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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年11月号

文学やアートにおける日本の文化史

田村一二と一麦寮における粘土による造形の実践

吉永太市

一麦寮とは

一麦寮(いちばくりょう)とは、昭和36年(1961年)滋賀県大津市に創立された知的障害児施設である。設立時は、障害児の中でも年長の男子のみを対象とする施設として出発している。定員は50人、後に昭和49年、児童施設から成人施設に変更され、この時、定員は50人のまま、その中に女子を含めることになった。

設立者は田村一二(いちじ)で、田村は戦前、京都の小学校で特別学級の教師として早くから知的障害児教育に携わった数少ない実践者であった。

田村は、特別学級において、独自の自由で、開放的な教育を展開した。当時、その実践をもとに書かれた著書「手をつなぐ子等」や「忘れられた子等」などは、知的障害児を世人に知らしめるための啓蒙書としてベストセラーになり、世に大きな影響を与えている。

昭和19年、戦争の激化に伴い、特別学級の閉鎖にあい、滋賀に移り、石山(いしやま)学園を設立、子どもたちと寝食を共にする教育を始める。食料物資の不足の中で、子どもたちと自給自足の生活をし、生活即教育の実践をする。

石山学園は短期間で終戦を迎えるが、戦後の復興は教育からと、糸賀一雄(いとがかずお)、池田太郎など京都時代の友人にはかり、近江学園を設立する。近江学園は、戦災孤児と知的障害児を対象にしたが、田村は多年の経験と、優れた指導力をもって他に類例をみないような独創性に富んだ教育を展開した。

田村が重視したのは、教師の一方的な知識の注入ではなく、師弟同業の作業活動を通し、体を通すことを重視する教育であった。

田村は、本人自身画家であり、優れた美的感覚をもち、発想力にも優れていた。そして、その優れた能力は、学園の教育に、演劇活動や絵画、工芸の導入によって遺憾なく発揮された。

近江学園での教育成果はめざましいものがあり、戦後に、わが国に設けられた知的障害施設の模範となり影響を与えるところ大であった。その近江学園から、年長の児童を独立させ、設立されたのが一麦寮である。

一麦寮が目指したもの

一麦寮開設の当時、知的障害児に対する理解は、学会でも、教育現場でも低かった。障害に対する真の認識を欠いていた。全体に子どもの自発性は全く認められていなかった。

子どもの自立とは、いかに一般に近づけるかということが重要課題であり、能力とは、いかに一般に到達できる力があるかで評価された。障害児は、他律によってのみ行動できるという障害児観が支配的であった。

障害児教育の方法は、一般に近づけるため、一般の行動様式の程度を低めて、それを反復練習させ、形だけは一般に似たものにし、社会適応させることを課題としていた。

田村は、そのような教育のあり方に疑問をもち、受け入れることができなかった。いかなる障害児にも、その子なりの自発的な行動があると信じていたし、いかに重度の障害児でほとんど行動を外に表さず、表情すら変えようとしない子どもでも、その内面では大きな動きが起こされているような気配が感じられるのだった。彼らの能力を外面だけから批判することはできないと考えた。

そこで、田村は彼らの内面にあるものに関心を向け、内面にあるものを外に引き出そうと考えた。

子どもの内面を外へ引き出すためにはいろいろなことを試みた。結局、それには「火水木金土」といった、自然の元素といったものの力に頼るしかなかった。そのような元素を媒体に使って、内面にあるものを外に引き出せることを突きとめたのである。そこで、元素の中でも、子どもたちに最も近い「土」と「水」で試そうと試みた。そのために田村は、2年の歳月をかけ、自力で粘土室とプールを建設した。

1万円のニセ札より、1円の真貨を

田村が求めたのは、障害児の中の秘められた能力であり、子どもが自力で何ができるかということであった。それは、子どもの真の姿を見ようとしたのだった。

一般のあり方に似せて、他からの力でいかに立派に変えられようとも、それはニセものの子どもであり、歪曲されたものだと考えたのだ。借りもので立派に見せかけるよりも貧しくともあるがままであることを尊いとしたのである。田村は、そのことを「1万円のニセ札より、1円の真貨を」と喩(たと)えた。

この言葉こそが、田村が抱いた基本的な教育理念であった。そして、土によって、子どもの真の姿を引き出そうとしたのである。

粘土活動の開始

一麦寮で、粘土活動が始められたのは昭和40年6月。当時、他の施設でも粘土の活動を行なっているところは多かった。しかし、たいていの施設で行われているのは茶碗や壷(つぼ)といった既存のものの模倣であった。

田村は、既存のものには一切関心を示さず、子どもが直接、土と関係をもてるようにし、子どもの方から何かを始めるまで一切、教師の介入を許さなかった。指導、誘導を避け、子どもの自由に任せた。子どもが土とどのような関係を結ぶかを静かに見守ることにした。そして、子どもがどのような行動を起こそうとも、受け入れた。実際に始めてみると、子どもたちは千差万別さまざまな行動を起こした。土を体に塗る、食べる、投げる、作る、すべての子どもが土に興味を示して、積極的に土と関係を結んだ。

子どもはひとたび興味を覚えると、昼夜の別なく、粘土室に来て、土との活動に興じた。粘土室に子どもの姿が絶えなかった。活動を始めて半年後頃、以前から指導を受けていた八木一夫(やぎかずお)氏(戦後の造形のパイオニアと呼ばれていた陶芸家)の来訪があった。八木氏は子どもたちの作品を見るなり「これは脱帽や」と大変評価し、すぐ展覧会を開こうと言った。

教師たちは、子どもたちの作品に魅力は感じていたが、八木氏の評価は意外であった。それぞれの作品が個別性を際立たせ、独創性の強いものであったが、それまで存在しなかった形をとっており、美的評価を下すことはできなかったのである。それに、展覧会を開くとなると、世に通用するのかということも心配であり、たかだか半年の活動で子どもたちの活動の片鱗に触れたに過ぎず、自信のないことであった。

結局、活動開始から1年も経ずに「一麦寮生作品展示即売会」を大阪の阪神百貨店で開催することになった。開いてみると、展覧会は盛況であった。来会者は、この世に初めて出現したような作品に衝撃を受けたと言い、エネルギーを感じると言って大変な評価をした。このことは、八木氏の評価と合わせ、一麦寮の子どもや教師を驚かせた。教師の価値観の変更を迫るものであった。

来会者の中には、展示会場の不適さを指摘する人があり、自分の会社の東京の八重洲にある社屋を展覧会の開催に提供しようと申し出る社長もあった。好意ある社長のお陰で昭和44年から昭和58年まで12回、東京で展覧会を続けることができた。ここでも多くの人々の注目を集めた。昭和52年開催の時には、岡本太郎氏や井上有一氏などの来会があり、高い評価を受けた。

これらの展覧会は、子どもの能力を発見していくためには非常に有効な機会となったし、子どもの創造活動を助ける場作りに多くの示唆を与えてくれたのである。そして、何より社会の受容力の大きさが子どもたちの創造活動の進展を促したのである。

子どもたちは自らの創造活動を進めながら、子ども同士の人間関係をつくり、子ども相互の関わりは、創造への意欲を高めているようであった。そんな彼らからは無限に新しい表現が現れるのであった。それは、こんこんと水が湧(わ)き出る泉のようなものであった。豊かに湧いて尽きなかった。興味がわけば一つの作品を完成するために、三日三晩不眠で続けることもしばしばあった。そんなところに知的障害の子どもたちの自発性を認めたのであった。そして、それは彼らの中に無尽蔵の可能性があることを信じさせたのである。

(よしながたいち 元一麦寮長、田村一二記念館代表)