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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

避難先名古屋での出会いと仙台での新しい生活

小松千吉

間もなく、2度目の3.11がやって来る。あの日私は、宮城県名取市内の県立病院に入院中だった。入院治療も3か月が経っていて、退院が間近に迫っていた。しかし私には、今回の入院の原因となった病は諸般の事情によって、完治まで治療を進めることができなく、さらに障害が重くなると告げられていた。そして、そのことが原因で、住み慣れた家に帰ることができなくなっていたのだ。

私が住んでいた県営ケア付き障害者住宅の入居の条件は、支援は生活介助のみで、自立生活ができること、身体介助の必要な重度の障害者は入居の対象になっていなかった。そのため即退去の要請が出された。

慌てて次の住まいを手配したのだが、簡単ではなかった。まして車いす対応の住宅となるとまだまだ少なかった。そこへ、3.11が覆いかぶさるように起こった。

3月18日。東日本大震災から1週間が過ぎた。惨憺(さんたん)たる状況が、次から次へと悪夢のような現実が繰り返し報道されていた。

入院先の県立病院は、海岸から車で15分ほど離れた高台に位置していたため、津波の心配はなかった。しかし、ライフラインは止まり、天井板は所々はがれ落ち、天井に張り巡らされていた水道管からは水漏れし、医療機材は散乱して、もはや病院の体を成していなかった。それでも、病院は被災した人々の避難場所と化して、またけが人の応急処置もあり、その日からごった返していた。

ストレッチャーごと名古屋へ

そんな中、突然私に救いの手が差しのべられた。大地震発生の翌日、早々に名古屋の「社会福祉法人AJU自立の家」から、若者ら5人が被災した障害者のための介助ヘルパーの目的で、救援物資を積んで仙台入りしていた。そして3月18日に、第一陣として名古屋へ戻るという。その際に、「居住に困っている被災障害者を一時的でも名古屋への避難を…」と呼びかけたのだった。私はそのご厚意に甘えることを決断して、その若者らの手によってストレッチャーごと、まだ見ぬ土地へ運んでもらったのだった。

名古屋に避難してからも通院する必要があり、毎日の暮らしの中でも支援が必要だったので、被災者手続きをしようと被災者の条件を調べたところ、その条件の一つも該当しなかった。実際は、被災した地元で福祉の事務手続きの依頼をするのだが、名古屋に避難しているのでそれはできなかった。AJU自立の家に相談して、住民票をAJU自立の家に異動し名古屋市の福祉資源を提供してもらうことで、日常生活が困ることなくできるようになった。この時はものすごく安心した。

名古屋で多くの人に出会い、支えられて

名古屋では、皆さんに限りを尽くして歓迎された。AJU自立の家の山田昭義専務理事の声かけで、愛知県や名古屋市それぞれの自治体をはじめ、地域のボランティアの方々に心ゆくまで、温かい援助の手を差し伸べてもらった。

そして気がつくと、1年以上もお世話になっていた。お世話になった恩返しに、どのようなお礼をすればよいのかわからなく、心苦しくて山田専務理事に相談した。山田専務理事からは「地元被災地の障害者は今困っているのだから、当事者と一緒になって復興の仕事をしろ」と励まされ、一瞬光明が差して目が覚めた。AJUで学ぶことがたくさんあるから勉強するようにと言っていただき、それからはDPI日本会議の全国沖縄大会や、JDFの集会にも参加させてもらうなど、これまで歩んできた人生が180度変わるほどの体験をすることができた。

3.11は未曽有の大震災で、今もなお生活は十分ではない。しかし、この大震災がなければ叶うこともない巡り合いが何度もあった。多くの方々に物心すべてにお世話になり、勉強もさせていただいた。私はこの出会いを一生大事にしたいと決めた。

再び仙台での生活

私が仙台に戻るきっかけになったのは、山田専務理事の働きかけがあったからだ。AJU自立の家と姉妹施設でもある仙台の「社会福祉法人太白ありのまま舎」への就職の話が実現し、昨年4月から働いている。現在は、当事者が運営する事業所設立の業務に加えさせていただいている。

仙台でも大震災の傷跡はそこかしこでまだ癒えていない。

今回の住居探しは以前にも増して困難を極めた。結局、車いす常用の身であるが、玄関に3段の階段がある物件でも契約せざるを得なかった。市内から離れたところに条件に合う物件があったが、移動での利便性を考えてここに決めた。そのため、朝家を出る時と家に戻る時は、毎回ヘルパーさんに連絡をして2メートルほどのスロープを設置してもらっている。

障害程度区分5と要介護度4の1日の介助支給量は、生活と身体介助込みで3時間半。この時間に満足していないし、足りない。何かあったらどうなるのだろうかと不安になる。その上、介護保険該当になり、応益負担も加わり、当たり前の生活ができなくなっている。復興復旧が進んだ暁には、誰もが自分が希望する地域で普通に生活することを勝ち取りたい。

(こまつせんきち 社会福祉法人太白ありのまま舎)