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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年12月号

権利条約の国内実施のために何が必要か?

棟居快行

はじめに

2014年も暮れようとしている。昨年6月の障害者差別解消法(以下「差別解消法」という)の成立を経て、今年1月にわが国がようやく権利条約を批准できたという意味で、今年は記念すべき年であった。しかし、障害当事者や関係者には、過去を振り返って感慨にふけっている暇はないであろう。2016年4月に(その大半が)施行される差別解消法の実施に向けて、いよいよ残り時間が少なくなってきているからである。もちろん、内閣府の障害者政策委員会をはじめ、関係各所で差別解消法に魂を入れるためのガイドライン作りに向けて、真剣な議論がなされているに違いない。しかし、制度というものは、どんな制度であっても、できてしまうと人は安心して、その初心を忘れてしまいがちである。

そこで本稿では、筆者がかつて障がい者制度改革推進会議差別禁止部会(2010年11月から2012年6月まで。7月から12月までは障害者政策委員会差別禁止部会)の部会長として議論の進行をお手伝いした際の経験をもとにして、差別解消法にも継承されているはずの「差別禁止」の法の精神について、基本的な論点に絞って述べさせていただくことにする。

1 「障害」は社会の壁が生み出す

障害者の定義として、障害者基本法第2条は第1号で障害者を「身体障害…その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。」と定義している。そこで用いられている「社会的障壁」については、同第2号では、「障害がある者にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。」としている。

つまり、「障害」それ自体は、手足が自由に動かないなどの機能障害があるという医学的見地を中心とした概念であるが(医学モデル)、「障害者」は障害をもつ人を社会が障壁を設けて排除することで生み出される存在だ(社会モデル)という考えが採られている。権利条約の前文(e)も、「障害が、機能障害を有する者とこれらの者に対する態度及び環境による障壁との間の相互作用であって、これらの者が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げることによって生ずることを認め、」としているように、障害(者)は社会の側が作り出している、という考え方が国際標準になってきている。障害者基本法も差別解消法も、もちろん「社会モデル」を前提としている。

2 障害者差別とは?

これも、権利条約第2条に、目下の国際標準の定義が書かれている。

「『障害に基づく差別』とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。」

この定義文の後半を良く読むと、社会の側が障壁を設けて障害者を排除することで、障害のない者と平等の基本的自由の享有や行使が妨げられることが「差別」とされていることが分かるだろう。つまり、障害者だから、という決めつけ(社会的排除)によって、差別する側が当たり前のように享受し行使している自由が平等には享受し行使可能でない、という点に、障害者に対する差別が存在する。

こうしてみると、障害者を障害のない者とは別のグループとして扱うこと自体が、壁を作っている点で差別に当たる可能性が高い。たとえ、福祉の対象として障害者を「保護」しようとする場合であっても、彼らの自由な自己決定を否定したら、それはもう差別なのである。障害のある者もない者も、同じように個人の尊厳を認められ、自分のことを自分で決め(自己決定権)、自分の自由を行使して自分で思い描く幸福を追求することができるべきである。

3 障害者の自己決定とそれを可能にする合理的配慮

以上に述べた事柄からは、障害者の人権を考えるうえで重要な二つの要請が導き出される。第一は、すでに触れたように、障害者に自己決定権が保障されるべきだ、ということである。障害者差別の禁止は、なによりも障害者が自己決定できるための大前提なのであり、逆に、障害者の自己決定を脅かすさまざまな制度や作為・不作為がすなわち障害者差別なのである。

またいま一つには、障害者が障害のゆえに自分では自己決定を実現することが不可能である場合に、そうしたことが可能であるような条件を社会や国の側が提供すべきだ、ということが帰結される。いわゆる「合理的配慮義務」、ないし「合理的配慮の提供義務」である。

たとえば、レストランが車いす障害者の入店をあからさまに拒否すれば、これは障害を理由に不利益に扱っていることから障害者差別に該当するが、建前としては「どうぞ」と言いながら、店の入り口に階段がありスロープが併設されていなかったらどうだろうか?これまでは、「店構え」はその店の営業政策だから、店の側がどういう設計をしていてもしょうがない、という考えがまかり通ってきた。

しかし、障害のない多くの市民も、自分たちの平均的な身体能力に合わせて店舗や公共施設が作られているからこそ、そうした施設を自由に利用できるのである。超高層ビルで階段しかなければ、ほとんどの人間は高層階にたどりつけない。そこでは、エレベーターは車いす障害者だけでなく、全員の必需品である。障害のない者は無意識に、自分たちの身体能力で足りない部分は社会や国が補助的な装置(今の例ではエレベーター)を提供してくれることを当然の前提にしている。それで、30階のレストランにたどりついて最後に3段のステップが入り口にあったら、障害者は入店をあきらめるしかない、というのはアンフェアだろう。スロープがなくても臨時に板を渡して店員が車いすを押すとか、大抵は裏側にある業務用のエレベーターを障害者が使うことを認めるとか、大抵はささいな融通を利かせれば、障害者がこの店で食事がしたい、という自己決定を実現することができるのである。

先に2で挙げた権利条約第2条の条文には続きがあり、そこでは、「『合理的配慮』とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」とされている。条約締約国は、このような「合理的配慮」が、国と障害者との間ではもとより、レストランなどの民間事業者や障害のない個人と障害者の間においても提供されるように法制度等を設けることを、条約によって義務づけられているのである。

4 差別解消法の成立

こうした合理的配慮の提供義務をどう日本の法体系のなかで保障してゆくか、そもそも合理的配慮とはどういうものか。こうした点を解決するために、差別解消法が前述のように2013年6月に成立した。

この法律では、障害者に対して「障害を理由として障害のない者と不当な差別的取扱いをすることにより、障害者の権利利益を侵害してはならない。」という差別禁止(差別的取扱いをすれば違法となる)の規定を、行政機関および民間事業者に対して設けている(行政機関について第7条1項、事業者について第8条1項)。

また、「合理的配慮」の提供義務については、行政機関については、「……その実施に伴う負担が過重でないときは、……当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない。」(第7条2項)として、法的義務であることを明記した。レストランなど民間事業者については、「……その実施に伴う負担が過重でないときは、……当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなければならない。」(第8条2項)という努力義務の規定にとどまっている。

ただし、国は障害関係者の意見を反映させた基本方針を定めるとともに(第6条参照)、事業者が適切に対応するための「対応指針」を作成し(第11条)、そこに定める事項について民間事業者から報告を求め、指導や勧告をすることができる(第12条)とされており、民間事業者についても一定の規模の店舗などについては、必要な合理的配慮の提供について、ある程度の実質的な効力が期待できる制度設計となっている。

5 民間事業者との関係で「合理的配慮」を実現してゆくためには

民間との関係で、差別解消法では、合理的配慮の提供が法的義務でなく努力義務とされてしまっていることで、失望した障害当事者や関係者も多いことだろう。

しかし、私個人はこの点、楽天的な見通しを持っている。日本社会は横並び意識が強く、また大手の企業は特に信用を重視する。たとえば居酒屋チェーンのどこかが、「私たちは全国の店舗で○○という合理的配慮をしています。障害者の皆さんもどんどんご来店ください」といった宣伝をするとすれば、それに他のチェーンも合わせるしかなくなるだろう。法律で義務づけなくても、社会の視線でおのずとレベルは上がっていくはずなのである。

もちろん、そうした流れを確かなものとするためには、障害者団体が民間での「合理的配慮」として何が望ましいかを、障害の種類や程度ごとに、また事業者の側も費用面などで受け入れやすい内容と水準で、具体的な基準を示すマニュアルを提示してゆくことも必要だろう。そして、障害者団体がこうした基準を満たしている事業者には「認証」のマークを出入り口やホームページに掲げてもらうことで、障害者の側が差別解消法をよく理解している事業者を選ぶことも可能になるし、障害のない者も、事業者のスタンスを知る材料とすることができるわけである。

こうして民間での合理的配慮の水準が上がってゆくと、「法的義務」を課されている国は、それ以上の水準で合理的配慮を提供しなければならないことになる。民間でのレベルアップが、国の制度のレベルアップにもつながるであろう(もちろん本来は国が民間を引っ張り上げるべきである)。

さらに、そもそも差別解消法などの根幹は権利条約なのである。この条約は批准により、すでに国内法の一部になっている。差別解消法の実際の運用が条約の求める水準未満であれば、条約レベルの合理的配慮などを求める裁判があちこちで起こされることになるだろう。

むすびにかえて

障害者に対して障害のない者の側が少しの工夫で「合理的配慮」をすることで、障害者の社会参加をスマートに促進することが、(現時点では)障害のない多くの市民にとっても、暮らしやすい社会の実現につながる。こうした想像力が万人に根付くことが、障害のあるなしを問わずに共生社会が実現することの、成功の鍵となるだろう。こうした啓発活動もまた、障害当事者や関係者の団体に期待される役割であることは言うまでもない。

(むねすえとしゆき 大阪大学名誉教授・前内閣府障害者差別禁止部会長)