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事例報告3

視覚障害者団体が取り組む東日本大震災後の復興

及川 清隆 岩手県視覚障害者福祉協会理事長/日本盲人会連合副会長

はじめに

東日本大震災から7年9か月が過ぎてしまいました。震災の経験が時の流れのまま風化していくのではないかと憂いています。そうは言っても熊本地震や西日本豪雨など災害は次々とやってきているわけです。災害は突然来るのではなくて、日常に起こりうることだと、認識を改める必要があります。そうしないと、災害対応は堂々巡りをしてしまいます。行政の取り組みも、私たちの運動もそうです。私たちは何をしたらいいのか、今後の災害対応を考えるうえで、重要な局面にあると思っています。

東日本大震災を受けての取り組み

東日本大震災で視覚障害者が何人死亡したか、レジュメにも書かせていただきましたが、岩手県で35人、宮城県で65人、福島県で15人、仙台市で4人、119人あまりの人が命を落としています。この数が多いか少ないかは、比較対象にするものがないので分かりませんけども、災害でこのくらい視覚障害者が一気に亡くなったということは、私の記憶にないし、資料を探してみても、戦災を除いては見当たりません。

私たちは平成25年2月10日に東日本大震災視覚障害者復興支援プロジェクトを立ち上げました。視覚障害者の置かれた実態は厳しく、避難所や仮設住宅等の支援が滞っているということがあります。そして自らのことは自らが発信しなければ事態は動きません。私は市会議員をしていましたが、その経験からも、災害対策は、行政施策に落とし込み、文章にしないと進みません。そこで平成25年の4月11日から5月15日まで、岩手県、宮城県、仙台市の被災自治体に要望書を提出しました。大項目で6つ、小項目で36項目、大項目では安否確認、防災避難と仮設住宅、復興住宅支援、公共交通機関と視覚障害者の移動、雇用就労、地域生活支援といったことを要望しました。これらの要望がどのように自治体で受け止められているか、長いスパンで見るために、その後の経過や成果の検証を続けようと思っています。

平成25年6月15日には情報誌を発行しました。この情報誌は、災害の犠牲になった私たちの多くの仲間の思いや、生の声を資料として残そうというものです。それは私たち生き残った者の務めだろう思っています。情報誌のタイトルは「語り継ぐ未来への友歩道(ゆうほどう)-災害からのメッセージ」です。災害について共に考え、歩いて行こうという意味が込められています。第9号まで発行しました。

それから災害相談フリーダイヤルを設置して、皆様からの悩み、意見などを聞きました。東北人は寡黙なので、会ってもなかなか愚痴は言いません。つらいことも言いません。せめてそういう当事者の声を拾うとともに、それも記録として残そうということになりまして、資料集を作りました。

語り部活動も実施しました。今現在も続けているんですが、これまで一番多く呼んでいただいたのは学校です。次に多いのは、私たちの仲間である当事者です。しかし私たちが期待していた行政、社会福祉協議会、町内会などの地域からは、オファーがありませんでした。障害者と地域のギャップがあるんだなと感じました。小学生、中学生は、先生のご指導だと思うんですけど、多くの参加があり、非常に手ごたえを感じます。宮沢賢治のふるさとの花巻小学校、中学校からは、93人の児童生徒が釜石まで来ていただき、そのときは、避難所となったお寺の住職さんの話や、町並みが大津波で破壊される様子、逃げ惑う住民の声などを聞きますと、小学生の子どもたちは本当に泣いたりしていましたが、それに合わせて、私たちの仲間の見えない人のお話もしました。固定観念を持っている大人よりは、こうした子どもたちに語りかけて、今後に備えたほうがいいのかなあとも感じました。

今後求められること

今後については、各県、市町村に災害対策の担当課を置いて、日ごろからきちんとした体制を構築しておくことが大事だと思っています。災害は突然やってくるものですので、緊急時に初めて対策本部を作ってもてんやわんやになります。年次計画を立てて災害の対応について指導したり、支援者の人材育成をしたり、自治体のやるべきことはたくさんあると思います。避難所の運営についてもシミュレーションしておき、例えばそこに避難される方の名簿も持っておき、年に一度や二度は避難訓練をして、どういう人なのかをお互いに確認しておく。障害のある方も、顔見知りがあると行きやすいです。そういうことを通じて、あの人はあそこで暮らしてるんだねということが分かればいいと思うんですね。そして避難所の運営管理や、避難誘導の手順もマニュアル化しておけば、安否確認にも役立ちます。

先ほど申し上げた要望書の検証を続けているのですが、私たちの要望が実現していることも沢山あります。岩手県は陸前高田市、大槌町、山田町など、津波や火災で壊滅的な被害を受けました。その中で、不幸を転じて、いわゆるノーマライゼーションにかなったまちづくりをしてほしいと私たちは申し上げてきました。各県や、世界に示せるモデルを示すべきです。そのためには、当事者を入れた都市計画を立ててほしいんです。青写真ができ、インフラがほぼ整備されたあと、ちょっとバリアフリーの点検をするというのでは時すでに遅しです。私たちは、犠牲になった多くの仲たちの思いを背負っていると思っています。私たち抜きに私たちのことを決めないで、という考えに基づき、当事者を抜きにした災害対策や都市計画、コミュニティ形成はしないでほしいと思っています。

東日本大震災 私の体験

2011年3月11日、私はちょうど法人の事務所にいました。隣にマンションがあり、それが倒れてくるのではないかと思うほど、どーんと揺れて、下から突き上げられ、横揺れも長く、立っていられない状況でした。すぐ停電になりましたので、ラジオを付けましたら、太平洋から津軽石川を津波が逆流しているという報道がされていて、これは大災害だと思いました。

すぐ施設を閉めて帰ろうと思ったんですが、もうほとんど電車もバスも動いていません。たまたま信号が動かず渋滞していたせいで高速バスがつかまり、普段は1時間40分のところを4時間かかって、自宅に戻ることができました。

翌12日から各支部長に電話して、安否確認を開始しました。停電していましたが、私の自宅は、電気がなくても使える固定電話でしたので、非常に役に立ちました。そのときは岩手県内の犠牲者は3名から5名という確認がとれましたが、事態の全容はつかめませんでした。

3月11日は沿岸部に大きな被害がありましたが、4月7日の余震で、内陸にも被害がありました。私の自宅では、台所の食器棚が全部倒れました。私は寝室にいて、立っていられず四つん這いになって逃げたのですが、そのあとに寝室のタンスが倒れ、下敷きにならずにすみました。私も私の家内も全盲ですが、台所の様子を触ってみると、とても私たちの手には負えません。余震が起きたのが23時32分でしたので、あきらめて朝になったら子どもたちの手を借りようと思い、就寝したのですが、自分が見えないということ、何もできないということの無力感は、本当につらいものでした。

さいごに

その後、先ほども申しあげたとおり、岩手県での視覚障害のある犠牲者は35名、宮城県では65名というデータを知ったのですが、私たちが本当に知りたいのは、どういう形で亡くなられたかということです。逃げ遅れたのか、取り残されたのか、逃げる途中だったのか。そのような中で、やはり地域との連携が大切だと思っています。助かった方の多くは、隣りの人に誘われて避難しています。スポーツや芸術や趣味の活動の仲間に手引きをしていただき助かった方もあります。亡くなられた方は、誰にも誘われなかったのだろうと想像しています。

私たち、障害のある当事者としては、やはり社会活動、地域活動の中で、自分を理解してもらえる人を沢山開拓しておくことが必要です。町内会があれば参加し、遠慮しないでお世話になり、私たちに必要な支援はこういうことだというメッセージを送っておきます。これは地域のためにもなると思います。

今後、日本盲人会連合の中でも、災害にどう向かい合っていくかをしっかり考え直してマニュアル化し、例えば災害があったらすぐ隣県から支援に行くとか、誰の指示で動くか、初動活動の財源はどうするかなど、計画を立てる必要があると考えています。