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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年11月号

追悼

板山賢治さんを悼んで

藤井克徳

直入、果敢、闊歩、情感、戦略、これらを綯(な)い交(ま)ぜにし、かつ在野性を滲ませることも少なくなかった板山賢治さんであった。そんな印象を残したまま、去る9月22日の早朝に忽然(こつぜん)と姿を消してしまったのである(享年87歳)。訃報に接した折に、誰もが去来したのは「まさか」ではなかっただろうか。

本年7月上旬の検査入院が、復調を許さなかった悪性疾患発見の契機になったと言う。「まるで坂道を転げるようにして逝ってしまいました」、静かに語る奥様の言葉に急変ぶりがうかがえる。告知の受け入れ、入院してすぐの手術、そしてホスピスで迎えた最期等々、波乱と多岐の長き生涯を顧みるにはあまりに猶予がなさすぎたように思う。

板山さんと言えば、「型破り」の称号が似合っていた。自身の口からも、「まっとうな事を言うと変わった奴だと言われた。それを型破りと言うのであれば大いに結構」と役人時代を回顧していた。

当時の障害者福祉政策の総元締めであった厚生省更生課長(現在の障害保健福祉部企画課長)時代を含めて、板山さんとぶつかることは二度や三度ではなかった。押し切られたにせよ、説得できたにせよ、後味の悪さは記憶にない。事なかれ主義を排した純粋な論理のぶつけ合いだったからに他ならない。板山さんの中の「型破り」とは、改革、創造、そして当事者本位と同意義だったのかもしれない。「型破り」は民間に移ってからも衰えることはなかった。

そんな板山さんの遺稿となったのが、先の本誌2013年9月号の掲載稿であった。この号の特集テーマとなった「民間活動と助成財団」は板山さんの発案であり、巻頭小論の依頼にも快諾を得ていた。術後に書き始め、ホスピスで書き上げたのである。病魔との闘いが厳しさを増す中、推敲を長女の亀山章子さんとの二人三脚(口述筆記)で重ねてくれた。元の原稿には、冒頭に「遺稿になるやもしれない」とあった。もはや特集テーマを超えての万感を込めた執筆になったに違いない。本誌の前身である「障害者の福祉」の産みの親が板山さんであったことを合わせみれば、遺稿が本誌掲載となったのは偶然とは思い難い。

最後に連絡を取ったのは、亡くなられる10日ほど前だった。花田春兆さんの米寿を祝う会の呼びかけ人を依頼したのだが、電話口で間に入ってもらったご家族を通してすぐさま了解する旨の返答があった。祝い事が大好きで、なお明日を信じてやまない板山さんらしい応対ぶりだった。「あとは君たちに託したぞ」、活舌のいい板山さんの声が耳元から聞こえてきそうだ。安らかにお眠りください。

(ふじいかつのり 特定非営利活動法人日本障害者協議会常務理事)