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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年8月号

選手・関係者からの声

障がい者スポーツ選手の育成

三井利仁

私が障がい者スポーツに出合ったのは、今から30年前の大学3年の社会体育実習で神奈川県リハビリテーションセンターに伺った時だった。当時、私はアメリカンフットボール部に所属し、学生日本一を目指してトレーニングを行なっていた。そこでの経験を就職した東京都多摩障害者スポーツセンターで、1992年のバルセロナパラリンピック大会に向けて、多くの車いすランナーにウエイトトレーニングを中心とした指導を始めたのが障がい者アスリートへのコーチングのスタートであった。当時は、障がい者スポーツに関する教科書もマニュアルも無く、大学時代に自分が経験してきたトレーニングを真似していただけである。

その後、長野パラリンピックの開催が決まり、本格的な動作解析、酸素摂取量測定を職場で行えるようになり、多くの選手の基本的な技術解析を実施して、1996年のアトランタパラリンピックでは、畝(うね)康弘選手が当時の世界新記録を塗り替え、1998年長野では多くのメダリストを輩出したのである。

私が心掛けたことは、選手たちが毎日、競技を中心とした生活に移行しやすいように通学、通勤前の時間帯に練習を行い、選手と共有できる時間帯を確保し、毎日、練習を行なったことである。やはり、練習量を確保することが最も大切であり、その時間を共有することで、競技力が向上する。これが簡単なようで非常に難しいテーマである。この練習量という部分には「障害」というものは一切関係なく、この基本的な価値観を共有できる選手に多く出会えたことが私にとっては大きな財産であろう。

そして現在まで、車いすの駆動技術の研究、暑熱環境下での生理的変化の研究などを行い、世界で戦える選手育成をサポートし続けている(写真)。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真はウェブには掲載しておりません。

特にコーチングで難しかったことは、なぜ、頸髄損傷者は心拍数が上がらないのか、なぜ、血中乳酸値が上がらないのかなど、今では理解しているが、30年前は理解できなかった。車いすの構造も分からず、初めて参加した国際ストークマンデビル競技大会では選手とお金を出し合い、海外の強豪が使用した車いすやカーボンディスクを購入し、研究を行なったのである。いかに車いすと人間をマッチさせ、加速するのかなど、多くの疑問点を解明することに時間を費やしたが、いまだに、不明な部分が多いのが現状である。これから2020年に向けて多くの研究者と選手が一緒になり、一つでも有効な情報を発信することが必要である。

(みついとしひと 和歌山県立医科大学げんき開発研究所副所長)