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厚生労働科学研究費補助金(障害者対策総合研究事業)分担研究報告書

障害(児)者の個人避難計画と避難所における配慮ガイドラインの作成
3-2.精神障害者による津波避難準備活動と地域(北海道浦河町)

研究代表者 北村弥生 国立障害者リハビリテーションセンター研究所 主任研究官

研究分担者 河村 宏  NPO支援技術開発機構 副理事長

研究協力者 浅野浩嗣 北海道浦河郡浦河町 総務課長
      米山 豊 北海道浦河郡浦河町 東町第五自治会長
      池松麻穂 (社福)浦河べてるの家
      防災チーム (社福)浦河べてるの家
      我澤賢之 国立障害者リハビリテーションセンター研究所 研究員
      小佐々典靖 国立障害者リハビリテーションセンター研究所 流動研究員
      八巻知香子 国立がん研究センターがん対策情報センター

研究要旨

 平成15年から自助を基本にした避難訓練を継続している精神障害者の社会福祉法人「浦河べてるの家」に対して防災活動の経験を、浦河町役場及び自治会に対して防災活動及び「浦河べてるの家」への意識を面接法により調査した。その結果、以下が明らかになった。1)災害時に、町役場は災害時要援護者名簿ではなく平時のサービス体系を活用した安否確認と事後の支援(不安を訴える者の保護)を実施していた。しかし、災害時要援護者の「避難行動」に関する対策は残された課題であった。2)地域活動に積極的な自治会は独居高齢者を把握し、避難の声かけをする担当役員各2名を決めていた。しかし、移動介助の安全性が確保されないために、要援護者の避難訓練は行われていなかった。3)「浦河べてるの家」では、図上訓練を含む年に2回の避難訓練、防災ミーティング、マルチメディアマニュアルの使用により津波に対する避難目標「4分で10m登ること」を達成し、3つの地震で避難を実現した。また、避難経路にある独居高齢者の支援も行っていた。しかし、「より効率的な避難経路の探索」「車椅子利用者の避難方法」「避難所での生活」「職員のメンタルヘルスと責任範囲」は今後の課題であった。町役場、自治会、浦河べてるの家の3者による10年に亘るそれぞれの防災活動の結果、1)「避難行動」に関して、3者の主体的で自然な協力が引き出され現実的な解決策を見出しつつあること、2)「避難所での生活」への不安への対策案は3者で異なり合意形成には時間を要することが示唆された。

はじめに

 災害時に適切な状況認知と行動判断をすることは精神障害者や知的障害者には困難であると考えられ、精神障害者施設や知的障害者施設では、利用者でなく職員の避難支援行動の訓練が行われてきた[1]。精神障害者の災害時の困難としては、睡眠導入剤の影響で起きられずに避難できないこと、幻聴に避難を否定されて避難できないこと、平時から「緊急事態でパニックになるのではないかという不安」で生活に支障がでること、避難所で異質な行動をとる心配があることが挙げられている[2, 3, 4]。
 北海道浦河郡浦河町にある(社福)浦河べてるの家(以下、べてるの家)は、昭和59年に設立された精神障害者の地域活動拠点で、100名以上のメンバーが活動している(図1)[5]。べてるの家では、平成15年の十勝沖地震からメンバーの一人が日常的に抱いた不安を克服するために勉強会を開始したことを契機に、災害に対する準備に関する意識が高まった。当事者が主体となり、町役場、自治会および国立障害者リハビリテーションセンター研究所(以下、国リハ)の協力を得て、地震による津波対策に重点をおいた避難訓練を企画・運営している。

図1 浦河町の位置

図1 浦河町の位置

 べてるの家の防災活動は、平成16年以来、年二回の津波避難訓練を行うほかに、自治会と合同の図上訓練、モデル自治会の避難訓練への参加、共同住居セミナーハウスからの夜間避難訓練(平成19年3月)、町役場主催の宿泊訓練への参加(平成21, 23年)、連合自治会主催の冬季夜間避難訓練へのメンバーの参加(平成22年)などが行われてきた[6]。
 「地震後、4分で標高10mまで登ること」は、平成16年に、国リハの研究リーダー河村宏から得た情報を基に、メンバーに共有された訓練目標となった。地質調査により、500年間隔で根室沖と十勝沖の地震が連動し一帯に10mから15mの津波をもたらしたことが国際学術誌に報告され[7]、中央防災会議でも取り上げられていたからであった[8]。北海道には200年以上前の古文書はないため500年間隔地震による津波到来時間の記録はなかったが、昭和57年の浦河沖地震の第一波は16cmながら4分後に浦河港に到達していた[9]。また、平成5年の北海道西南沖地震においては奥尻島では地震発生から5分前後で波高10mの津波が襲来し大きな被害を出した [10]。平成17年度の北海道によるシミュレーションでは、500年間隔地震による浦河町における津波の「最大遡上高」は6.6m、「影響開始時間」は12分であったことから[11]、「4分で10m」は生命の安全を確保するには余裕をもった目標設定と考えられた。ただし、東日本大震災後に、浦河町で予測される津波の最大遡上高は6.6mから14.6mに変更され [12]、目標は「4分で12m、さらに高所に移動できる場所を避難所にする」に変更された。アイヌの口承では「浦河の海岸から8キロ内陸の20mの丘に達する津波があった」とされるが、現実的ではないという解釈が報告されている[13]。
 研究チームでは、浦河町の等高線、住宅地図、北海道提供データによる被害予測図を作成し、地理情報システム上で重ね合わせてB0版に印刷し、図上訓練で、住居あるいは活動拠点から最寄りの必要な高度まで、どの経路で避難するのが安全かを検討する補助とした[14]。また、避難の道順を示すマルチメディアデイジー版マニュアルを作成し(図2)、写真、マニュアル本文、音声読み上げを同時にモニターに表示して、避難訓練の前に確認した。避難訓練後は、マニュアルの写真を訓練で撮影したメンバーが映っている写真に置き換え、振り返りで上映した。マルチメディアのマニュアルは印刷物よりわかりやすく簡単に読めることがべてるの家のメンバーから好評であった。メンバーの写真が掲載されたマニュアルは、避難訓練に参加しなかったメンバーにとっては避難訓練に参加する動機づけとなった[15]。防災活動開始後は、定例のミーティングでも、過去に率先避難を笑われたことから避難に消極的だったメンバーが毎朝の海の状態を報告するようになったほか、インターネットで災害対策情報を検索するメンバーが増えた。また、研究者が毎月訪問し、冬にも屋外で一日中避難場所の調査をする姿を見て、「雪の中で行うほどに避難場所を調べるのは大事なことなら、自分でも調べよう」という意識がメンバーに芽生えたことも報告された[16]。

図2 マルチメディアデイジー版避難マニュアル

図2 マルチメディアデイジー版避難マニュアル

 避難訓練の対外的な成果は、平成18年11月15日千島列島地震において、津波警報に従い町民に率先してメンバー15名が避難し、避難所開錠者を決めておく必要があることを指摘したことに始まった[3,15]。平成22年チリ地震ではメンバー約50名が避難所に一泊し、平成23年の東日本大震災では、沿岸部の共同住居に住む約60名のメンバーが津波到達前に避難所に移動したことで、避難訓練の成果は実証された[4]。浦河町における避難所への避難人数は、平成15年十勝沖地震で150名(勧告はなかった)、平成22年チリ地震で60名(勧告対象者数の3.5%)[17]、東日本大震災で497名(勧告対象者の11.7%)であった[18]。また、国際会議でメンバーが発表し[19,20]、精神障害自身による防災活動として国際的にも注目されるとともに、メンバーにとっての新たな経験の機会となった[21]。メンバーにとっては、近隣への旅行も発表も大きな負荷だったからである。東日本大震災後は、被災地である福島県の精神障害者をべてるの家のメンバーが訪問し、互いの経験を交換した。
 国リハによる浦河町における防災に関する研究活動は、「災害時に障害者を支援する情報システムに関する研究」(厚生労働科学研究費、平成15年、研究代表者:河村宏)[22]、「障害者の安全で快適な生活の支援技術の開発」(科学技術振興研究費、平成16~18年、研究代表者:山内繁)[23~27]、「災害対策における要援護者のニーズ把握とそれに対する合理的配慮の基準設定に関する研究」(厚生労働科学研究費、平成19?21年、研究代表者:八巻知香子)[28]、「障害者の防災対策とまちづくりに関する研究」(厚生労働科学研究費、平成24~26年、研究代表者:北村弥生)[29]と継続された。べてるの家としては、平成19年度に、厚生労働省障害者保健福祉推進事業(障害者自立支援調査研究プロジェクト)に「助け合いをキーワードとした障がい者と地域との防災対策づくり」が採択され、防災活動における主体性を強めた[2]。また、平成23年には日本精神障害者リハビリテーション学会のシンポジウムに「障害と防災」が取り上げられ、防災チームが発表した[30]。
 精神障害者施設は地域から孤立しがちであるが、べてるの家は地域との関係を積極的に作り、共同住居のメンバーが自治会の避難訓練に参加したこと、避難訓練をきっかけに町民と会話ができたことも報告された[19, 31]。地域住民によるべてるの家メンバーの受け入れはよいというわけではないが、メンバーによる説明に理解を示す住民もおり、共同で行った図上訓練・避難訓練・被災地視察、後述する町役場主催の地域防災フォーラムでのべてるの家のメンバーによる発表を通じて「べてるの人」から固有名詞で認識される人間関係が形成されたことも報告された[3]。
 また、「困難を抱えているからこそ、対策を理解し訓練をすれば安全になる、と確信させられる。要援護者は要援護者ではなく、その道のエキスパートになる。・・・周りの人たちに避難しようと呼びかけたり、手伝う力になる。」と、要援護者から支援者になることを、べてるの家のメンバーが認識していることも報告された[32]。浦河町の高齢化率25.9% [33]は全国平均23.3% [34]よりも高いことから(いずれも平成23年)、メンバーは地域の高齢者の避難支援者としての可能性が高い。しかし、地域の高齢者への支援実践に関しては、まだ、報告されていない。
 防災活動に関して残された課題には、拡大した浸水予測に対処する効率的な避難方法、車いすを利用するメンバーの避難方法、べてるの家のメンバー以外の避難者もいる避難所で緊張しない過ごし方、予定通りの行動ができなかった(薬を忘れた)、多様な不安への対処(見通しが立たない、避難する必要はないが一人になることの不安)、べてるの家の備蓄場所の選定が、すでに報告されている[4]。そこで、本稿では、平成15年以来10年継続しているべてるの家の防災活動と町役場及び自治会の関係を報告し、地域における精神障害者の災害時支援のあり方を考察する。研究チームの役割に関する記載と考察は別稿に譲る。

1.方法と対象

(1)調査

 災害時の要援護者支援に対する浦河町役場、自治会、べてるの家の取り組みについて面接法による調査を行った。町役場の体制については総務課職員と保健福祉課職員合計5名に、自治会による災害時要援護者支援の取り組みについてはX自治会長のA氏に、べてるの家における防災活動についてはB精神保健福祉士に面接調査を行った。X自治会は、平成16年度より町内のモデル地区として災害時要援護者支援を含む防災活動に携わり、国リハによる災害時要援護者支援に関する研究にも参加していた。A氏は平成16年には自治会総務として防災を担当し、平成21年からは自治会長であった。B氏はソーシャルワーカーとして平成18年から浦河べてるの家に勤務し、防災チームに参加して、平成24年の夏の避難訓練では、消防署・警察署・町役場との連絡、事前ミーティングの司会等を行った。
 地域における防災活動および災害時要援護者支援には、社会福祉協議会と民生委員も関係していることが多いが、調査対象とはしなかった。その理由は3つある。第一は、浦河町社会福祉協議会への防災に関する先行調査において、町役場は民生委員には災害時要援護者支援について積極的な依頼をしていないことが報告されたことであった[3]。第二は、浦河町の防災計画に民生委員の記載はなかったことであった。第三は、町役場総務課とA氏からも災害時要援護者支援に熱心な民生委員の推薦を得られなかったことであった。
 調査は平成25年1月にそれぞれ1時間から2時間実施され、ICレコーダーに記録し逐語録を作成して内容を整理した。町役場職員からは、面接調査の前に、平成7年度改正の浦河町防災計画、平成24年度改正の浦河町防災計画及びハザードマップを入手し、地域に関する情報はインターネットを介して入手した。本研究は、国リハ研究倫理審査委員会の承諾を得て行った。発表原稿は、調査対象者3名に固有名詞の表記を含めた内容の確認を依頼し、指摘された修正を加えた。

(2)参与観察

 平成24年7月21日に行われた日高東部3町関係諸機関合同防災訓練では、「カフェぶらぶら」から避難所であるファミリースポーツセンターへ移動するべてるの家メンバーの行動は、べてるの家防災チームに依頼してビデオ撮影を行った(図3)。「かふぇぶらぶら」は1階がべてるの家が経営する喫茶店、2階が共同住居であった。同7月30日に行われたべてるの家セミナーハウスにおける火災避難訓練と地震津波避難訓練には、第二著者と第八著者が事前打ち合わせと事後検討会も含めて参与観察し、ビデオ撮影した。ビデオ画像から発言内容と行動を抽出し、記載に加えた。

図3 広報うらかわ(2012.9)より許可を得て転載

図3 広報うらかわ(2012.9)より許可を得て転載

3.対象地の概要

3.1.地理的概要

 浦河町は北海道の中央部、襟裳岬の南端に位置する人口14,000万人の都市で、10行政地区から成り、82自治会があった。海岸線に沿って国道235号線と国道236号線が走り、町役場などの公共機関は日高振興局を除いて主要道路に沿って位置する。

3.2.地震多発地だが人災と火災がない

 浦河町は日本でも有数の地震多発地帯で、明治40年から昭和58年までの157年間に震度4以上の地震は20回を数える。また、昭和27年から平成15年までの51年間における震度5以上の地震は11回で、震度の大きい地震は増える傾向にある。にもかかわらず、地震による死亡と火事が少ないことで知られている。例えば、浦河沖地震(昭和57年、M7.3、震度6)では、立っていられないほどの揺れを経験し、負傷者167名、建物の全壊13棟であったが、死亡も火事も出さなかった[35]。被害を抑えている理由として、災害多発地に特有の災害文化があることが報告されている[36]。災害文化とは、災害発生時の兆候や災害時にとるべき行動についての知識や技術に関する伝承である。例えば、浦河町では、家具の固定と地震後の火の始末が徹底しており、地震の時には「とおちゃん戸を開け、かあちゃん火の始末、子どもは机の下」という口承が浦河町で育った中高年の住民からは聞かれた。

3.3.少ない津波被害

 一方、浦河における最大津波高は比較的低く津波による人的被害もなかったため、津波への対策はあまり重視されてこなかった。例えば、近年で2mを超えた津波は、昭和27年十勝沖地震2.1m、昭和35年チリ津波2.1?2.7m、昭和43年十勝沖津波2.18m、平成23年東日本大震災2.8mで、いずれも死者はなかった。また、昭和57年浦河沖津波0.8m、平成15年十勝沖地震1.3m、平成22年チリ津波0.7mであった。
 しかし、建物、船舶、車両などに対する被害総額は、平成15年十勝沖地震では19億円を超え[37]、平成23年東日本大震災では3億7千万円を超えた[38]。

3.4.津波対策の課題

 平成15年十勝沖地震の時まで、浦河町では津波対策があまり重視されてこなかったことは5点において指摘されている[36]。第一は、北海道は津波危険予測図を作成し地震により発生した津波の第一波及び最大波の到達時間と水位を示したが、津波浸水域図の作成は市町村に任され、浦河町では作成していなかった。北海道が津波浸水域図を作成したのは平成16年度であった。
 第二に、浦河沖地震後に遠隔計測できる潮位計と浦河港異常潮位監視装置が設置されたにもかかわらず、十勝沖地震の直後にも町役場職員は港湾岸壁から海面監視を実施したことが報告され、間違った対応であることが指摘された[37]。
 第三に、津波警報緊急伝達システムと防災行政無線が連動しておらず、津波警報発令から避難の呼びかけがなされるまでに20分を要した。無線が使われた時には、すでに津波第一波が到達していた。この点は、東日本大震災では、津波警報発令後11分で避難勧告を発令し改善が示された[37]。
 第四に、十勝沖地震では、避難勧告の基準が設けられておらず、避難の呼びかけだけが行われた。
 第五に、津波避難訓練が定着していなかった。浦河沖地震までは町役場や自治会主催の津波に対する避難訓練は行われていなかった。浦河沖地震後に防災計画が見直され、82の自治会を母体に自主防災組織作りが進められるとともに、浦河沖地震日に防災訓練を行うなどの計画が立てられた[36]。平成15年十勝沖地震の頃には、毎年持ち回りで自治会・自主防災組織単位で避難訓練が実施されていたが、町民による津波避難訓練の参加意識は低いことが報告された[37]。
 平成16年に、研究チームがべてるの家と共同で開始した要援護者支援に留意した図上訓練は、2つの自治会を町役場から紹介されて行われた。X自治会は、会長をはじめ役員が防災活動に熱心なために研究のモデル地区として依頼しやすかったことと土砂災害の危険がある地域であることが理由であった。Y自治会は沿岸部であるとともに、べてるのグループホームもあったためであった。

4.結果

4.1.浦河町役場による防災事業

 浦河町では、東日本大震災後の平成24年7月に、第6次浦河町総合計画後期基本計画の重点推進事項として、防災対策9事業の実施が計画された[40]。9事業とは、「地域防災計画の策定事業」「ハザードマップ作成事業」「標高板設置事業」「地域避難訓練実施事業」「津波避難計画策定事業」「地域津波避難計画策定事業」「避難道路整備事業」「自主防災組織の強化」「防災意識の高揚」「防災無線整備事業」であり、前項で指摘された津波対策の課題を克服する内容であった。
 「地域防災計画」は昭和38年に作成された後、58年、平成7年に改訂され、平成18年頃から改訂の準備を進めていたが、東日本大震災後に津波対策を強化して平成25年2月に策定された。
 2番目の「ハザードマップ作成」では、平成24年6月に道から発表された新しい被害予想に基づいて、平成25年3月に津波ハザードマップを作成し、4月に全戸配布した。平成24年度には4自治会で図上訓練(DIG)を行った。図上訓練は、消防署職員の指導により町役場総務課職員も協力した。さらに、平成25年度には、避難経路や具体的な避難方法については、避難訓練やタウンウオッチを行い、地域の津波避難計画の策定を実施予定であった。しかし、図上訓練では、要援護者への対応あるいは保健福祉課との連携は、まだ、実施されていなかった。
 3番目の「標高板設置事業」では、避難所や公共施設などに標高を示す表示を取り付ける計画であった。平成24年度に33カ所、平成25年度に30カ所の設置が予定されていた(図4)。類似の標高表示は、北海道開発局と建設管理部でも国道と道道沿道にも設置中であることから重複は避けるように調整されていた。

図4 標高板(広報うらかわ2012.9.より許可を得て転載)

図4 標高板(広報うらかわ2012.9.より許可を得て転載)

 4番目の「地域避難訓練実施事業」では、タウンウオッチなどにより避難経路の危険を事前に確認して対策を講じた具体的な避難行動の計画を策定することが考えられていた。
 5番目の「津波避難訓練実施事業」では、町内57カ所の避難場所の多くは、平成24年に北海道が発表した浸水予測からは避難所として不適切と判断されたため、避難所と避難方法の再検討が求められたことへの対策であった。民間所有の空き地等を避難場所として使用する交渉を行い、10行政区に1カ所ずつの避難場所の確保はできていたが、十分ではないと考えられていた。
 避難所に関しては、他に、地震津波以外の土砂災害等について状況に応じた避難所の選択、数日程度の滞在に耐える避難所設営計画の作成も視野にいれられていた[41]。福祉避難所の指定は行われていなかったが、東日本大震災では、不安が残った3名を介護予防センターに保護し、ニーズに応じた対策がとられた。
 6番目の「避難道路整備事業」は、避難をするために有効な道路整備であり、最も町が力を入れていたのは、沿岸を走る国道が津波で冠水し孤立する場合に備え、高台に代替え道路(町道まきば通線:約1.9Km)を防災道路として建設することを北海道に要望することであった。他にも、町民から「裏山に行く道路を作成するための材料費」「山に登る道に手すりをつける」「ある地域一帯を平地にして避難場所にする」などの要望が出ているという。東日本大震災では、海岸沿いの国道と山に向かう道は避難の車で渋滞し、避難にタクシーも使用されたことはタクシー運転手から確認した。
 7番目の「自主防災組織の強化」は消防署の担当であった。すでに、82自治会のうち沿岸部のすべては自主防災組織を作り、地域における防災活動の動機付けが促されていた。  8番目の「防災意識の高揚」には、毎年2月頃に行っている「地域防災フォーラム」が含まれる。このフォーラムは、国リハが浦河町で防災研究を開始したのを契機に開始され、全国の被災地の経験や研究成果が発表されてきた。
 9番目の「防災無線整備事業」には、設備の更新とデジタル化が含められた。防災無線は場所により音量が適切でないという苦情があった。東日本大震災では、町民への連絡には、防災無線の他に、町・消防・消防団の広報車、漁業協同組合の有線放送が使われた。更に、東日本大震災後に、町役場がドコモとエリアメールの契約を行い、平成25年2月6日のソロモン諸島地震の際に、初めてエリアメールを使用した。他の通信会社との類似サービスの契約を検討中であった。
 浦河沖地震及び十勝沖地震の際には、潮位計がないために町役場職員が堤防の突端に潮位を見に行く行為の危険性が指摘されていたが、東日本大震災でも、町役場職員は海岸線に行き、町民が港に行くのを止めたり、防波堤の門落し(かどおとし)が閉まっているかを確認する業務を行った。

4.2.浦河町役場による要援護者支援

 浦河町総合計画の防災事業に災害時要援護者支援に関わる事業はなかった。しかし、浦河町地域防災計画では、平成7年版には「避難場所の設置」項目1か所に「避難させる場合には、老人、幼児、傷病者及び婦人を優先的に避難させるものとする」と記載されたのみであったのに対して、平成24年版では「災害時要援護者対策」に2節4ページがあてられ、ほかにも5か所で「要援護者」に関する記載があった。
 浦河町役場は防災の担当課である総務課による災害対策がある一方で、町民課と保健福祉課による平時の高齢者・障害者対策が頻繁に起こる地震時に要援護者への対応を行っていた。

(1)災害時要援護者名簿

 平成18年には、独居高齢者、高齢者世帯、障害者手帳所有者、難病認定者などを役場で抽出し要援護者名簿を作成した。国リハが開発した地理情報システムのサーバーは浦河町役場に設置され、この名簿の登録住所表示をハザードマップ、等高線、航空写真、住宅地図の各レイヤーと重ねることが可能であった。住宅地図と等高線のレイヤーを表示し、B0版に印刷して、当時の図上訓練で使用された(図5)。名簿情報をはずした同じシステムは、浦河町図書館閲覧室にも設置し、町民への閲覧を可能とした。システム開発に際しては、べてるの家のメンバーであるシステムエンジニアが研究チームの一員として、町役場で業務を行ったことも注目された[39]。

図5 平成18年度までに開発された浦河GIS

図5 平成18年度までに開発された浦河GIS

 平成22年度には、浦河町災害時要援護者台帳(以下、台帳)を手上げ方式で作成し直した。まず、住民票から65歳以上独居世帯と65歳以上高齢者世帯を抽出した。さらに、障害者手帳所有者等を加えた3,286名を緊急雇用事業による臨時雇用の調査員3名で戸別訪問し、台帳に載せるか否かの意向を調査した。図9と10に台帳登録の申請用紙を示した。
 調査は社会福祉協議会に委託された。調査では、住宅用火災警報器の設置状況も確認した。登録は1,568名で、調査対象者の47.7%であった。不登録の理由は、希望しない1,028名31.3%、死亡・入院・施設入所401名12.2%、住民票では高齢世帯であるが実際には子どもと同居しているために登録不要199名6.1%、未回収90名2.7%であった。要援護者候補のうち、災害時に安否確認をする事業所あるいは支援者がいない者は、未回収の90名の中にいると町役場職員は推測した。そこで、平成24年度には前年度の未回収のうち75件について再訪問を行い、40件のデータ登録と30件の「登録希望なし」を確認した。「登録希望なし」には、高齢者世帯であっても近隣に子どもが住んでいる場合、介助者が週に何回か来るので町の台帳に載らなくていいと本人が判断した場合があった。登録申請書には、本人や家族が言いたくない場合は、配慮を要する状態は記入されていなかった。
 登録申請書には「緊急連絡先」3件の記入欄はあったが、「避難支援者」の欄はなかった。その代わりに、「使用しているサービス内容、事業所、担当者」を記入する欄があり、発災後一定期間内の安否確認と事後対応の担当機関がわかる仕組みであった。町役場職員は「要援護者と支援者のマッチング」について、質問用紙の選択肢から「支援者への依頼は、要援護者が自分ですることを期待している」を選択し、自治会や民生委員にマッチングの調整を依頼することはなかった。一方、一部の自治会福祉部では高齢者の訪問をすることや、図上訓練で地域内の要援護者の住居に印を付けることで、自治会に名簿提供をしなくても近隣住民が意識すれば、要援護者の存在を把握できる状況であることが町役場職員から回答された。

表1 浦河町の人口、高齢化率および要援護者数

 数(人)人口比(%)
人口(平成23年9月)13,974
人口密度(人/k㎡)19.7
後期高齢者数(人)1,92113.7
前期高齢者数1,69912.2
全要援護者数(人)3,28633.6
データ登録者数(人)1,1037.9
障害者数(人)7595.4

表2 浦河町の全要援護者者とデータ登録者の内訳

 名簿(人)データ登録(人)登録比率(%)
視覚障害51身体障害 35866.5
聴覚障害42
肢体不自由445
療育手帳1075753.3
精神障害1146456.1
難病指定27 
要介護512986.2
要介護49066.7
要介護3952324.2
要介護21304635.4
要介護11182622.0
外国人83 0.0
高齢者(75歳以上)1,93448825.2
その他465 
合計3,3831,568 

手帳所有者数または認定者数(平成25年1月24日現在)

表3 全要援護者に対するデータ登録状況

分類人数全候補者に対する割合
データ登録者数1,56847.7
登録希望なし1,02831.3
死亡、入院、施設入所40112.2
住所別だが同居者(65歳以下)あり1996.1
未回収902.7
合計3,286100.0

 名簿の共有は、総務課と保健福祉課に加えて町民課とも行い、転入出情報と連動させた。また、ケアマネージャーがいる地域包括支援センターとも共有した。名簿情報は、情報共有した各課ではゼンリン電子地図帳Zi15(ゼンリン)により地図上に表示することができた。しかし、消防署、警察署、社会福祉協議会、民生委員、自治会とは共有していなかった。
 町役場から自治会を介して町民に働きかけることは多くあった。たとえば、町役場は自治会長会議及び懇談会を開催するほか、町役場の職員のうち課長と課長補佐には担当する自治会が決められており、自治会総会へ担当職員が参加していた。その経験から、災害時の避難支援は「お互いの共通理解のもと、地域で取り組みましょうよっていうところがないと、単純に名簿できたんで、自治会さんでも対応お願いしますっていうんだったら、押しつけなっちゃう。名簿の活用のでは生きていかないと思う。」と語られた。

(2)災害時の要援護者支援の実際

 大災害時には総務課が司令塔になり、要援護者名簿が必要な部署に提供される見込みであった。地震が頻発する浦河町では、要援護者名簿を使うまでもなく、すでに、平成5年南西沖地震、平成22年チリ沖津波、平成23年東日本大震災で、すべての要援護者の自宅を回り、安否確認と事後支援が行われていた。しかし、自力避難できない人の避難支援は未解決の課題であった。
 要援護者名簿の登録者のほとんどすべては何らかの福祉サービスを受けていたため、高齢者に関しては、高齢者への総合的な支援を行う機関である地域包括センターが、要援護者の状態と提供しているサービス内容をすでに把握していた。そこで、要援護者名簿がなくても、地域包括センター職員、ケアマネージャー、民間事業所職員により、最優先に避難支援をすべき人が誰か、発災時に家族や介護者がいるか否か、避難先での介護が必要な人が知られていた。
 障害者は保健センターで把握されているが、東日本大震災では保健センターの保健師は避難所に派遣されて健康相談を実施した。経過観察が必要と判断された人には定期的に訪問し、「自分の家にいるのが怖い」という3名は一時的に介護予防センターに保護された。
 一方、自力避難ができない人の避難支援にどのように地域の協力を得るかは課題であった。町役場職員は避難所や警備・警戒に配置され、個別の支援を行う体制をとることは困難であった。「近所との関係ができていない場合に、要援護者登録しているからといって近所に避難支援を町役場から依頼することには抵抗がある。東日本大震災では、近所の助け合いの例として、高齢者世帯のために水の配給を余分に受け取りにきた隣人はいた。精神障害者は人間関係が困難な場合が多いため、近所づきあいをしていない場合が多いことへの対策は今後の課題である。」と、町役場職員は語った。

(3)べてるの家の防災活動に対する町役場の見方

 べてるの家による自主的で綿密な避難訓練、練習の成果として集団行動での指揮系統が整っていること、高い防災意識、薬の持参などの避難所での過ごし方について検討していることは、町役場職員から肯定的に評価され、特別な配慮の必要性は回答されなかった(引用1,2)。

(引用1)
町役場職員: べてるの方が事前の打ち合わせは積極的っていうか、こまめな形で打ち合わせをしていただけるんで、かえって安心感がある。

(引用2)
調査者:避難所での特別な配慮はありますか?
町役場職員:していません。べてるの場合は核になる人がいるから、そこに言えばピシッとね。地域の住民の方がそういうのに慣れてないから。べてるの方が指揮系統がはっきりしてて、「こっちだ」って言ったら、もう率先して並んでたりとか、そういうのは、やってもらった。(町役場が)配慮しないんじゃなくって、普段のトレーニングかなと思ってね。」

 浦河に移住したが、べてるの家に関わることがない精神障害者は、服薬の必要があれば、自立支援法による自立支援医療受給者証の交付で町役場には把握されたが、サービス事業者からの支援は期待できないことが指摘された。
 一方、町民の避難所への避難率は低い中で、べてるの家のメンバーが避難所に最初に到着し、最後まで残ることに対しては「過敏である」という印象も回答された。

(4) 地域に住むべてるの家メンバーと自治会の関係

 「防災活動に関するべてるの家と地域の間の連携はない」と町役場職員は話した。しかし、「避難所を一緒にして避難をしていくと、その道すがら、例えば、助け合っていくということは、できると、そういったつながりみたいのが、ある程度は、できるんじゃないかなっていう気はします。」と、今後の連携は期待されていた。
 参与観察での映像には、町主催の避難訓練では(平成24年7月21日)、べてるの家のメンバーは集団で行動したが、町内会員と会話もあったことが記録された。たとえば、集合場所に、町内会員とべてるの家メンバーが参集し、訓練の開始を告げる警察官が集合場所に来る前に、べてるの家のメンバーの一部は町内会長に挨拶をした。振り返りでも、「町内会の人と話したのがよかった」という発言があった。ただし、移動は町内会員が先導し、ガードレールのない歩道を1~2列で上ったため、町内会会員とべてるの家のメンバーの会話は移動中も避難所でも目立たなかった。避難所到着後は、べてるの家職員の声かけにより、べてるの家メンバーは、受付名簿への記入、支援物資の搬入、消防担当者の講話を聞くための着席を、集団として整然と行った。ただし、高齢等の理由で歩行が遅いために最後尾で避難所に到着した数名は、避難所の外の喫煙所で休憩したため、支援物資の搬送作業に加わらなかった。

4.3.自治会による防災活動と要援護者支援

(1)自治会の概要

 X自治会は、町役場から北東に約3Km、標高15m以上に位置するため津波による浸水の危険はないが、地区の東端を川が南北に流れるため津波の遡上と集中豪雨の土砂災害の危険が指摘される地域であった。A氏は元消防職員であり、在職中は、昭和46年から退職する平成15年まで予防行政に携わった。特に、浦河沖地震を契機として自主防災組織の必要性を痛感し、各自治会での自主防災組織の結成の指導、婦人防災クラブ及び少年防災クラブの育成を行っていた。平成9年から自治会総務部長で、平成20年には北海道知事より北海道地域防災マスターの認定を受けていた。研究チームと徳島県美波長周辺の視察を行い、防災に関する講演も依頼されて行っていた。
 X自治会は205世帯からなり、自治会への加入率は高いが、50戸から成る町営住宅の転入出情報は個人情報保護法により入手できないと回答された。

(2)自治会の防災活動

 X自治会には自主防災組織はなかったが、防犯防災部があり年末3日間は役員が交代で見回りを行っていた。また、シルバーPTAとして小学生の帰宅時間にあわせて3人一組でタスキをかけて見回りをしていた。「組み合わせは頻繁に変更して、約1時間程度立っている間に世間話をすることで、(当番同士が)顔見知りになり、親しくなり、隣近所のつきあい方にもつながっている。親も挨拶するし、子どもも高校生になっても挨拶する。・・・これも防災のひとつ。隣近所、人と人とのつながりっていうのが、防災に一番役に立つ。」と語られた。

(3)避難訓練

 自治会の広報では、毎年、避難場所の周知を行っていたが、避難訓練は毎年行っているわけではなく、地震の後や新しい訓練内容がある時に行っていた(引用3)。また、平成18年に国リハが作ったB0版の地図を使った図上訓練で避難経路を確認したことから、自治会として、災害についても関心は持続していると語られた。

(引用3)
A: 本当は毎年やれば一番いいんだけれども、なかなか(できない)。定期的に行うことで、「またか」って防災に対する興味が薄れてしまう心配もある。地震があった1か月以内や、新しい体験をする時がいいと思う。平成18年に全道の防災訓練が浦河であった時に・・・防災に興味を持ってもらうために高齢者を中心に、参加してもらった。平成19年には、国リハの要請で連合自治会として、冬季夜間訓練を行った。・・・3年に1回くらいできるといいけれど、「5年経つのでそろそろやった方がいいんじゃないか」っていう声が役員から出て準備していた矢先に3.11が起きてしまって。そこで、(平成23年)7月に、70人くらいの会員が参加した。

 平成23年の訓練では、まず、震度6強の地震を想定して、10時半に一次避難場所(児童公園)に避難開始し、対策本部を設置し、参加人員の点呼を班長が行った。車椅子も2台使用した。消防職員より簡易担架の作成要領と車椅子での避難要領の説明を受けた後、大津波警報の発令を想定して、二次避難場所(かしわ3丁目高台)に徒歩で移動し、班長が人員を確認後、対策本部に報告した。この際、簡易担架2組、車椅子2台も使用した。
 大津波警報解除の想定の後、標高約15mの指定避難所(浦河町ふれあい会館)に移動した。そこで、非常食の配布と調理の訓練を行い、試食を体験した。非常食は賞味期限があるため、訓練を通じて入れ替えを行うことで有効に使用できた。使用した非常食は、べてるの家の備蓄食品を自治会で買い上げた。さらに、消火器の使い方、人工呼吸の方法を教習して13時40 分ごろに終了した。自治会としては食料の備蓄はなく、経費がかかることに対する行政からの支援が期待されていた。
 一次避難場所は児童公園だけでは不足が見込まれたため、自治会から所有者の許可を得て私有地を使わせてもらう取り決めもしていた。豪雨による土砂災害の場合は、ちのみ川をはさんで異なる一次避難場所を決めてあり、一次避難場所に集まった後、状況に応じて二次避難所に移動することになっていたが、二次避難所の裏山が崩れる危険も抱えていた。

(4)自治会における要援護者支援

 自治会内に80歳以上の独居高齢者は16名、そのうち体が不自由な人が5名、べてるの家メンバーが2名いることは、自治会理事会で情報を共有していた。しかし、要援護者に関して、それ以上の情報を自治会長は持っていなかった。
 自治会が把握している16名の独居高齢者に対しては、自治会役員が2名ずつ担当者となり、大きな地震の時には見回りに行くことになっていた。ただし、避難支援についての準備はされておらず、必要に応じて協議が必要であった。町役場に安否確認の報告をすることにはなっておらず、必要な物品等があった場合に町役場に連絡することが考えられていた。また、べてるの家のメンバーに対する特別な配慮は特に考えられていなかった。
 自治会による要援護者支援の課題として、1)自治会としてどこまで要援護者支援に関わるか、2)町役場から要援護者に関する正確な情報がないが、町役場は自治会に主導権をとってほしいと考えているらしいこと、3)当事者は「(障害に関する情報を)外部に出したくないという風潮があること」と回答された。また、避難訓練では車椅子は使ったが、高齢者の参加はなく、訓練中の事故の補償がないため訓練に高齢者を誘うこともためらわれていた。

(5)地域住民とべてるの家との関係

 グループホームも共同住居も、べてるの家としては、原則として自治会には入会する方針であった。しかし、べてるの家のメンバーが入会を認められている自治会と、準会員として活動に参加するが自治会の役員にならない形式をとる自治会があった。

4.4. 浦河べてるの家での防災活動

(1)べてるの家の組織構成

 べてるの家の日中活動参加者は、就労継続支援B型の登録者43名、生活介護の登録者42名であり、どちらにも登録せずに自宅からミーティング等の活動への参加者は最低20名、合計100名程度であった。他に、元登録者の職員が10名程度いた。日中活動の場は5カ所(ニューべてる、カフェぶらぶら、セミナーハウス、畑、働く場所としての病院)であった。居住施設では、4つのグループホーム(フラワーハイツ、グループホームべてる、しおみハイツ、ピア)に42名が住み、共同住居は7つあった。
 べてるの家に関する出版物や講演を聴いて、家族で浦河に移住してくる人もいた。本人がべてるの家に関心があってもべてるの家のサービス定員に空きがない場合は、NPO「架け橋」がピアサポートとして訪問活動を行った。家族がべてるの家に参加させたくても本人に参加意志がない場合には、浦河に住みながら、べてるの家と関係をもたない場合もあった。平成24年度のこのような相談は3件であったという。家族が家族会に参加しながら、10年かけて、べてるの家のメンバーになった例もあった。しかし、べてるの家と全く関わりをもたない場合や連絡なしに帰郷する場合もあり、実数の確定はできていなかった。常時10名程度の移住者があると回答された。

(2)防災チーム

 対外的に、べてるの家の防災活動として取り上げられているのは、「社会福祉法人としての職員による支援体制外で、メンバーが自助として障害がありながらも自分たちで逃げられるようにという活動」と、B氏から、位置づけられた。共同住宅以外の各施設には、職員のサービス管理責任者が定められ、消防法に従った体制があった。以下には、メンバーによる防災活動を紹介する。
 べてるの家では、全員が防災チームの一員として参加していた。平成19年から、グループホーム、共同住居、活動拠点には、それぞれ防災隊長と副隊長をおき、避難訓練で役割を担ったり、平時の緊急対応に意識を持って関わっていた。防災隊長と副隊長に任期はなく、移動などがない限り継続されていた。防災隊長と副隊長の役割は、避難の声掛け、先導、しんがり、事前打ち合わせであった。避難訓練の計画は、週1回の住居ミーティングの中で職員と共に相談された。ただし、共同住居では、住居ミーティングに職員が入らない場合もあった。防災隊長と副隊長は、災害時だけでなく、職員不在の夜間に救急車を呼ぶ場合にも主導的な役割を果たしていた。

(3)避難訓練

 べてるの家では、原則、夏冬2回の訓練を行っているが、全ての活動拠点で一斉に行われるのではなく、畑を除く4か所の活動拠点と宿泊施設でミーティングの日のあわせて避難訓練が行われるため、年に4回の避難訓練に参加する人もいた。ただし、消防署に避難訓練への参加を依頼すると、施設毎の避難訓練を1日にまとめることが求められた。
 毎回の避難訓練の手順は以下の如くであった。1)スタッフミーティング(図6)、2)訓練参加者による前ミーティングでの目標確認、3)デイジーの避難マニュアル等による避難経路の確認、4)役割分担決め(先導、しんがり、防災リュックを持つ係、車いす移動係など)、5)開始時間の確認、6)開始。振り返りは、目標地点または出発地点で行われた(図7)。振り返りでは、「よかったこと」「苦労したこと」「さらに良くするためにはどうしたらいいか」が話し合われた。避難訓練の他に、チリ地震、東日本大震災他、他地域での大災害時には、緊急に防災にミーティングを行った。

図6 避難訓練前のスタッフミーティング

図6 避難訓練前のスタッフミーティング

図7 避難訓練前のミーティング(この日は、火災避難訓練で事業所の外に出た後に、引き続いて行う津波避難訓練の前ミーティングを行った)

図7 避難訓練前のミーティング

 冬は道路が凍り歩きにくいために、避難時間が長くなることが予想されたが、「逆に,寒いから、みんなちょっと固まった、結構ちゃっちゃって歩くので、結構早かったみたいな印象で、(到達時間は)そう大きくは変わらない。吹雪になったら話は変わってくると思います。」と回答された。
 日中活動場所と居住地からの避難場所について正しく理解している利用者は7割程度であると見込まれたが、「10人のうち7人が避難場所を覚えていれば、3人はついていくのではないか」と、職員は回答した。「防災活動の初期段階から参加していても、避難訓練の前のミーティングで『地震が起こったら4分じっとしていればいいだろう』と、間違った答えをする者もいるため、繰り返しの訓練は重要である」という。
 避難時の携帯品についても繰り返しの訓練において進歩していた。「避難する際に携帯する物品は、べてるの家として考える部分に加えて、自助努力として普段持っている鞄の中に何をいれようかという部分が出てきました。薬は3日分。普段から水筒を持っている人は、それを使えるね。というのを前ミーティングで確認して、普段のバッグに非常時の持ち物を入れるというのを進めています。個々の意識が高まっています。」と、語られた。
 共同住居やグループホームに住んでいないメンバーも、近くの共同住居やグループホームの避難訓練に合流した。しかし、べてるの畑、居住地のうち幌別地区と堺町地区では避難場所が決まっていなかった。

(4)避難訓練を続けてよかったこと

 「避難訓練を続けてよかったこと」は2点があげられた。第一は、必要な時に避難が確実にできることであった。「避難訓練の日がみぞれで悪天候であっても、文句を言わずに、黙々と避難して、振り返りをする。東日本大震災の時も、『さあ、行くよ』って言った時に、文句も言わずに避難できるっていうことが、長年の成果だと思う。」と、回答した。
 第二は、X自治会長と札幌で行った防災の講演の機会に、べてるの家に関する外部からの高い評価を自治会長に知ってもらえたことであった。「『べてるもなかなかがんばっているじゃないか』みたいな印象も持ってくださった。防災の縁で、自治会長さんにそういうことを知ってもらう機会があったのは、小さいことだけど、よかったなと思った。」と述べられた。

(5)避難訓練の課題

 避難訓練の課題は、B氏から4つが回答された。そのうち3つは、すでに報告された課題であったが[3]、報告されていない詳しい内容を含めて以下に紹介する。
 第一は、避難場所と経路であった。避難時間が長くなる場合に備えて暖かく屋根のある場所に行くには、これまでの訓練とは違う経路を取らなければならず、到達目標時間を達成するには、近道を作ることが望まれた(図8)。

図8 活動拠点の一つから避難所までの避難経路。災害時には、鉄道を横断して近道ができると避難時間が短縮できる箇所が見いだされた。

図8 活動拠点の一つから避難所までの避難経路

 第二は、車椅子利用による避難方法であった。身体障害の他に、高齢化により車いすを避難に必要とするメンバーは活動拠点ごとに2名程度いた。平成24年7月30日の避難訓練における参与観察では、車いすにロープをつけて左右2名で引いたり、後ろから2名で押したりする様子が観察された。ロープで引く方法は、さらに検討が必要であることが議論された。なぜなら、2人で前から車いすを引くと、3人分の横幅をとるため車道にはみ出したためであった。車いすや車で移動せざるを得ない人が円滑に移動できるように、避難所への道は下りを制限して、歩行者と登る車を優先させることは振り返りで提案された。
 第三は、避難所での過ごし方であった。避難所でどのように町民と共生するかは、平時からどのように共生するかということにつながる課題であると認識されていた。「(夏の町主催の避難訓練の経験から)お互い安心できる同士がかたまって座るが、物資のリレーでは、べてるの人も自治会の人もみんなで協力し合うという、お互いの配慮の仕方になるんだろうなと思いました。」と回答された。しかし、東日本大震災では、不安で避難所に居られずに早々に帰ってしまったメンバーもいた。海沿いに住んでいる発達障害の子どもが興奮して避難所に行けないため、仕方なく、海岸から6.5Kmの山あいにある町立宿泊施設アエルに泊った家庭もあったという。避難所(例えば、スポーツセンター)にいられないメンバーは、避難所近くの高台にあるべてるの家の共同住居(例えば、リカハウス)を福祉避難所として、べてるの家の職員から支援を受けることも提案された。べてるの家のグループホーム及び共同住居には共用スペースがあり、職員は精神障害者と発達障害者の支援経験があったからである。福祉避難所に指定された場合には、避難所と同等の情報や配給が受けられる仕組みをどのように確保するか、及び、近隣住民への情報提供や配給をどのように行うかも課題とされた。
 第四は、支援者のメンタルヘルスと回答され、「支援者自身の安全確保とメンバーの安全確認の両立」は課題であると語られた。

(6)要援護者名簿

 平成22年には、町役場による調査の際に、べてるの家では、ミーティングで要援護者台帳について職員が説明した。避難所で薬の手配が必要である人と移動に困難がある人は台帳に登録することにした。そこで、「何を書いていいか一人ではわからないから、みんなで困難を出し合って、書き方が共有」された。
 台帳に登録することで、直ちに、公的な支援が得られることは期待されていなかった。「公助のためにそれ(台帳の申請)を送ったんだけど、でも、何ていうのかな、『じゃあ助けてよ』ってこっちから、こう、偉そうに言うのはやっぱりちょっと違うかな。お互いの支えの中でやっているから、そのどういうふうに歩みよりながらできるかなっていうのは話しあっていきたいなと思う。」と語られた。

(7)地域との関係

 グループホームも共同住居も、べてるの家としては、原則として自治会には入会する方針であった。しかし、べてるの家のメンバーが入会を認められている自治会と、準会員として活動に参加するが自治会の役員にならない形式をとる自治会があった。
 べてるの家のメンバーが地域の独居高齢者の支援を行う例もあった。たとえば、平成22年チリ地震では、共同住居(潮騒荘)に住むべてるの家のメンバーは、近隣の歩行困難な独居高齢者の車いすを避難所まで押した。
 また、防災訓練では自治会とべてるの家の防災チームが事前に避難方法を協議した。平成24年7月21日の町主催の防災訓練では、Y自治会では、階段を使い、階段が難しい人は車で移動する予定であった。しかし、べてるの家のメンバーが車いすを使って斜面を移動することを聞き、自治会でも全員が「一緒に避難しましょう」と、集合場所を決めて、全員で同じ斜面を登ったことを、職員は「よかった」と述べた。さらに、「その後、町の人も『実は、うちにも、寝たきりのばあさんがいるんだけど、どうしよう』と、お互いに考える機会になったことはあります。」と、語った。

(8)地震による避難経験

 平成22年チリ地震では、地震から津波まで1日程度の時間の余裕があったため、町役場からべてるの家に安否確認の電話があった。すでに、それまでの防災活動を通じて、べてるの家は町役場と連絡をとり合うようになっており、担当職員に連絡が入った。東日本大震災では、時間の余裕がなかったため、避難所の運営に来た役場職員と安否を確認しあった。避難所は10か所中3カ所に集約されたために、メンバーも避難所を移動した。中には移動するときに帰ってしまったり、違う場所に行っていたという混乱は少しあったが、メールで1時間後には所在が確認された。避難所からの帰宅は、最終責任は施設職員が負うものの、メンバーの自主的な判断が尊重された。
 震災後に体調が悪くなった4名に対しては、「病院の先生が『避難入院してもいいよ・・・心配な人は避難入院オーケー』ってすぐオーケーを出してくれた」ため、すぐに、入院できた。入院理由は下記のごとくであった。1人目は、震災前からバランスが崩れており、妄想がとれずに不眠のための入院であった。2人目は、薬を持って行かなかったことで不安になって入院に至った。3人目は、親戚が東北にいることで不安になった。

(9)避難の過敏性について

 「べてるの家の避難は過敏だ(町民が避難しない時にも避難する)」という声もあることについて、B氏は以下のように語った。「平成22年チリ津波のときに、浦河町では800世帯1,700人に避難勧告が出されましたが、べてるの家のメンバー(約50名)だけが避難所に避難しました。町の人は『そんなことしなくても』ぐらいの気持ちでいたと思うんですよね。役場の人は優しく接してくれる中で・・・もしかしたら笑われていたかもしれないけれども、私たちにとってはオーケーというか、今までやってきたことを自分たちが必要だと思うから行動で示したっていう部分で、『そういう笑いだったらいつでも引き受けますよ』と思っていました。3.11になったら、町の人も避難して来て、やっぱり活動は無駄じゃなかったっていうのを、今、感じていまです。」

5.考察

5.1.自助が引き出した共助と公助

 「災害時要援護者支援ガイドライン」[42 ]では、市町村が要援護者台帳を作成し、自治会に提供し、自治会で要援護者の個人避難計画を作成することが見込まれている。しかし、障害と救援に関する専門性のない自治会で個人避難計画を作ることや要援護者を避難させることは困難であり、全国的にこの方法は行き詰まっている。
 地震が頻発する浦河町では、この方法を取ろうとしていないことは注目される。本稿で紹介したように、浦河町では、町役場、自治会、当事者は、お互いにできることを現実的に推測し、無理な要望を出さずに、それぞれができることから防災のための準備を開始した結果、共助及び公助を引き出すとともに、共助及び公助に依頼しなければできないことを明らかにしたと考えられる。
 べてるの家が自助による避難訓練を継続した成果から必要性が示された公助として、避難のための近道を作ることで避難時間を短縮することが提案された。近道は、べてるの家のメンバーだけでなく地域の高齢者や住民全員に役立つことも注目される。また、厚生労働省から障害者自立支援調査研究プロジェクトをべてるの家が採択されて防災活動を進展させたことは公助の活用といえる。
 自助から引き出されて共助には、べてるの家の備蓄食料を賞味期限前に自治会で購入して自治会の避難訓練で使用したこと、避難訓練の事前連絡から自治会の住民がべてるの家のメンバーと同じ経路で避難訓練を行うようになるなど、予期していなかった協力があった。
 しかし、これらの協力関係が生成するには、べてるの家のメンバーと自治会及び町役場が定期的な防災活動を行う過程で相互理解を深めてきた10年の試行があった。それでも、地域の災害時要援護者において、自治会は独居高齢者に避難時の声かけをする以上の特別な配慮の準備はないなどの課題が残っており、息の長い活動を継続することの必要性が示唆された。平成24年度の内閣府「災害時要援護者の避難支援に関する検討会報告書」で、災害時には災害時要配慮者連絡会議を適宜開催すること、平時には研修や実践的な訓練を実施することが記載された[43]。災害時要配慮者連絡会議及び研修を平時から開催したり、障害に関連する組織の平常事業の中で定例課題として取り上げることにより、関係者間の連携を進めることが望まれる。

5.2.精神障害者に対する災害時における合理的配慮

 調査から抽出された精神障害に特有な課題は、「薬の準備」「揺れや親戚への不安や心配」「避難所での地域住民との過ごし方」であった。
 「薬の準備」に関しては、すでに1週間分の薬を患者自身が常備あるいは平時から携帯し、避難所に持参することや避難所の受付で申し出たり薬の情報を提示することは、慢性疾患患者あるいは難病患者の災害時患者支援計画等に記載されている[44]。一方、薬の名称から障害が周囲に知られることを防ぐために、医療機関を介した薬の提供システムを整備すべきという提案もある[45]。
 精神障害を背景にもつ「揺れや親戚への不安や心配」には、浦河の病院で提案されたようにかかりつけ医あるいは専門医からの入院を含めた支援を早期に利用できる準備が有効と考える。
 「避難所での地域住民との過ごし方」については、立場により問題意識の認識と提案した対処方法に差異が示された。すなわち、べてるの家の職員は東日本大震災でも避難所にいられなくなったメンバーがいたことから、べてるの家の施設を福祉避難所とすることを提案した。べてるの家のメンバーからは避難中にミーティングを行うことが提案された[46]。一方、町役場職員は、「(べてるの家のメンバーは)最初に(避難所に)来て、最後に帰ることが特異である」と指摘したが、このことに対して特別な配慮の必要性は意識されていなかった。迅速な避難行動は津波避難三原則のうち「率先避難者たれ」に相当する推奨されるべき行為である[46]。従って、災害本部が避難所開設の判断をしていないのに不安のために避難所を訪れた者や避難勧告が終結しても不安で帰りにくい者には、東日本大震災で不安を訴えた者に介護予防センターに保護したように保護場所を確保したり、指定避難所を福祉避難所として長く運営することも選択肢になると考える。

5.3.平時に組み込まれた防災活動

 浦河町では、手上げ式の要援護者台帳はあるものの、平時のサービス体制による災害時の安否確認とニーズの把握及び対応を行っていた。ただし、発災直後の安否確認は、電話とメールが使用されていたため、通信手段が制限される甚大災害時の対策は今後の課題である。また、平時にサービスを利用していない要援護者の安否確認を誰が行うかも今後の検討を要する。
 避難支援あるいは救出は、平時のサービスにはないことから、浦河町でも、まだ、対策はほとんど講じられていなかった。地域の支援者にとっても安全な避難支援には、介護技術や救出技術が必要な場合があることも予測できるため、事前の準備を平時のサービスの中に位置づける必要があると考える。
 たとえば、東京都では、平成24年に「東京都在宅人工呼吸器使用者災害時支援指針」を作成し、区市町村等の関係機関及び関係者が災害時に人工呼吸器使用者の安全確保ができるよう、平常時からの準備及び発災時の支援方法を準備すべきことを示した。一部の市区町村では、訪問看護師または人工呼吸器の予備バッテリーのチェックを定期的に行うことを勧めている。その他の障害及び疾患についても、避難場所、避難経路、避難方法(同行者)の準備が、当事者・支援者・行政に期待される。

文献

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[31] 川端俊.浦河べてるの家のDAISY版避難マニュアルを活用した防災活動ミーティング(2008.12.3)の記録より.障害保健福祉研究情報システム.2008.

[32] 水谷真. 北海道べてるの家に学ぶ地域防災. AJU福祉情報誌 109. 2010.

[33] 浦河町. 浦河町老人保健福祉計画、浦河町介護保険事業計画(平成24?26年度), 2012.

[34] 内閣府.平成24年版高齢社会書.2012.

[35] 相田勇, 羽鳥徳太郎, 村井勇, 広井修.津波予報と住民に反応に関する事例調査(1)―北海道浦河町および浜中町―. 地震研究所年報. 58: 207-242. 1983.

[36] 東京大学新聞研究所「災害と情報」研究班.1982年浦河沖地震と住民の反応. 1982.

[37] 静岡県防災局・土木部・住宅都市部. 平成15年(2003年)十勝沖地震調査報告書. 2003.

[38] 浦河町役場. 平成23年度浦河町事務事業概要.2012.

[39] 向谷地生良. 「べてるの家」からふく風. いのちのことば社. 2006.

[40] 浦河町役場.第6次浦河町総合計画後期5ヵ年基本計画(2012~2016).2012

[41] 池田拓. 「その時」に備えて 自治体防災の現状と今後. 北海道建築新聞. 2011年06月23日.

[42] 災害時要援護者支援検討会.災害時要援護者支援ガイドライン. 2006.

[43] 災害時要援護者の避難支援に関する検討会. 災害時要援護者の避難支援に関する検討会報告書報告書.2013.

[44] 厚生労働科学研究補助金 難治性疾患克服事業「重症難病患者の地域医療体制の構築に関する研究」班.災害時難病患者支援計画策定検討ワーキンググループ(西澤正富).災害時難病患者支援計画を策定するための指針.2008.

[45]池松麻穂, 吉田めぐみ. 精神障害者にかかわる取り組み. シンポジウム「東日本大震災と障害者の情報保障」(障害者放送協議会) 障害保健福祉研究情報システム.2011.

[46] 片田敏孝. 子どもたちを守った「姿勢の防災教育」~大津波から生き抜いた釜石市の児童・生徒の行動に学ぶ~,日本災害情報学会誌,No.10 2012.

図9 浦河町災害時要援護者台帳登録希望調査票(兼申請書)(表)

図9 浦河町災害時要援護者台帳登録希望調査票(兼申請書)(表)

図10 浦河町災害時要援護者台帳登録希望調査票(兼申込書)

図10 浦河町災害時要援護者台帳登録希望調査票(兼申込書)