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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

ワールドナウ

香港とインドでの二つの手話言語学会

森壮也

手話についての国際学会と手話通訳

2013年1月30日から同2月2日まで香港において、第3回アジア手話言語学およびろう教育国際会議が開かれた。同会議を主催したのは、香港中文大学である。同大学は以前、国際的な手話の言語学会であるSLLS(手話言語学会)の大会に相当するTISLR(手話研究の理論的課題についての会議)の次回大会開催校に立候補していたものの、手話通訳の養成などが間に合わないことを理由に辞退していた(同会議の次回大会は、2013年の7月10日から13日にユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で開催されることとなった)。

ろう者や手話に関わる国際会議における手話通訳の問題は、非常に大きい。2010年に米国パデュー大学で開催されたTISLR第10回大会においては、6万米ドル(日本円にして570万円)が大会の手話通訳のためにかかっている。こうした国際会議では、会議の公用語のすべてに対応して手話間、そして音声/手話言語間での手話通訳が必要となる。そのために支出される金額は、聴者だけの音声英語による学会とは異なり、このように大きな金額になってくる。これは逆に言うと、聴者だけが参加するという学会では、この費用を負担しないことで、ろう者を締め出してしまっているという言い方もできよう。

一方、こうした多額の費用の問題は多くの議論を引き起こす。通訳のためにこれほどの費用を費やすのが果たしてフェアなのかという問題である。もちろん、ろう者と聴者の参加者の間での議論を促すために必要である一方、学会参加費も高額になるため途上国からの参加者には壁となる。また香港でもそうであったように、アメリカ手話やイギリス手話といった世界の手話の中で強い言語となっている手話での通訳のみが提供されるが、それがフェアなのかという問題がある。

実は同年、2月5日から2月9日にかけてインドのゴアで開催されたSIGN6という会議では、香港での会議と異なり、こうした手話通訳を一切置かなかった。こちらでは公用語は、二つの手話に限定される。すなわち、開催国の手話(今回の場合、インド手話)と国際手話の二つである。音声言語は一切使われない。発表も質疑もすべてこの二つの手話のみで行われる。この二つの手話間での通訳は、全体会でのみ行われるというやり方である。この場合、学会の登録料や補助金等は、通訳ではなく、会議そのもののために費やされる。またSIGN6では、先進国と途上国からのそれぞれの参加者には、前者についてより割高の参加費を請求する形で、途上国からの参加者の支援も行うというルールを採用している。学会参加費自体もリーズナブルな額に収まる。

多数の手話と手話通訳

再び香港での会議の話に戻ろう。同会議では、公用語は音声英語、香港手話、そしてアメリカ手話の三つの言語であった。これらの通訳に関しては、大会実行委員会が費用を負担した(非常に多額の費用がかかるため、現地だけでなく、日本の財団などからも支援を得ていたようである)。

同会議は実は、20か国以上の国から220人以上の参加者を迎えており、これらの国々の一部は自国から手話通訳を同行していた。また、ろう者や通訳者については会議の参加費を免除するという方法がとられていた。こうした制度を利用して、香港手話、日本手話の他、フィジー手話、インドネシア手話、スリランカ手話、台湾手話、中国手話、フィリピン手話、ミャンマー手話といった多種多様な手話通訳がミニ世界ろう者会議ばりに観客席のあちこちで見られた。これらの通訳者への通訳謝金は支払われていないが、大会通訳コーディネーターが毎朝開始前のミーティングでの情報提供をはじめ、発表資料の事前配布や水などのサポートをしていたのが印象的であった。

言語と教育

香港の会議は、前半が言語学の議論、後半がろう教育、特にバイリンガル教育についての報告という構成であった。紙幅の関係ですべての議論を紹介することはできないため、基調講演のみを紹介する。

最初の基調講演は、ギャローデット大学言語学部のゴーラブ・マーサー准教授による講演である。マーサー准教授は、これまでの手話の音韻論で議論されてきた手型、位置、動きといった音韻パラメーターの見直しについて報告した。認知の実験の結果、たとえば、手型のうちU手型とV手型は、言語的な最小対立(ミニマル・ペア)をなすと見るべきなのか、それとも、これまでパラメーターとして考えられてきた要素のさらに細かい素性と考えるべきなのかという問題である。言い換えると、手話の音韻の「基本的」単位をどこに置くべきなのかという問題である。

先行する情報が次に提示される情報の知覚に正の影響を与える場合、心理学でこれをプライミング効果と呼ぶが、これを利用した実験が行われた。すなわち、異なる人物が提示する二つの連続した手話の語彙にないパターンを観察した時に、被験者がどのような認知上の特性を持つのかを観察するという実験を行なった。提示されたパターンはすべて手話ではないため、二つの手話の異同の判断で語彙的な知識は使えず、音韻的な知識を活用しながら判断をすることになると想定された。いわば、手話についての言語的な知識(音韻的な知識)が認知にどのような影響を及ぼすのかを調べようとしたものである。手話の言語学の知見と心理学的な実験手法とをうまく融合させて、脳の中の手話の言語的な位置づけを明らかにしようとする興味深い研究である。

2番目の基調講演は、ハンブルク大学のクリスチャン・ラトマン教授が行なった。ラトマン教授は、同大で現在進行中のドイツ手話コーパス・プロジェクトを紹介した。ドイツ国内の12の地域から注意深く(ろう団体のような団体を通じての抽出ではなく)手話コミュニティーの中のリソース・パーソンを通じて抽出された330のインフォーマントによるデータによってコーパスが作られたことを紹介した。先行するイギリスやオーストラリアのコーパス・プロジェクト担当者からも、その注意深い作成プロセスには賛辞が送られていた。

最後の基調講演は、オランダ王立聴覚障害センター/ラドバウンド大学ナイメーヘン校のハリー・クノーズ教授によるものである。人工内耳の子どもたちが増えてきている状況の中で、持続可能なバイリンガルろう教育を求めようとするものであった。人工内耳の使用によって手話の使用が減るという危機感が当初はあったが、人工内耳装用児でも手話の継続使用によってむしろ教育効果は上がること、またろう児の状況に合わせてバイリンガル教育も多様な選択肢が用意されるべきことを、オランダでのデータに基づいて示した。しかし、まだオランダであってもこうした子どもたちが出現してからそう年月が経っているわけではなく、さらなる研究が今後必要なことも指摘された。

最後に

香港会議では、この他、手話学分野から5つ、ろう教育分野から5つの招待講演もあり、多くの議論が交わされた。壇上発表も27、ポスター発表が32あったという。日本からも壇上発表が、手話学分野で成蹊大の佐々木大介氏による北朝鮮手話についての紹介、ろう教育分野で兵庫教育大の鳥越隆士氏から、地域校でのインクルーシブ状況下の難聴児の手話学習プロセスを追跡した報告がなされた。ポスター発表では、桜美林大の佐々木倫子氏と鈴木理子氏による携帯電話を利用したろう児の識字向上プロジェクトの報告、英UCLAN院生の相良啓子氏による日本手話と中国手話の数詞の比較報告があり、数はまだ少ないが日本勢も活躍していた。この会議に見られるように、手話やろう者についての国際学術会議、通訳費用の問題はあるものの、アジア地域でも着実に裾野が広がってきている。いつかわが国でも同様の会議が開催されることを最後に期待したい。

(もりそうや 日本貿易振興機構アジア経済研究所主任研究員)