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戦後三十年、障害者施策の展開と障害者運動

板山賢治

 昭和20年8月、戦争は終わった。「国破れて山河在り」というが、東京をはじめ全国98の主要都市は、B29の爆撃により焼土と化し、加えて広島・長崎の原爆、沖縄戦の惨禍である。そして復員軍人300万人、引揚者600万人、失業者は1000万人を超え物不足とインフレが襲う。「国民皆貧時代」のなかで、旧傷痍軍人や戦災障害者、失明者等は、悲惨な生活を余儀なくされていた。

貧困者対策からの脱却を目指して

 終戦、連合軍総司令部(GHQ)の指令により、旧軍事援護を中心とする日本の障害者施策は、全廃され、傷痍軍人等が多数を占める障害者は、「非軍事化政策」により一般貧困者として、緊急生活援護要綱(昭和20年)から旧生活保護法(昭和21年)により保護されていた。この頃、「白衣の傷痍軍人」の物乞い姿が社会問題となり、23年頃から旧陸海軍病院入院患者が中心となった患者運動は、全国患者同盟へと発展する。厚生省は、昭和22年から緊急対策として身体障害者授産施設や、失明軍人を対象とする国立光明寮を、24年には身体障害者更生指導所を設置している。
 昭和23年8月「三重苦の聖女」ヘレン・ケラー女史が来日し、「日本盲人会連合」および毎日新聞社の協賛による一大キャンペーンを展開し「盲人福祉法」の制定運動に発展する。これはGHQの強い示唆もあって障害者一般を対象とする「身体障害者福祉法」(24年12月)の制定となる。GHQの制肘を受け陽の目をみなかった戦傷病者対策も26年4月の「対日講和条約」の発効により、10月16日には「雌伏七年」漸く日本傷痍軍人会が再建され、「戦傷病者対策」や「軍人恩給」実現の推進力となる。
 この当時、結核は国民病と呼ばれ、大きな社会問題であった。昭和23年3月には日本患者同盟が結成され、26年4月の結核予防法の全面改正の原動力となり、その後生活保護法の運営をめぐる各種運動、特に内部障害者対策の展開に貢献する。
 戦後の心身障害児施策は、昭和22年の児童福祉法の制定により医療と教育の両面からの「療育」を基本に専門的・体系的施策が講じられていたが、24年11月、日本肢体不自由児協会が発足。「手足の不自由な子どもを育てる運動」の核となり、29年3月の「育成医療」および「更生医療」の実現に大きな役割を果たしている。
 「精神薄弱者福祉法」が実現したのは昭和35年であったが、昭和24年には日本精神薄弱者愛護協会、同27年には全日本精神薄弱者育成会が活動を始めている。
 昭和33年4月、国立ろうあ者更生指導所が設置された。この実現に尽くした全日本ろうあ連盟は、22年5月に結成された先駆的な団体であったが、「ベル会館」建設問題に遭い苦難の道を辿る。
 そして昭和34年の「国民年金法」、同35年「身体障害者雇用促進法」が制定され、所得保障、雇用対策という基盤整備が進む。
 昭和33年には、日本身体障害者団体連合会(日身連)が旗揚げしているが、この時期、職域を単位として全国鉄傷痍者団体連合会(27年)、全国脊髄損傷者協会(34年)が発足する。
 戦後十五年余における障害者施策は、一般貧困者対策からの脱却であり、運動も障害種別の組織固めに着手した時期であった。そして、昭和31年の「経済白書」は、「もはや戦後ではない」と宣言した。

障害者基本法から「IYDP」へ

 障害者施策の特質の一つは、人の全生涯に関わる専門的、総合的な対応を必要とするところにある。それは、「四つの障壁」の解消を必要とする。
 一つは、「物理的な環境のカベ」であり、建築物から交通機関等の物理的環境にひろがる。
 二つは、「制度・しくみのカベ」であり、法や制度、社会的なしくみにひろがる。
 三つは、「情報・文化のカベ」であり、テレビ、ラジオ、新聞から芸術、文化、スポーツなどの世界にひろがる。
 四つには、「人の心、意識のカベ」であり、当事者をも含む心のもちよう。教育や家庭、地域社会のあり方にも関わる。
 昭和39年の東京オリンピック、それに続くパラリンピックの開催は、障害者のもつ可能性に社会の目を開くとともに日本の障害者施策の後進性を鋭く指摘することとなった。
 これを機に発足した日本身体障害者スポーツ協会(45年5月)は、国内外に活動の場を広げ障害者スポーツ・リハビリテーションの振興に貢献する。
 昭和38年になると「サリドマイド児」問題が登場し、6月、中央公論誌上に「拝啓池田内閣総理大臣殿」という水上勉氏の一文が掲載され「あゆみの箱」運動もあり社会的、政治的に重度障害児への関心が広がりをみせる。39年には「全国重症心身障害児(者)を守る会」や「子供たちの未来を開く父母の会」の運動が重度障害児者対策の推進に大きく貢献する。「重度精薄児扶養手当」(39年)や「重症児療育費」(38年)、国立療養所の「重症児病棟」(40年)が実現するとともに「コロニー構想」への展開をみせる。
 昭和42年には、日患同盟等が強く要望していた身体障害者への内部障害者の取り入れが実現する。
 昭和43年、日本は、世界第2位の豊かな国になり国民生活水準は向上する。反面、公害、交通事故等の発生をみることとなり、障害者施策もまた広範多岐にわたる対応を必要としてきた。
 従来ともすれば、厚生行政に偏りがちであった障害者施策が、教育、労働はもちろん、建設、運輸、郵政、環境など幅広い分野にわたり急速に推進されるようになる。この広範多岐にわたる行政施策の総合化、統一性の確保が課題となってきたが、昭和45年の「心身障害者対策基本法」は、障害者施策に関する国・地方公共団体、国民の責務を明かにし、障害者の自立と社会参加のための施策の基本となる事項を定め施策の総合的かつ計画的推進を図る、いわば障害者施策における憲法的存在となった。
 昭和50年12月、国連は「障害者の権利宣言」を採択、52年12月には「1981年を国際障害者年」(IYDP)とすることを決議する。こうしてノーマライゼーション理念やリハビリテーション思想が世界各地に広がりをみせはじめたのだが、日本では50年春から「第6回身体障害者実態調査」の実施をめぐり一部の障害者団体と厚生省との対立が始まり、施策の推進に暗雲が漂いはじめていた。53年5月、筆者は、厚生省社会局更生課長に就任、「国際障害者年を黒船に。遅れている障害者施策の前進を!」と決意し、障害者団体との関係修復・施策の推進に取り組むこととなった。障害者施策も運動も新しい時代を迎える。

障害者施策の推進に貢献した人と団体

 戦後三十年、施策の推進力は、時代を担う志ある人と運動であったが、その一端を紹介しておきたい。なお、本文引用の団体等は省く。
 草創期を担った人々は、GHQとの折衝に苦斗した厚生省の人々である。主役は、社会局長の葛西、木村両氏、更生課長の黒木、松本、児童福祉の松崎、内藤といった人々であったという。運動体では、身体障害分野では、30年代に入ってからの日本障害者リハビリテーション協会、全国社会福祉協議会心身障害児福祉協議会等は、団体のセクトを超えた結集体として記憶に残る。
 児童福祉分野でも全国心身障害児福祉財団(45年)に結集した福祉・教育16団体の志ある活動が印象深い。精神・難病等分野では、日本筋ジストロフィー協会(39年)、全国難病者団体連絡協議会(47年)等であろうか。
 「自立生活」運動等の新しい動きとして、「全国青い芝の会」(32年4月)、「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」(42年12月)、そして「国際障害者年日本推進協議会」に結集した101団体をあげたい。
 これらの運動は、実に多くの人々の支えによって成り立ってきた。東京ヘレンケラー協会をつくり世界唯一の「点字毎日」を創刊された毎日新聞社、「盲人の時間」や「聴力障害者の時間」等見事なキャンペーンを続けるNHK等のマスコミ関係者、物心両面から限りない支援を続けられる各種助成財団等の支えに心からの敬意を表したい。
 今日、日本の障害者施策の方向と障害者運動の目標は、「国連・障害者の権利条約」の批准という一点であり、いわば戦後六十年の集大成の時のように思われる。「障害者の完全参加と平等の実現」という原点に立ち、新しい奮闘を期待する足がかりとして戦後三十年の歩みを辿ってみた。「温故知新」である。拙文、遺漏を許されたい。

(いたやまけんじ 日本社会事業大学名誉博士、元厚生省更生課長)


原本書誌情報
板山賢治.戦後三十年、障害者施策の展開と障害者運動.ノーマライゼーション 障害者の福祉.2012.8,Vol.32, No.8, p.15-17.

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