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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年5月号

1000字提言

障害をめぐる内なる矛盾

岡部宏生

障害をもつということはどういうことなのか?

私はある日、国立病院機構の中の一つの病院に行った。同病のALSの患者に会った後に、小児病棟を訪ねた。

たくさんの子どもたちが私と同じような呼吸器を着けて、ベッドの上でその人生を送っていた。

私は何人かの子どもと話してその病棟を出た。

「子どもの呼吸器を着けた姿を見るのは辛いな」とつぶやいた時に、同行していたヘルパーさんから

「そんなことはありません。あの子たちはそれぞれに輝いています。障害をもっているかは全く問題ではないのです」と言われた瞬間、私は自分の感性を恥じると同時に、何か違和感も感じた。その違和感が何であるのか、少し考えて気がついた。

このヘルパーさんは介護のために生きているような人なので、その言葉にはとても説得力があるのだが、その人だって自分の子が生まれてくる時は五体満足で健康なわが子を祈るのである。

では先ほどの言葉は偽りなのだろうか?そんなことは決してない。普通の人なら、至極自然な思いである。つまり障害を受け入れることと、障害でないことを願う気持ちの両方を持っていることが自然ということなのだと私は思う。

そのようなことを考えれば枚挙に暇がない。

私たちの心の中は、実に多様性に溢(あふ)れ実に多面性を有している。

私は大学の講義に参加させてもらう機会がしばしばあるので、学生に時々こんな質問をする。「あなたやあなたの家族が全身不随になり、介護されたりすることになったらどうしますか?」。その答えの多くは、自分が全身不随で生きるのは無理だが、家族には生きてほしい。介護されるのは嫌だが、介護するのは良いという答えが大体8割を超える。

人は人の役に立ちたいとか、社会のために役に立ちたいとかという気持ちもごく自然なものであろう。富と名誉は凡夫の何やらと言うが、凡夫だって人の役に立ちたいと願っているのである。現に凡夫の私もそうである。ただそこに潜んでいる感情の中に優越感がないだろうか?

私は優生思想という言葉がなくなってほしいと思っているが、どうもそれは人の感情の中で自然なものの一つではないかと思うことがあって寂しくなる。

ある時、大学で社会学を教えている先生に、「人は誰でも多かれ少なかれ優生思想と似たような気持ちを有していませんか?」と尋ねたところ、「そうです、それを内なる優生思想といいます」と答えられて、合点がいったのである。

そういう気持ちが自分の中にあることについて、明確に意識を持つことと持ってもらうことを発信していきたいと思う。


【プロフィール】

おかべひろき。1958年東京都に生まれる。1980年中央大学を卒業。同年建設会社に就職。2001年建築不動産事業コンサルタント会社を設立。2006年ALSを発症。2007年在宅療養を開始。2009年日本ALS協会東京都支部運営委員。同年胃ろう造設、気管切開・人工呼吸器装着。2010年訪問介護事業所ALサポート生成設立。2011年日本ALS協会理事・副会長。2016年日本ALS協会会長に就任。