしゅうへい 障害者政策委員会差別禁止部会委員、JDF差別禁止法制小委員会委員長)