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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年11月号

文学やアートにおける日本の文化史

電動車イスで「江戸市中引廻」!?(前編)
―文献で巡る江戸の町―

堀沢繁治

1 はじめに

僕は周産期発症の脳性マヒ、身障手帳は1級、介護保険は「要介護度3」。極小のアパートを営みながら、独居生活を楽しんでいる。生まれた日から地元の小児科医の往診を毎日のように受け、外出が可能になった生後半年から7歳まで広尾の日赤中央病院(旧称)や東大病院に通い、1年の就学猶予を経て、光明小中学校(現・特別支援学校)に入り、地元にある仏教系大学の哲学科に入学を許可された。卒業してから今日まで、在宅を通している。気が付けば読み書きが好きな幼児で、一日中でも机に向かっていたし、現在もその傾向は変わっていない。

「品川・車イス者の生活を考える会」という小さなグループを27年前に作り、月刊の機関誌『車生考』の発行を続けている。初期のころはいろいろな活動を試みたが、次第に機関誌の発行だけに収斂(しゅうれん)させてきた。僕の性格と活動能力の乏しさに因(よ)る。

この9月号(第323号)で「江戸市中引廻」と題する連載原稿が17回を数え、踏査の報告を一応終えた。障害者、特に車イスを使用している者の生活と「引廻」やこの場合の罪人「白木屋お熊」がどのように結び付くのか、はまだ書いていないが、機関誌を送付している本誌から何とお呼びがかかった。そこで、前編で私が電動車イスで廻る意味(義?)を、後編で電車を利用して廻った体験談をご披露したい。

2 会の創設まで

会の設立のきっかけは、品川で訪問看護を「無の状態」から確立させた五指に数えられるS看護師の助言であった。Sさんは父の脳梗塞による後遺症の退院後の往診同行としてわが家を訪れるようになった。

就学前の僕の通院と、養護学校と大学への通学と終日の付き添いで腰を酷使し、家事中心の生活になっても、母の腰痛は悪化の一途だった。父は32年前に亡くなったが、その2年に亙(わた)る看病が一層、母の腰痛を悪化させた。

娘時分から家の中のことはすべて人並み以上に熟せてしまうタイプだったせいか、他人に力を貸してもらうことを極端に嫌い、他人を家に上げることを拒否し続けた母だ。父を見送っても、しばらくは家事一切を、掴(つか)まり立ちをしながら母はし続けた。そのうち室内の移動も困難になり、四つん這いの僕の背中に乗ってトイレなどに行く毎日だった。

父が亡くなったころから、母は毎晩、枕元に大きな金づちと丈夫な腰紐を置いて寝ていた。防犯のためではなく、自分の体力が限界にきたとき、僕を先に殺すために。

本格的に近所の診療所からの、母への往診と訪問看護が始まると、別の医療機関に所属していたSさんはわが家には滅多に来なくなった。

母も亡くなり、重度化して、僕の許(もと)にN訪問看護ステーションから看護師が来るようになるまでは、区立の福祉会館の浴室で入浴介助をし続けてくれた。Sさんは、敏腕で鳴らしてはいても、不自由さが増し、息子の入浴の世話など出来ないのに、眼光鋭く見つめている母の目の前では、どうにもやりにくい、と言って、わが家での入浴介助を渋った結果である。

福祉会館を使う手続きが済むまで、従姉が数回引き受けてくれたが、「叔母さんの見ているところでは、私は出来ないから」と、電動車イスで小1時間掛かる従姉の自宅の浴室で世話をしてくれた。そういう母親であった。

仕事としては縁が切れても、そういう母と息子の生活の危うさを知るだけに、受け持ちの在宅患者の家々を回る途中など、たまにだが、様子を見に立ち寄ってくれた。

彼女はある時「いずれ、あなたは独りになる。そのときには地元の仲間が助けになるから、同じような障害の仲間を募って会を作りなさい。先に殺されなければ」と助言してくれた。

小1から高3まで12年間、進学した者や就職した者はさらに長く、地元の障害者や関係者とは疎遠になる。疎遠というより絶縁に近い。

予想はしていた。会の設立趣旨を地元の関連団体に送ったが、梨(なし)の礫(つぶて)で、総好(そうす)かんを食らった。あとから聞くと、光明学校時代の複数の、遠方に住まう級友たちが、同じような経験をしていたという。

地元で運動団体を組織していた障害者や父兄たちにとって、僕は、鼻持ちならぬ人物、お近づきになりたくない存在と敬遠されていたのだろう。

当時、昭和31年前後、公立の肢体不自由の学校としては唯一だった光明学校の入学試験の倍率の凄まじさが全国紙で「東大」とも「学習院」とも比較表現され、社会的に話題となった。やっかみと羨望、劣等感、拒絶が、会創立の案内の文章を送れば送るほど大きくなっていった。すべては風評の類(たぐい)であり、入学の合否は“運不運”の要素が大きいにも関わらず、だ。

加えて、僕は、何かといえば、すぐに新聞や雑誌、放送局に投稿し、それも、かなり高率で掲載され、興味を持ってくれた記者が駆けつけて取材し、数日中に大きな記事になったり放送で流されたりした。そういうことに慣れていない人たちにとって薄気味悪く映ったに違いない。

紆余曲折して、やっと日の目を見た会の構成員は大別して三種類だった。会創設の記事を見て興味を持った人たち、ある書物の共同執筆者たち、光明学校時代の級友とその知人で固められた。僕が意識的に選択した訳ではない。結果的にそうなったのだが、そのこと自体がまた、地元の障害者運動の関係者から煙たがられる要因になった。

そのことは逆に、機関誌で好き勝手なテーマを書けることを意味する。障害者が主宰する会の多くは、活動や機関誌の記事内容が「福祉」に片寄る。が、僕は光明時代から、社会運動や障害者運動に関わろうという気持ちになれなかった。僕の関心は、たとえば車イスでも、機械としての車イスに注がれていた。

黎明期の電動車イスは、それまであった手動の車イスに自動車用の鉛蓄電池に少し手を加えて搭載すれば良い、と製造業者は考えていたようだ。研究所や実用実験の病院や福祉施設の床では十分に走れても、公道では丁寧に扱っても問題が起こることを次々に指摘した。骨組みと動輪関係はバイクの部品を利用していて頑丈なのだが、キャスターは弱く、町中にある段差や縁石などに引っ掛かると、「グニャッ!」という感じでヒン曲がってしまったり、タイヤのパンクも多発した。そういうことを訴える方が、車イス使用者には大切で有益だと、僕は考えた。

肢体不自由者としての不便さは共有するものの、「養護」も「特別支援」も付かない時代の光明学校に入学したことで、障害者運動を、一歩退いた視点から、客観的に眺めることが出来た。

多くの福祉施策が実現したことの底流に、特に脳性マヒの場合、まさに命懸けの権利獲得のための当事者運動があったことの意義は十分に認めるが、一般的な市民の目には、外見の気持ち悪さや汚さ、普通の一般人にとって、横暴で非常識と受け取られる行動が際立って映る。その上、考え方が過激すぎて一般市民に広く理解してもらえず、かえって新たな偏見や差別の温床を生み、増強に結び付きかねない。そういう危惧の念をもって、光明の校舎の窓から眺めていたのは僕だけではなかったろう。

その見た目の気持ち悪さは、理性を以(もっ)てして消せるだろうか?いいえ、である。

人間が理性的な動物であっても、自分の生命維持や種の保存に関わることにおいては一般的な生物になる。DNAに刻まれ続けてきた設計図に則った本能まで否定すると、古今東西すべての人間存在を否定することになる。肝心なのは、人間というものは、自分と違う形態や生活様式を持った人間を、ともすると差別し、相手の命も奪うものなのだ、ということをいつも自覚して、自制していることにほかならない。

3 小さいのもまた好い

「市中引廻」のコースを辿って、関連記事を書く動機は不純であった。著作権がうるさくなってきて、手続きの面倒臭さも手伝って、原稿書きを出来るだけ僕が一手に担うことにした。

そもそも小さな会であるし、改めて大きくしようという気もないし、そういう能力というか気概にも乏しく、従って、自前の書き手も多くは揃っていないことが理由である。しかし、来るもの拒まずの姿勢は持ち続けている。

僕が母や祖母と違うのは、広く浅い一般的な人付き合いは不得意だが、特定の訪問看護師たちや行きつけの店の店員たちを、とことん付き合う「親友」にしてしまうのが得意だという点だ。その結果として、通常の業務の周辺のことまで世話してもらう「名手」なのである。これは、祖母や母を反面教師として観察してきた結果、得られた僕の世渡り術にほかならない。「生活力」とも言い換えられる。(つづく)

(ほりさわしげはる 「車生考」編集人)