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平成17年度 マルチメディアDAISY図書製作普及事業 総括報告書

【シンポジウム】出版とマルチメディアDAISY

河村宏(国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所障害福祉研究部長)

河村です。私がここで申し上げたいのは。先ほどからオリジナルのDAISY製作が触れられていますが、私は是非そういったものがたくさん出てほしいなと思っています。

最初からDAISYで作ったときに何ができるのか。

実はページとは、グーテンベルクの印刷技術以来、存在しているものなのです。

大変便利なものではあります。引用の仕方も、何という本の、誰が著者で、どの出版社がいつ・どこで出版をして、そういう書誌事項の国際スタンダードも出来ています。

また、その本の何ページあるいは第何章と言えば、世界中どこへ行っても、その本さえあればたちどころにそこを引用できる、参照できる。という非常によく整った、世界中で共通に使える規格がそこに存在しているのです。それがいまの図書です。その規格に従って世界中の図書館が足並みを揃えて活動をしている、ということが現状です。

ところが、グーテンベルク以前はどのようになっていたかと言うと、手づくりの皮にいろいろなインクで書く、あるいは巻き物だったわけです。巻き物とは、いまのパソコンのマルチメディアで言うとスクロールです。ズルズルズルッとどこまでも巻いていける。これは、画面を2つに分割したときなどにいい面もあります。絵や図の説明のときに、絵や図をそのまま動かさずに、横の説明がどんどん流れていく。また、聴覚障害の方も含めてですが、字幕を必要とする方の中に自閉症の方たちもいらっしゃるようです。そういった方たちは、音はこれ以上頭に入れたくない、耳を塞いで、音を消して字を見ることによってみんなの討論に参加するほうがよりよくわかる。このようなニーズも聞かされております。そういう方たちは、概して読みのスピードがものすごく早い人が多いです。たくさんのテキストをパッと元に戻して、行ったりきたりしながら読みたいというニーズがあります。

そういうものにスクロールは非常に便利だと思います。確かにグーテンベルクが世界中に印刷技術を普及していまの出版があるわけですが、その中で、私たちが今日話題にしているように、取り残された障害のある人たちの読書の問題、情報のアクセスの問題があるわけです。

同様に、これからはデジタルテレビがさまざまな機能を持っていきますが、全部の機能を活用できる人、一部の機能しか活用できない、あるいは全く活用できない人、そのようになっていく懸念があるわけです。

ここで私たちがこれからいま蓄積している、生産している情報をきちんと整理して、その知識を自分たち自身が共有の財産として使う、さらに次の世代、そして私たちの子孫の世代までこの文化、知識を伝えていくことが現代に生きる私たちの共通の課題であろうと思います。

なぜかと言うと。私たちは、過去の遺産を摂取して、その中からいまの知識と文化を築いているのです。ですから、私たちがこれを次の世代に送るのを止めてしまったら、次の世代は、同じような創造的な活動に大きな制約を受けるわけです。そのときに現在の知識、技術を最大限に活用して、誰もが排除されることなく、同じように使える新しい文化と知識を次の世代に、今いる人たちとともに継承していくことをテーマに出版あるいは情報の生産・流通を考え直してみるのが、今の私たちが21世紀のいわゆる情報化社会の中で考えるべきことではないか、今、考えなければ手遅れになる危険が非常に強い、と考えます。なぜかと言うと、知的所有権・知的財産権を議論しているベースは、非常に短期に投資したものを回収することだけに尽きているからです。

100年、200年後にその時代の人たちが受ける利益を現在の収支の中に計算して折り込むというような議論は、全く行われていません。

これは、私が今回の会議をオーガナイズしてくださった担当者から教えてもらったのですが、直木賞候補の作家の方がインターネットのブログで、マルチメディアDAISY、大いに結構、という議論を展開されているのを教えてもらい、拝見しました。なるほどなと思ったのは、その方が、作家の勝利とは何だろうかと書いていらっしゃいます。

作家の勝利とは多くの人に読んでもらうことだ、と書いています。まさにそのとおりだと思います。
そのとき、同じ時代に読んでくれるか。たくさんの人が読んでくれて買ってくれればいちばんいいに決まっているけれども、でも100年、200年、そして後々までも読んでもらえることは、それこそ作家の勝利ではないのか。私たちは、そういったことも含めた出版あるいは文化を考えながら、この情報のアクセスの問題を考えていく必要があるのではないか。そのように思います。  

特にいろいろな知的所有権が鍵を掛けて、お金を払わないと見せないということが非常に流行っています。

特にデジタルコンテンツは、みなそうなりそうです。そうなったとき、50年後ぐらいから今の時代を振り返ると、まるでブラックホールのように、鍵が掛かっているものばかりで何も開けないデジタルコンテンツが累々とある、これは一体どうなっているのだろう、となりかねません。これは冗談ではないです。つまり、鍵がないと開けないようにしてしまったものは、それを開けるシステムがないと、絶対に読めないのです。これは、いままでになかったことなのです。それが当たり前となっていくことに、私は強い危惧を感じます。

それは、今の時代の人たちがアクセスできない、障害のある人たちのことが考慮されていない、それと同時に将来の私たちが文化を継承していくことにどう責任を負うかということについても、やはり重要な問題を投げ掛けているのではないかと思います。

DAISYが徹底してオープンスタンダードである。インターオペラビリティといい、どんな系でも動くようにしている。技術的には、テキストファイルの上にいろいろなマークアップという記号を付けて、テキストエディターさえあればソースが見える。

このような構成をとっているのは、実はこの時代を超えて継承していくためのスタンダードとして考えているからです。

DAISYのパーツは、すべていわゆるスタンダードのもので、オリジナルのものをできるだけなくする。そのことによって、次々と新しい技術に対応しながら次の世代に継承できるようなものとして技術を提供していく。そういう構成をとっているわけです。

こういった徹底的にオープンなスタンダードは、コマーシャルベースで提案されているものにはほかに全くありません。その点がDAISYのきわめてユニークなところです。それを国際標準の軸としてみんなで大事に育てていくことが重要なのではないかと思います。