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事例報告2

阪神大震災を受けた兵庫区自立支援協議会の取り組み

泥 可久 神戸市兵庫区自立支援協議会 防災を考える部会会長

はじめに

神戸市兵庫区は、非常に庶民的な街で、神戸市の中心ぐらいに位置します。平清盛の物語で、NHKの大河ドラマの舞台にもなりましたが、清盛の史跡などもたくさん出てきて、賑わっているところです。

阪神・淡路大震災から23年あまり過ぎましたが、皆さんが忘れないように、今年は大震災の慰霊と復興のモニュメントにある「1.17希望の灯り」が東京に分灯されました。大震災が起きたときは、ボランティア元年と言われたように、たくさんの人の助けをいただきました。忘れてしまいそうな古い話ですけれども、これが災害を考えるときの基本となっているわけです。

神戸の復興の過程で感じたこと

神戸市は復興が早かったんです。もう10年もたたないうちに、倒れたビルもみんな整備されました。でもそのときに僕は感じたことがあるんですね。なぜ表面的な復興ばかりが世界に発信されるのか。弱者と言われる要援護者への対応のマニュアルがどう出来上がっているのか。疑問に思い、神戸市の危機管理室へ出向きました。

危機管理室の方がおっしゃるには、要援護者・障害者のことに関しては、なかなか手がつけられない。個人情報保護法が作られ、名簿をめぐる詐欺などがたくさんあり、障害者の中にも、どこから名簿が流れたなどと問題にする人がいる。そう言われますと、私たちも障害者の情報を地域へ出すことができないんですよ。

阪神大震災のあとに、防災福祉コミュニティという組織が各自治体にできあがりました。兵庫区は10万ぐらいの人口ですが、障害者の方が8,000人ぐらいいて、その中で重度の方が約4,500人います。しかし、「防災福祉コミュニティ」という名はついていても、福祉的なことはできておらず、消防車が来て水をかけるという訓練を続けていました。僕もはたから見ていて、訓練に障害者が参加したらいいのにと思い、防災福祉コミュニティを訪ねましたが、当時はまだ障害者に対する意識も低く、市からも指示がないということで、あまり進展はありませんでした。

自立支援協議会 防災を考える部会を立ち上げる

僕一人の力ではだめだと思い、僕は視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者などの福祉団体の会長もしていましたので、まず皆さんの意見を聞きました。初めの反応はまちまちで、本当に困ってはいるけれども、今さら言っても変わらないという意見もあり、いや、でも言ってみないことには分からないという意見もあり、徐々に話し合いをしながら、平成16年10月ぐらいに、自立支援協議会の中に「防災を考える部会」というのを立ち上げました。

メンバーは、肢体障害者、聴覚障害者、視覚障害者、精神障害者、知的・発達障害者、それと手話クラブの方、民生委員、それに自立支援協議会の職員が加わって、14、5名で立ち上げました。

活動としては、まず僕と、聴覚障害、視覚障害の方と3人で、地域を回り、防災訓練に参加させてくださいということや、障害者のことをもっと理解してくださいということ、災害時はどういうことに困るんですよ、というようなことを話しました。

部会を立ち上げた時に、基本的に守らなければいけないことを決めました。①お互いに、自分の障害のことばかりを主張しないで、全体的なことを考えてやっていくこと。②地域の中で人材を見つけて、その人たちに障害者のことを理解してもらうこと。③無理のないように防災訓練に参加すること。この3つを基本に挙げました。

防災訓練の実施と、地域の人との出会い

一番大事なのは地域です。地域と障害者をいかに結んでいくかということですね。15ぐらいの防災福祉コミュニティがあるのですが、その中で、防災福祉コミュニティ、民生委員、ふれあいまちづくり協議会、婦人会、そういう方たちに集まってもらい、こういう部会を立ち上げたので、防災訓練にまず参加させてくださいとお願いしました。

役所の人と、僕と、視覚障害の人と3人で、2、3か所の地域を回ったのですが、神戸はええ街やと言われるけれども、嫌なことを言われることもある、しかし何を言われても卑下したらあかんで、活動をやり切きろうということで、お互いに励ましあいました。この中で、1つの地域が認めてくれました。

まず平成18年に、防災訓練を実施しました。日曜日で、地域の人も、学校の生徒も集まり、障害者も30人ほど集めることができました。市長が来て挨拶し、みんなと握手して、「しあわせ運べるように」という、有名になった歌を歌ったりして、別れました。

その際、これを毎年どこかの地域でやってほしいと要望しました。すると兵庫区長さんから、それはぜひやっていきましょう。そのためには、皆さんが地域を回ってください。役所から頭ごなしにやれば、強制的になるけれども、皆さんが自主的に進めれば、役所の人も地域の人も動いてくれるでしょう、と言われ、活動を続けました。

その結果、18年に続き、19年、20年と、3年ぐらい同じようなことをしました。すると次第に、障害者がただ見ているだけではつまらないという話になり、今度は給水訓練や、避難所搬送訓練などに自らが参加するようになりました。

その中で、非常に立派な人に出会いました。まさに人材の発掘です。僕に話があるからということで、別室で長い間話したのですが、その方の話では、自分の息子さんがヤンキーで、家に寄りつかず家出してしまい、どこかで結婚して、できた子どもが自閉症だったとのこと。その次の子どもは優秀な大学を出て、立派な会社へ行っているとのこと。その後その方は、今は障害児のお父さんとなった息子とも関係がよくなり、なぜ障害者が生まれてくるのかという話をするそうです。泥さん、どない思うかと聞かれました。なかなか答えは出ません。僕の家も6人兄弟で、僕一人が障害者です。障害者の中でも、例えば僕らの視覚障害者の会長は作曲家をしていますし、東さんのように大学の先生をしている方もいますが、そういう立派な方は一握りで、多くの人は「税金を食べてる」というようなことを言われます。しかし、そういう人がいないことには、立派な人もいない。世の中のプラスマイナスの法則からいえば、マイナス方面で、あえて苦しいことを引き受けていく、そういう障害者がいて初めて、立派な国や人づくりができるんだと、そういうことを、二人で一生懸命話し合ったんですよ。またその方は、障害者のことにやっぱり力を入れなければいけないし、もしおかしなことを言う人があったら、自分に言ってくれれば話をする、とも言ってくれました。だから捨てたもんじゃない、活動をやってよかったなあと思いました。

神戸市災害時要援護者支援条例

神戸市の防災コミュニティで一番困っていることは、どこに誰が住んでいるか分からないということです。泥さんみたいにうろうろしとったら、ああ障害者やと分かるけど、家でじっとしている人や、話ができない人であれば、存在が分からない。どうにかして要援護者の名簿を作れないかということで、平成23年ごろに、僕と、視覚障害の人と、市会議員へ陳情に行ったんです。寒い日でしたけど、真剣に聞いてくださって、この問題は解決していこうということで、25年に「神戸市における災害時の要援護者への支援に関する条例」ができました。

この条例に基づいて、1級、2級の障害者等を対象に、市が本人宛に封書を送ります。返送があった人は、同意があったと認め、その名簿を自治会や防災福祉コミュニティ等のうち申請があったところへ渡して、その団体等が名簿の管理をします。障害者にも厳しい条件がありまして、多くの人は、災害のときには助ける人があればいいと思うのですが、中には反対の人もいますので、反対の人は不同意の意思の明示をするということにしています。だいたい返答があったのは40%ぐらいです。また防災コミュニティが15ぐらいある中で、13ぐらいのところが名簿作成に協力しています。

そのうえで、名簿の情報を共有して、災害時や非常時に助け合います。防災訓練のときにもその名簿を使い、安否確認や避難の訓練をします。毎年打ち合わせ段階から僕らが入って、今度はどういう訓練をやりたいかという話をします。例えば担架を作ってその上に僕らを乗せてもらって避難所へ走る訓練とか、段ボールの簡易ベッドがたくさんコミュニティの中にあるので、それを組み立てて寝させてもらう訓練をしたいということを伝えます。

1人も弱者にならない活動を

防災にはハード面とソフト面があり、ハード面は神戸市の方針で整いつつありますが、ソフト面がちょっと欠けていると思います。防災に関するソフト面での意識をどのように地域の方に持っていただくか。僕もいろいろ相談しながら、各防災コミュニティに年2回、春と夏ぐらいに行って、ワークショップを行っています。知的障害者の方や、視覚障害者の方、車いすの方が、避難所で周囲になじめなかったり、どのような苦労を味わっているかということを知ってもらいたい。そういう意識や想像力の面での訓練を地域の方と一緒にやらせてもらっています。それを積み重ねていけば、災害時の弱者が一人一人なくなってくると思うんですね。

兵庫区でも、その他の区でも、僕らのように立ち上がって、活動を続けています。地域の人から言われて立ち上がっているところもあります。とにかくこれからも、1人も弱者にならない、そのような活動を続けていきたいと思っています。