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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

仮設住宅の暮らしぶり

矢島秀子

立ち並ぶ仮設住宅の中を歩いて行くと、仮設住宅を囲む木の柵の下に小松菜が元気に育っているのが分かりました。

仮設住宅の敷地は通路と駐車場と砂利だけで、緑の木は一本も見当たりません。ここには兼業や専業で農業をしていた人たちが多く暮らしています。わずかな空き地を見てたまらなくなり、小松菜の種を蒔いたのだろうと思いました。しばらくぶりで、私も懐かしいものに触れた思いでした。散歩途中でヘルパーさんが声を掛けてくれて気づいた喜びです。

中途失明となって白杖を利用するようになって14年、その間連れ合いを亡くし、息子と2人で暮らしておりました。

自宅は商店街から2キロメートルで、車もあまり通らない道があり、ここで白杖の訓練をしました。道筋で、飼われている犬や馬が私の白杖の音に反応して、犬は鎖をじゃらじゃらさせ、馬は蹄(ひづめ)で柵を叩いて目印になってくれました。途中で道に迷うと彼らのところまで戻り、頭の中を整理して再び進みました。

商店街に足を踏み入れると、点字ブロックがあり、匂いがあり、音があり、一人で出かけることが楽しくなりました。同じ町内に住んでいる障害者と友達になり、県や地域のスポーツ大会の通知も届くようになりました。息子も結婚し、息子夫婦と孫と一緒に幸せな日々を暮らしておりました。

私の住んでいた南相馬市の小高区は、福島第一原発の近くにありました。大震災があった翌日の3月12日に浪江町に住んでいる方から情報が寄せられ、浪江町では白い防護服を着た人が街の交差点に立って、避難する車を誘導していると聞きました。その時はまだ、放射能のことなどまったく頭に浮かばなかったので、とりあえず近くの工業高校の体育館に避難しました。

その日の夕方、原発が危ないと聞き、家族で南相馬市の原町区の親戚に行くことになりました。それもつかの間、16日の夕方には原町区から新潟方面に何十台ものバスが出ていることが分かり、ここも危ないと思い、翌朝に家族で会津方面に行くことになりました。

結局、会津は大雪で、那須にある国立塩原視力障害センターを目指しました。しかし、センターは地震で建物が一部壊れ、さらに満員で入れず困っていたところ、三重県のおじさんから電話が入り、いつでも受け入れてもらえることが分かり、即断し、センターに車を預けてタクシーで那須塩原駅に行きました。新幹線を乗り継いで夜遅く津市に到着しました。長い長い1日でした。

三重県には、2011年の3月17日から今年の1月8日までおりましたが、まったく知らない土地なので、目が不自由な私にとっては不安ばかりで、行くところも歩けるところもありませんでした。

遠く離れた福島の情報はラジオでしか入ってきませんでした。次第に古里(ふるさと)が恋しくなり、息子もすでに原町区の職場に復帰し、孫もお父さんに会いたいだろうと思い、1月8日に原町区の近くの仮設住宅に入居することになりました。そして再び仲間と交流ができるようになり、家には戻れませんが、楽しかった昔に少しずつ戻りつつあります。

大震災から2年が過ぎ、この暮らしがいつまで続くのか不安の毎日です。仮設住宅は、敷地内の道路や駐車場の工事が終わり、住宅にも濡れ縁が付き、風呂の追い焚き装置やガラスの結露防止の工事も終わりました。追い焚きがあるとお風呂に入った気分になるものです。

しかし、放射能のことは毎日頭から離れません。最近、洗濯物や布団を外に干す家が増えてきましたが、不安になってしまいます。孫の食事も気になります。内部被爆検査も受けました。家族は全員異常がありませんでしたが、周囲には放射線量が高いところもあり、また、事故があった原発では、毎日のように小さなトラブルがあるとニュースで伝えられており、まだまだ安心はできません。

今一番困っていることは、自由に外出ができないことです。障害者自立支援法が改正され、同行援護事業がスタートし、視覚障害者のガイドヘルプが保障されると聞きましたが、それは大きな都市のことだと思っています。被災地でガイドヘルパーを頼んでも、なかなかうまく利用できません。それでも、月に4時間だけ散歩のために利用できるようになりました。

復興のためにたくさんのお金が使われていますが、仮設住宅で暮らす私たちの生活は入居した時と同じ状況です。買い物や散歩、通院、栄養などについて心配することばかりです。お願いすることはたくさんありますが、文句ばかり言っても仕方ありません。逆境の中にあっても強く生き抜いて、再び緑あふれる自宅に戻れる日を夢見て頑張り続けようと思っています。

(やじまひでこ 福島県南相馬市)