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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年11月号

証言3.11その時から私は

「子どもの命を守り育てる」学校の使命

片岡明恵

1 東日本大震災と石巻支援学校

2011年3月11日。地震が起きた14時46分。子どもたちは卒業証書授与式を終え、全員家庭に帰っていた。通常の学校生活であれば、8割強の子どもはスクールバスに乗車し、津波に飲み込まれた地域を通っていた時間だ。午前授業だったことが幸いした。本校には地域の方や帰宅困難の方々が詰め掛けてきたため、避難所として開放することになった。校長の「学校は地域と共にある」の理念による判断があった。

2 学校生活が閉じられた子どもたちの61日

学校は震災翌日から、避難所運営と子どもの安否確認・心のケアを並行して行なった。この時、石巻圏域は「停電・断水」「食料難」「燃料不足」「情報難」と何もかもが不足していた。学校周辺では「冠水」「道路損壊・家屋破壊」「地域壊滅」と信じられない光景があった。

そのような中で非常時を感じた子どもたちは、親に心配をかけまいと落ち着いて過ごしていた。しかし、1週間が限界。頭を叩き続ける子、奇声を上げる子、腕をかきむしり化膿させる子、肺炎になる子、食欲不振から体重が激減する子、さまざまな退行現象を起こす子どもたちが現れ出した。それに伴い、保護者の憔悴感も大きくなった。給水車が来ても、スーパーが再開しても、長蛇の列に並ばなければならない生活はさらに親子を苦しめた。また環境の変化が苦手な子どもたちにとって、見慣れた風景が一変したことは恐ろしい不安となって襲い掛かっていた。家から一歩も出られなくなった子ども、外を見ては嘔吐する子どもが出てきた。

家庭訪問の報告から以上の状況が分かり、定期的に保護者と子どもの心のケアを行うことを決めた。さらに、学校は「すべて通常どおりの状態」を確保してから再開することが決まった。これ以上、いつもと違う状況の不安感を味わわせないための策だった。そのため1.バス路線の構築と安全確認、2.完全給食の実施、3.医療的ケアを行う看護師の確保、が喫緊の課題となり、校内プロジェクトチームが組まれた。

そして2か月後の5月12日、学校が再開された。学校が再開すると、子どもたちはみるみる元気になった。心と身体を開放できる場は子どもにとってのライフラインだと感じた。教職員にも笑顔が戻り、保護者も元気になり、学校周辺の地域も明るくなった。通常の教育活動が持つ大きなセラピー的効果を目の当たりにした。そして、教師としての責任と喜びを自覚することにもなった。

3 震災体験による子ども・避難者・保護者の心と学校体制の変化

子どもたちは亡くなった友達を思い「友達のイニシャルを刻んだネックレスを作りたい」と申し出、胸に下げた。そして何をするにも一丸となり、友達の分まで熱く活動する子どもの姿があった。

学校に避難していた一般の方々は学校の清掃に来てくださったり、運動会等の応援に来てくださったり、学校や子どもたちの良き理解者となり支えてくださっている。

保護者はこれまでの「わが子は自分たちで育てる」の考えを改め、地域に対する障害理解啓発のための運動を始めた。さらに保護者同士が手を取り合おうと、週に1回、自由に集まり情報交換する部屋を作ったり、父母教師会活動の見直しを図ったりした。

学校は、1.災害時に必要な物品の購入、2.児童生徒・教職員全員と地域の方50人の水と食料を3日分確保、3.慌てず迷わず対応するための危機管理マニュアルの全面見直し、4.地域別児童生徒と担当教員の名簿作成、5.個別の教育支援計画にSOSシートの付け足し、6.スクールバス運行時間中の避難場所一覧表作成、7.居住地域での避難先と連絡先3件(携帯電話)を明記した災害用児童生徒名簿の作成、8.実際的な避難訓練、9.「保護者」「学校」「福祉サービス」「行政」が会するケース会による関係者の連携体制作り、10.地域の小・中・高等学校に対するセンター的機能発揮による連携強化、に取り組み、今も継続している。

4 再生に向けてこれから大切なこと

大震災を機に「自助・共助・公助」の必要性が叫ばれている。何よりわが身を守る術を身に付けることが必要だ。反射的に体が動くまで学習させたい。ゲーム感覚で机に潜ってみたり、目標物まで一目散に移動してみたり、手つなぎリレーのようなゲームを通して他者と共に行動できるようにしたり、訓練ではなく、日常的に当たり前にしておくことが大切である。また、相手に気持ちを伝える方法を学習することも必要だ。携帯電話やタブレット端末、カード等で確実に伝える方法を生活に取り入れることで、非常時にも使えるようにしておく必要がある。

石巻の雄勝という地区では、障害者の犠牲者がなかった。普段から障害のある方を含めた避難訓練をしていた結果である。また直接関わりがなくても、毎日近所を散歩することを日課にしていた障害のある方は、地域の方にいち早く助けてもらうことができた。地域に知ってもらうことも自助の一つになる。自分で身を守る方法と、自分を助けてもらうための両方が獲得できる教育計画を立てなければならない。

石巻の学校は、地域や保護者と共助のより良い策を探り始めている。さらには、行政と共助のためのシステムを考え始めた。学校は「子どもの命を守り育てる」使命を果たすために、教職員全体の具体的・組織的行動力を高め、震災からの学びを未来につなげていくことが使命だと考えている。

(かたおかあきえ 宮城県立石巻支援学校教諭)