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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2018年3月号

時代を読む101

福祉工場の誕生
~障害者を被雇用者に~

2020年の東京オリンピック・パラリンピックが2年後に迫り、競技種目やアスリートへの期待、メダルの予想などが街の話題にもなってきている。そんな雰囲気の中で、50年以上も昔の前回1964年・東京パラリンピックを振り返るのは時代錯誤に感じられるかもしれない。だが、初めて「パラリンピック」という呼称が使われるようになった東京大会に、海外からやってきた障害をもつ選手のほとんどが、職業に就いている社会人であることを知った驚きを忘れることはできない。一方の日本選手団は、国立箱根療養所などの患者や福祉施設の入所者を集めた急造チームだったのだ。それは、本稿のテーマである「身体障害者福祉工場」の発足を促す動機の一つといってもよい衝撃的な出来事であった。

それより先、1962年に「身体障害者収容授産施設」と称する施設の関係者が設立した「身体障害者授産施設協議会」のメンバーは、かねてより厚生行政による救貧対策の一環である授産事業からの脱皮を模索していた。授産施設への入所を国から委託された障害者は、印刷会社や町工場の従業員と変わらないような仕事をしていても、「労災保険適用除外」の施設入所者であった。障害が重いために仕事の成果が十分に上がらず、工賃(給料という意識は薄かった)も低かったのは確かであるが、作業環境の整備や職種の研究などによって、最低賃金の確保を目指した。1972年には、会の名称から「授産」を消して「全国身体障害者職業更生施設協議会」に改め、「職業リハビリテーション」へと歩を進めた。

1969年には「福祉工場研究会」が開催され、海外の事例の研究にも取り組んできた。わが国も加盟している国際労働機関(ILO)の勧告、条約に明記されている障害者の多様な就労形態、特に「保護的作業所(シェルタード・ワークショップ)や保護雇用」には大きな関心が持たれた。しかし、ILOに関する国内の担当は旧労働省であり、国としては批准している条約・勧告でも、授産施設で働いている障害者に労働法を適用するのは容易でなかった。しかし、授産施設で何年働き続けても施設の入所者であるという不合理には、旧厚生省も動かざるを得なくなった。

1971年、身体障害者を被雇用者とする「身体障害者福祉工場」(法律上は身体障害者授産施設の一種)が厚生省の予算に計上された。入所者、利用者と呼ばれた障害者は、労働法の適用を受ける「職業に就いている社会人」になった。しかし、さらに重度化、多様化する障害者の就労機会を確保するためには、ILOの勧告・条約の意図を厚労省という幅広い路線に乗せて、官民一体となって確実に実施する工夫と努力の継続が求められる。

(小川孟(おがわはじめ) 元横浜市総合リハビリテーションセンター長)