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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年12月号

1000字提言

生(せい)の拡充(かくじゅう)

川田明広

私は、小学校3年と中学校2年時、それぞれ敗血症とリウマチ熱という病気で、計5か月間休学を強いられた。その時に、死を特別に意識した訳ではなかったが、少年時代の自分には、生きていられること自体が、かけがえのないものに強く思われた。それ以来、老成した人間のように、10歳年をとるごとに、そこまで生きられた事を感謝しながら、56歳まで生きてきた。

現在私は神経内科医として神経難病の診療に当たっている。専門は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気であるが、手足の麻痺だけではなく、食べ物の飲み込み、発語の障害、呼吸筋の麻痺、また稀には眼球運動の障害等が加わり、まさに全身の運動機能が障害される原因不明の重篤な難病である。従来2~3年で呼吸筋麻痺で亡くなるといわれ、現在も根本的な治療法はないが、近年の人工呼吸器による呼吸管理や胃ろうによる栄養管理の発達によって、20年~30年間にわたって生きていくことが出来るようになっている。そのような病気であるにも関わらず、残された運動機能を活用し、新たな可能性を次々と発見しながら、多くの支援者との豊かな関係性の中で生き生きと生きていらっしゃる方を日々拝見し、私自身が反対に勇気づけられている。

昨今、超高齢者や根本治療が出来ない病気の方のQOL(生活の質)や終末期医療において、尊厳死や狭義の緩和医療の観点から、いかに苦痛なく、尊厳を保った状態で、他人の手を煩わせることなく死を迎えることのすばらしさが強調されてきている。しかし、先に述べたALSのような根治療法のない疾患や病態に、すべて進行期の癌のような終末期医療が適用されるわけではない。たとえ病気が治らず他人の世話を受けるような状況下でも、自分自身の可能性を追求し、残された人生を生き生きと、「生の拡充」を求めて生きていく事こそが、良き死を迎える前提だと考えられる。障害が重く、生きていく意味が見いだせないような状況にあっても、医療者が患者・家族より先に医療の撤退を考えるのではなく、生きていくあらゆる可能性を一緒に考え、絶望の中にも光を見いだしていけるような支援を行うことが必要ではないだろうか。

作家五木寛之の『親鸞』という本の中に、「私が求めていることは、よく死ぬことではない。暗い闇を抱えて、それでもなお歓びにあふれて生きる道だ。」という一節がある。この言葉は、心理学者V・E・フランクルの思想や、私どもが「生の拡充」という言葉に託した思いにも通じるものがある。

生活していく事自体が大変な時代ではあるが、今一度命の尊厳を再認識し、障害をもった人が、生を拡充できるような社会作りが必要であろう。

(かわたあきひろ 都立神経病院医師)