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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年1月号

文学やアートにおける日本の文化史

「障害」がもつ「豊かさ」を発信しよう!

北岡賢剛

はじめに

2013年9月に公表された「平成26年度厚生労働省障害保健福祉部概算要求の概要」に「障害者の芸術活動支援拠点モデル事業の実施」が盛り込まれた。この事業は、障害のある人たちの芸術活動を支援するためのモデル事業を全国8か所に展開し、そのノウハウを蓄積することで更なる芸術活動の推進を図ることを目的としている。

事業内容として示されているのは、1.障害者の芸術活動に関する相談支援、人材育成等2.障害者の優れた芸術作品の展示等の推進3.関係者のネットワーク構築である。約30年間障害のある人の芸術活動の支援に関わってきた私は、国の制度に彼らの芸術活動支援が位置づいたことに興奮と安堵を覚えた。

この時期を遡(さかのぼ)ること3か月前、関係者にとって大変嬉(うれ)しいニュースが届いた。滋賀県のアール・ブリュット(※1)作家(と言っていいのだろう)の澤田真一さんの作品が第55回ヴェネチア・ビエンナーレの国際美術展に招待されたのである。ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネチアで1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会である。毎回80を超える国と地域が国単位で参加するため「美術のオリンピック」とも称される。そこに障害のある青年が制作した作品が招待された。このことも先述した「モデル事業」計上への追い風となったことは言うまでもない。

さて、今回の寄稿依頼は「文化史」の側面から障害のある人の芸術を取り巻くこれまでの活動を紹介せよとの内容であった。しかしながら、私は文化史の研究者ではないので、事柄の全容を順序立てて書き記すことが叶わないことをご容赦いただきたい。

本稿では、私たちが実践から得た知識と経験を材料に、障害のある人の芸術活動に関するこれまでの歩みと現状について紹介することとしたい。

滋賀で取り組まれた障害者の造形活動

滋賀県では、近江学園の創立(1946年)以来、多くの施設で陶芸を中心とした造形活動に熱心に取り組んできた歴史がある。1955年に発行された美術手帳の臨時増刊「ちえのおくれた子らの作品」をはじめ、関連する写真集等の書物も出版されてきた。これらの作品群の中にも、アール・ブリュットと呼ばれる作品が数多く含まれていたであろう。しかし国内では、作品の魅力に対して美術関係者の反応は部分的であり、一定の評価を受けながらも美術の枠外として整理されてきた歴史があった。理由はさまざまあるが、その一つとして、これらの作品の研究者がほとんど存在しないということがあり、作品を評価することについて、美術館では消極的な印象があった。

当法人は、2004年にボーダレス・アートミュージアムNO―MA(以下、「NO―MA」という)を開館した。そこでは、障害の有無を越えて人が持つ「表現をすることの普遍的な力」を感じていただく場を目指し、これまでに50本を超える企画展を実施してきた。従来の美術館とは趣を異にして登場したのであるが、滋賀県内で取り組まれてきた造形活動の積み重ねが何よりの礎となった。

海外の美術館との連携

NO―MAの誕生から1年半が過ぎた2006年1月、私はプライベートでスイスのローザンヌに出かけた。アール・ブリュット作品を世界でもっとも多く収蔵していることで有名なアール・ブリュット・コレクションの当時の館長であるリュシエンヌ・ペリーさんに会うためだった。私は、障害のある彼らが生み出す作品の中に、とてつもなく心を揺さぶる作品があることに気づき、それを純粋にアートとして世に発信したいとさまざまな美術関係者に話をしていたところ、アール・ブリュットの概念と、アール・ブリュット・コレクションを教えられたのだった。

日本の現状を何とか変えたい、日本でも「アール・ブリュット」という概念を持って紹介されることによって彼らの作品の魅力が正当に評価されるのではないか、そういう思いが私をスイスに向かわせた。海外で美術としての評価を受ければ、障害がある人たちへの見方が変わる、そんな思いもあった。作品や図録など、持てるだけ持って先方とは約束もせずに飛んでいった。

結果として、ペリー館長から日本の作品は高い評価を受け、2008年にスイスと日本両国でアール・ブリュットの連携企画展を開催するに至った。また、この時スイス側で開催された展覧会「ジャポン展」がきっかけとなり、2010年にはパリ市立アル・サン・ピエール美術館で日本の63人のアール・ブリュット作品による「アール・ブリュット・ジャポネ展」が開催された。同展には12万人という多くの人が足を運んだ。日本のアール・ブリュット作品が、ここまで大規模に紹介されたのはこの展覧会が初めてであり、わが国のアール・ブリュットの歴史においても貴重な出来事となったと言える。

その後、さらにヨーロッパの数か国から日本のアール・ブリュット展開催のオファーがあり、2012年はドルハウス美術館(オランダ)で、2013年にはウェルカムコレクション(イギリス)で展覧会が開催された。そして、今年の4月にはスイスと日本の国交150周年記念に合わせて、スイスのラガーハウスミュージアムで日本とスイスのアール・ブリュット作家による展覧会が企画されている。

パリでの展覧会以降の日本

パリでの展覧会以降、日本でもここ数年アール・ブリュットを取り巻く状況が大きく変わってきている。2011年に幕を閉じたアール・ブリュット・ジャポネ展(パリ)が、美術館連絡協議会(事務局:読売新聞)の主催によって日本国内の公立美術館を巡回し、各館で好評であることや、NO―MA以外にもアール・ブリュットの紹介を中心に据えた美術館(展示スペース)が全国に開設されてきている。

さらに、2013年に入りアール・ブリュットを支える動きが一層広がった。2月にアール・ブリュットを支える環境の底上げを図ることを目的とした全国ネットワーク「アール・ブリュット ネットワーク」(事務局:滋賀県、滋賀県社会福祉事業団)が発足し、初代会長に現文化庁長官の青柳正規氏(当時:国立美術館理事長)が就任した。4月には「障害者の芸術文化振興議員連盟」が超党派で設立された。これに伴い、6月に「障害者の芸術活動への支援を推進するための懇談会」が文部科学省(文化庁)と厚生労働省との共同で開催された。同懇談会での議論を経て事業化されたのが冒頭に紹介した「障害者の芸術活動支援拠点モデル事業」である。

また、懇談会での議論を受け、文化庁においても「戦略的芸術文化創造推進事業」が概算要求に盛り込まれた。この事業の概要にはこう記されている。「国が芸術文化振興上、推進することが必要な事業(障害者の芸術活動や離島山村での鑑賞機会提供など)について公演・展示等の要件を国が示し、芸術団体等からの企画提案を募って実施する。」と。文化政策の観点から彼らの芸術活動振興が必要だと記されたのである。最初にスイスに赴いた頃には想像もしなかったことだ。

「障害」がもつ「豊かさ」への共感

いささか駆け足にはなったが、私から見た日本のアール・ブリュットのこれまでと現状を紹介した。冒頭にも記したが、私は約30年間障害のある人の芸術活動に関わってきた。なぜ、ここまで長い間、時にはアポなしで海外の美術館に訪問してまで彼らの芸術活動の支援にこだわってきたのか。

戦後の混乱期に近江学園を創設した糸賀一雄の言葉を引く。「この子らは、どんなに重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。(中略)『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を、求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。」

「障害」は時に、マイナスのイメージを持たれることがある。しかし、そうではないということを彼らの作品から教えられた。「障害」とは、多くの人たちが持っていない「才能」にもなり得ること、何かが「欠損」しているということは、一方で多くの「豊かさ」を持つということなのだと。そして、その「豊かさ」により多くの人が共感しその輪が広がることが、誰もが暮らしやすい社会の形成に必要だと私は考えている。

これまでの国内外での取り組みに国も大きく反応してくれた。さあ、次はまた私たち実践者の出番である。

(きたおかけんごう 滋賀県社会福祉事業団理事長)


※1 伝統や流行、教育などに左右されず、自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した芸術。フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffe 1901-1985)によって考案された概念である。