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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年11月号

時代を読む73

グループホームの制度化

知的障害者のグループホームは、私が厚生省障害福祉課長の職にあった時に制度化したものである。個人的に強い思い入れがあった施策であり、客観的に淡々とは書けない。

昭和62年9月、私は障害福祉課長に就任した。就任したその日から、グループホームを制度化しようと決めていた。当時、専門官をしていた中澤健さんはグループホームの施策を予算要求しようと課内で孤軍奮闘していたようだが、前任課長に意欲が乏しく、児童家庭局の門さえ出られなかったとのこと。新課長の方針を知って、中澤さんは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、勇気凛々(りんりん)、以後、私と二人三脚でグループホームの制度化に邁進(まいしん)した。

私の前職は、北海道庁福祉課長。北海道内の先進的施設では、グループホームの前身となる試みを独自に展開していた。それを見て、「知的障害者の地域での生活のために有効な施策だ」ということを知った。一方で、知的障害者がいったん施設に入所すると、死ぬまで地域に戻ることができない現実を知り、「これは人権侵害だ」と怒りを覚えた。

障害福祉課長に就任してすぐに、グループホームの実現に邁進したのには、こういった背景があった。昭和63年の全国知的障害者施設長会議では、1,000人を超える施設長を前にして、「施設から地域に出る知的障害者が年間1%しかないというのは、施設の怠慢だ」と檄(げき)を飛ばした。施設から出るには受け皿がいる。それがグループホームであり、「次の一手」はこれだと決意した瞬間である。

まずは、予算を獲得しなければならない。そのための理論武装が必要である。中澤専門官に、予算査定の場で何を訊(き)かれても答えられるように「百問百答集」を作ってもらった。応援団として、審議会の答申も出してもらい、朝日新聞の論説委員の大熊由紀子さんにお手紙と資料をお送りして「今、グループホームが必要」という社説を書いてもらった。

大蔵省主計局の対策としては、グループホームの費用は、施設収容と比べて少なくて済むことを強調した。その際の予算項目名としては、「グループホーム」を使わず、「知的障害者地域生活援助事業」を使用した。決して「ハコモノ」施策でないことを強調したかったからである。

こういった作戦が効を奏し、「地域生活支援事業」(グループホーム)は昭和64年度予算で認められた。予算額は約1億円、全国で100か所である。グループホームは絶対に失敗できない。そのために、事業執行のために各県に宛てた障害福祉課長通知も、別途作成した「運営ハンドブック」もわかりやすさ、読みやすさを旨として、「ですます」調で記述し、「注」もふんだんに付した。

こうして始まったグループホームは、現在は8,500か所を超えている。初年度100か所から始まった事業がここまで発展したことに感無量である。

(浅野史郎(あさのしろう) 神奈川大学特別招聘教授)