音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年1月号

スタート地点に立った障害者差別解消法

太田修平

差別と遭遇しない日はない

「障害者だから親戚の集まりに行かれない」「障害をもっていると電車やバスに乗れなく、なかなか街に出られない」「障害者だから施設や病院に収容され、毎日自由のない生活を送らされている」等々、障害をもっていると、大きな差別から日常的な小さな差別まで、差別と出くわさない日はない、といっても言い過ぎではない。もし「私はそんなことはないよ」と言われる方がいるならば、楽観的というか、ある意味、鈍感な人なのかもしれない。泣いたり怒ったり、私たちの人生は小さい時からその繰り返しなのだ。

1990年の“ADA”は、世界の障害者にとって革命をもたらした。

日本でも反差別の障害者運動が…

ところで、日本でも障害者が少しでも障害のない人に近づいていくという医療モデル的な古臭い発想の取り組みから、「青い芝の会」などによる差別糾弾型の運動は、70年代に大きなものとなっていった。「障害はあってはならない存在ではない」と訴えた。

そういう反差別的な運動が展開する中で、日本でも差別禁止法的なものをつくっていく必要性が、当事者や関係者の間で議論されていく。私もその運動のただ中で活動していたわけだが、欧米のような“差別禁止法”をつくることは、現実的に難しいのではないか、というような思いを抱く時期が長く続くのだった。

2009年、いよいよ政府によって障害者権利条約批准に向けた“障がい者制度改革”が実行されていく。その改革の目玉のひとつに“差別禁止”があった。

ところで、障がい者制度改革の話をする前提として、“障害者自立支援法違憲訴訟団”が国との基本合意を交わしたという出来事があったことを押さえておこう。

いよいよ差別禁止部会、でも…

「日本で、障害者のアパルトヘイトをなくしたい」。これは第1回差別禁止部会で私が言ったことである。2011年の年末から「障がい者制度改革推進会議・差別禁止部会」がスタートした(後には障害者政策委員会の部会として位置づけられる)。障害当事者の代表が少なく、弁護士や法律の専門家が多く、なるべく発言を多くしようとプレッシャーがかかった。

議論で収れんされていったことは、差別は、障害に基づく「直接差別」だけではなく、車いすだからとか、盲導犬を同伴しているからなどという「間接差別」や、障害者権利条約で示されている「合理的配慮」が提供されないことも入るということであった。

また「差別禁止法制」は、差別を受けたとき、それを被った人がどこかに訴え出ることによって、初めて効力が生まれるものであり、その“どこか”をきちんと仕組みとしてつくっていくことが、とても重要なポイントだということも合意されていった。それを「裁判外紛争解決の仕組み」として位置づけた。

2年近くの部会議論の末、経団連から出ているオブザーバー委員を含めて、全員一致で「障害に基づく差別禁止法制の必要性」を盛り込んだ部会意見を出した。いろいろな立場の人がいるにもかかわらず、よくまとまったものだ。

部会ではまとまったものの、いつの間にか自公の政権に戻ってしまう。これで多くの人々は「差別禁止法制」は消えてしまったと諦(あきら)め気分に陥った。私は与党の有力議員に働きかけを試みた。その影響があったかどうかは分からないが、突然与党が法案を提出し、団体ヒアリングを始めたのだ。決して最後まで諦めてはならない。

期待と不安、そして課題

そして2年前、悲願の「障害者差別解消法」として国会で成立、政府は基本方針を出し、その基本方針のもとに各省庁などで対応要領、対応指針の検討が終わっている。

ただ、国土交通省の対応指針をみると、不当な差別的取扱いについて、その具体例の中に、「障害があることのみをもって、乗車を拒否する」等という表現があり、直接差別のみとも受け取れ、ハンドル型車いす等、車いすの形状によって乗車制限をしている実態から、大きな課題も読み取れる。

差別解消法は今年から施行されるが、私たちは3年後の見直しに向けて、次への運動を進めていく必要がある。

合理的配慮が障害者権利条約に盛り込まれる際、自由権の延長線上としてのものとして捉(とら)えられ、入れられた経緯があったと聞く。たしかにそういう側面がある。車いすの人が就職を希望しても、その職場に段差があるため諦めなければならないとしたら、非常に理不尽である。そこの段差をスロープにさえすれば、他の人と同様に働けるのである。職場だけではない。学校、商店やレストラン、宗教施設等々、多くの場面でその人に合った配慮というか、工夫があれば、他の人と同じように社会参加が可能になる場合が多いのである。合理的配慮の提供という考え方を今後、社会に対してしっかり根付かせていくことが必要だ。

ところで権利条約では、第19条「自立した生活及び地域社会への包容」がうたわれている。日本の現実は、多くの障害の重い人たちが施設や病院に収容管理されるか、家族の保護のもとでの自由のない生活を強いられている。私が部会で発言した「アパルトヘイトをなくしたい」は実現していない。

最近、施設・病院、家庭内の虐待が頻繁に報道されている。障害者虐待防止法は、ザル法と化してしまっている。私自身も病院や施設にいたとき、精神的な虐待に近いことはまま受けた。そして虐待の最も多い病院が、通報義務を課されていないのも大きな問題である。虐待通報者に対して、名誉棄損で損害賠償請求する新たな事態もある。施設や病院、そしてその他の事業で、虐待まではいかなくても、サービスを提供する側と、受ける側の、支配・被支配の関係は、差別解消法というひとつの法律ではどうにもならない現実が存在している。

そうは言っても、諦めずにひとつずつ改革していかなければならない。3年後の見直しに向けては、まず第一に、部会意見で言っている「裁判外紛争解決の仕組み」を作らせることである。こういう訴え出る場所がなければ、差別解消法の価値は3分の1以下のものになってしまう。

そして二つめには、差別を定義化し、直接差別のみならず、車いすや情報保障を必要としているという障害に関連した差別もきちんと組み入れていくことだ。現在の差別解消法では、不当な差別的取扱いという漠然とした言い方がされ、何が差別かは明確にされていない。

自治体の中では差別禁止条例をつくるところが増えており、今後どれくらいの自治体が制定していくか、差別解消法では「作ることができる」としている“障害者差別解消支援地域協議会”をいくつ作らせていくか、これらの取り組みによって差別事例などをデータとしてなるべく多く集めることによって、課題がより鮮明化されることが、見直しに効果的といえる。

障害者運動の目指すものは、障害者差別をなくしていくことに他ならない。差別解消法が施行され、小さな一歩を踏み出したが、そのゴールはずっと先にある。見直しを重ね強制力のある法律になったとしても、障害者差別は完全にはなくせないだろう。法律面で障害者差別に厳しい仕組みができたとしても、社会に住んでいるのは生身の人間であり、私たち自身なのである。私たち人間は、“好き”“嫌い”という感情を持ち合わせ、それによって日々行動しているのである。正直に言えば、私も他の人を差別してしまうことがままある。差別意識をなくしていくには、自分自身ときちんと向き合うこと、そして“他”を知ることである。その“他”とは環境と言い換えてもよい。

いずれにしても障害者差別解消法は、これまで福祉的アプローチしかなかった日本の障害者政策を、“差別”という物差しで解決を図ろうとする画期的な法律であることには間違いない。

30年前、電動車いすの人が電車に乗るなんてはた迷惑な話だとされた。バリアフリー法などの整備によって、車いすスペースは設けられ、車いすの人が電車に乗ることに昔ほど人々は抵抗感を抱かなくなったのではないか。また、女性が社会で働くことは今では当たり前の話だが、100年前は家を守ることとされていた。

私たちは大きな目標を持ち、自らの存在を社会に訴え出ること、そういう障害者運動のスピリッツというか気迫を忘れてはいけない。“他の人との平等”である。

(おおたしゅうへい JDF障害者差別解消法推進委員会委員長、JD理事/政策委員長)