音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

THE TOKYO GAMES FOR THE PHYSICALLY HANDICAPPED

PARALYMPIC

TOKYO 1964

パラリンピック 国際身体障害者スポーツ大会 写真集

No.5

“社会復帰”への希いをあつめて

〈第2部 国内競技〉

 第2部の団内競技大会は、すべての身体障害者が参加して行なわれた。種目は肢体不自由者、視力障害者、聴力障害者の3部門に分け、それぞれ競走、跳躍、投てき、球ぎ、水泳、そして肢体不自由者だけに車イススラロームと弓が加えられた。外国では1人に走る、跳ぶ、投げる、泳ぐの4動類を必ずやらせることになっているが、日本ではまだ1人に4種目はムリなので、1人2競技をやらせ、当人が希望すれば水泳をつけ加える。
北は北海道、南は鹿児島の全国各都道府県、指定都市、沖縄、それに特別参加の西ドイツ選手を加えて487人が出場、熱戦をくりひろげた。

種目

  • 肢体不自由者:  100m障害競歩(男)100m競走(男)60m競走(女)車イススラローム、立巾跳、走巾跳、走高跳、砲丸投、棍捧投、槍正確投、水泳(25m自由型、25背泳、25m平泳、50m自由型、50m背泳、50m平泳)卓球、弓
  • 視覚障害者:  100m円周走、100m、1,500m競走、立巾跳、走巾跳、走高跳、三段跳、砲丸投、ソフトボール投、ハンドボール投、水泳(45m自由型、25m自由形)卓球
  • 聴覚障害者:  100m、200m、400m、1,500m、5,000m競走、走巾跳、走高跳、三段跳、砲丸投、水泳(100m自由型、50m自由型、50m背泳、100m平泳)卓球

第2部(国内競技)の入賞メダル

 第2部(国内競技)の入賞メダル。これは金、銀、銅の三種があり、直径5cm厚さ0.5cmで、それぞれ首からさげるためのリボンが付いている。なお、デザインは大会企画委員高橋春人氏(二科会会員)。

第2部 開会式

第2部国内競技大会は、11月23日午前9時から、オダフィールドに全国各都道府県代表選手480人が集合、名誉総裁皇太子殿下ご夫妻をお迎して行われた。この朝、天候は曇りであったが、各県旗が風にはためき、まず、開幕の花火のとどろきを合図に、皇太子ご夫妻が貴賓席にお着きになった。つづいて、陸上自衛隊の吹奏するマーチにしたがって、元気いっぱいの選手団が県旗をなびかせて堂々の入場行進。スタンドにつめかけた約5千人の観客からは一斉に拍手がおこった。先頭は北の北海道チーム、それから南へ降る各県が続き、沖繩も初参加、なお最後は主催地の東京都チーム。また特別参加の西ドイツチームがこれに続いた。

東京都旗を掲げて入場行進する東京都選手 “上を向いて歩こう”のマーチも高らかに楽隊の行進
県旗をなびかせて、堂々の行進をするのは神奈川県、新潟県の選手

 上左、東京都旗を掲げて入場行進する東京都選手。上右、“上を向いて歩こう”のマーチも高らかに楽隊の行進。、県旗をなびかせて、堂々の行進をするのは神奈川県、新潟県の選手。

 各県選手団の入場行進が終ると、葛西大会々長のあいさつ、厚生大臣、東京都知事の祝辞があったのち、皇太子殿下から“この大会はみなさんに自信と勇気、希望を与え、同時にわが国の身障者に対する理解と関心を深める良い機会と思う”という激励のおことばがあり、金口泰三選手の宣誓が行なわれ、300羽のハトが大空に舞いあがって大空に飛びたった。つづいて皇太子ご夫妻がフィールドに降りたたれ、北海道から西ドイツまでのそれぞれの各選手団をはげまされた。

各県選手の入場行進を拍手で迎える皇太子殿下ご夫妻 言葉をのべられる皇太子殿下
選手宣誓をする金口泰三選手(東京) 整列した各県選手団

 上左、各県選手の入場行進を拍手で迎える皇太子殿下ご夫妻。上右、お言葉をのべられる皇太子殿下。下左、選手宣誓をする金口泰三選手(東京)。下右、整列した各県選手団。

ご激励も親しく

 フィールドに降りたたれた皇太子殿下ご夫妻は、つぎつぎと各県選手団を激励された。選手たちの中には“直接の有難いおことばは、終生忘れることのできないものとなるだろう”と感涙にむせぶ者もいた。

葛西会長のご案内で各選手を励まされる皇太子ご夫妻 葛西会長のご案内で各選手を励まされる皇太子ご夫妻
葛西会長のご案内で各選手を励まされる皇太子ご夫妻

 から、葛西会長のご案内で各選手を励まされる皇太子ご夫妻。

初参加の沖繩チームを激励されるご夫妻 初参加の沖繩チームの行進
左上、特別参加の西ドイツチーム。下左はスタンドの応援。下右は第1部の選手も入場行進を参観して拍手

 は、初参加の沖繩チームを激励されるご夫妻。中右は、特別参加の西ドイツチーム。下左はスタンドの応援。下右は第1部の選手も入場行進を参観して拍手を送っていた。

各都道府県市選手の行進

各都道府県市選手の行進

各都道府県市選手の行進

第2部競技

歩く

〈肢体不自由〉

〈100m障害競歩〉

 25mの歩行路にそれぞれ定められた障害が4カ所あり、定められたとおりの動作で歩行する。順位は所要タイムできめる。障害はまたぐ、くぐる、のぼる、おりる、など、ただ歩くことすらたいへんな出場者によっては、相当の苦労である。

不自由な足(片大腿切断)を上げて障害をこす福島の蛭田選手 2位になった宮城の千葉選手(片大腿切断)
別参加のドイツ選手

 上左、不自由な足(片大腿切断)を上げて障害をこす福島の蛭田選手。上右、2位になった宮城の千葉選手(片大腿切断)。、特別参加のドイツ選手。

一生懸命障害をくぐる横浜市の豊田選手 東京の海老原選手(体幹障害、一位)
階段状の障害を越える京都の今田選手

 左上、一生懸命障害をくぐる横浜市の豊田選手。右上、東京の海老原選手(体幹障害、一位)。 、階段状の障害を越える京都の今田選手

走る

〈肢体不自由〉

 肢体不自由者の競走は、男子の100mと女子の60mがある。手がない人、足がない人、あっても機能がきかない人などに分かれて競走する。下肢切断者は義足をつけて参加しなければならない。スタートラインに並んだ選手たちをみただけでも、走るためのバランスをとることが、いかに至難であることがわかる。

貴賓席前を力走する100m(片上腕切断)第3組 ゴールへ飛びこむ選手たち。(片下腿切断)
ゴールへ飛びこむ選手たち。(片下腿切断)

 、貴賓席前を力走する100m(片上腕切断)第3組、左・下、ゴールへ飛びこむ選手たち。(片下腿切断)

〈100メートル競走〉

バランスをたくみにとってスタートする100m(片上腕切断)第3組 100m(片上腕切断)第4組

 、バランスをたくみにとってスタートする100m(片上腕切断)第3組。、同第4組。

〈60メートル競走〉

女子60m(上肢切断)第1組

女子60m(上肢切断)第1組スタート。

走る

〈視力障害〉

 弱視者が出場する競技に、100m競走と1,500m競走がある。100m競走は、男女、視力別によって行なわれる。1m22cmのセパレートコースを走り、瞬間的に全力を傾注して勝負を決する。1,500mは、白い線がみえる程度の弱視者が参加し、オープンコースを走る。長い競走なので相当の体力が必要である。走っている姿は普通の人とかわりはないが、かすかな視力をたよりに疾走する選手の中には転倒するものもいる。

〈100m競走〉

貴賓席前を力走する女子100m

 視力障害者が疾走する場合は、そのバランスを保つことがいちばん骨の折れることだ。写真は貴賓席前を力走する女子100m。

〈1,500m競走〉

第一コーナーを通過する男子1500m

第一コーナーを通過する男子1500m。

〈100m円周走〉

 視力障害者の100m円周走は長さ16mのロープの一方の端を中心棒に固定し、もう一方の把握部を片手でにぎり、円をえがきながら走る技競で、方向は右まわりでも左まわりでもかまわないが、ロープをたるませてはいけない。スタートラインがゴールラインになり、タイムをはかる。

力走する堀井功選手(京都) スタートラインを位置づけられている金田選手(和歌山) 女子1位となった麦屋喜代子選手(東京)のホーム
金田選手(和歌山) 入場も退場もお互の肩をたよりに

、力走する堀井功選手(京都)
上中左下、スタートラインを位置づけられている金田選手(和歌山)
右上、女子1位となった麦屋喜代子選手(東京)のホーム。右下、入場も退場もお互の肩をたよりに。

走る

〈聴力障害〉

 聴力障害者は、ほとんど常人とかわりがないので、記録もすばらしい。たとえば、100m男子の吉武(福岡)選手は11秒6を出し、オリンピックで日本選手が出した10秒6に迫っている。また1,500mでは黒木(宮崎)選手が4分21秒で、同じく3分56秒の記録に近い。
聴力障害者は、ほとんど健常者とかわらない。ただ聞こえないというだけで、スタートの合図はピストルの音ではだめ、引きがねをひく指の動きを見て出発する。100、200、400、1,500、5,000mの4種がきそわれる。福岡の吉武さんは100mを11秒6、の好記録を出している。

ゴールインする100m第1組 100mのコース全景
ゴールへ飛びこむ女子200m第2位の坂口選手(東京) ゴールへ飛びこむ女子200mの高橋選手

 上左、ゴールインする100m第1組。上右、100mのコース全景。下左、ゴールへ飛びこむ女子200m第2位の坂口選手(東京)。下右、同、高橋選手。

1,500mのスタート、ピストルの音がわからないので、指で合図するスターター 力走中の1,500m第1組
200mのスタートダシュ 力走する200m第4組

 上左、1,500mのスタート、ピストルの音がわからないので、指で合図するスターター。上右、力走中の1,500m第1組。下左、200mのスタートダシュ。下右、力走する200m第4組

力のかぎり

 身障者スポーツの最大の条件は、いかにからだのバランスを保つかにある。走るにしても、跳ぶにしても、相当のスピードが必要とされるので、ついバランスがくずれて、普通の人でもたおれることがある。まして、身障者はバランスがとれにくいので、しばしば、競技の途中でたおれる。しかし、たおれてもたおれても、起きあがって競技をつづける。力のかぎりをつくし、自分の目的にまいしんする選手たちの前途には希望がある。

1,500mで4分21秒を出し、1位になった宮崎の黒木万喜選手(聴力障害)の敢闘する表情 上、力走のあまりバッタリ倒れた長崎の千代田選手、下、“ダイジョウブデスカ”と安達選手(大阪)を励ます特別参加のドイツ選手
滋賀の駒井選手も転倒

 上左、1,500mで4分21秒を出し、1位になった宮崎の黒木万喜選手(聴力障害)の敢闘する表情。右上、力走のあまりバッタリ倒れた長崎の千代田選手、左下、滋賀の駒井選手も転倒。右下、“ダイジョウブデスカ”と安達選手(大阪)を励ます特別参加のドイツ選手。

 力走、疾走、そしてアッとおもうまなく、バッタリと転倒する選手が続出。各県からの役員や付添い者、係員などを心配させた。上左は100m競走に普通人程度の好記録を出して力走する聴力障害者。上右、下は、体力つきて倒れる選手たち。

100m競走に普通人程度の好記録を出して力走する聴力障害者 体力つきて倒れる選手たち
体力つきて倒れる選手たち

跳ぶ

〈走幅跳〉

 ルールは普通と変りはないが、競技する人々の条件は、だいぶ違う。片手がない人、両腕がきかない人、眼がよくみえない人、耳がきこえない人、跳躍という、からだのバランスが最高に要求される競技だけに、選手の苦労はひととおりではない。走る、走る、そして跳ぶ、このわずかな瞬間に全機能を集中する。視力の弱い人には、踏切板の制限がゆるく巾50cm、長さ2m内で足が離れたところから計測する。

富山の梅田選手(片前腕切断) 走幅跳び(片前腕切断)で第1位になった岡山の谷山秀夫選手
栃木の杉山選手(視覚障害) “視覚障害”級で3位になった東京の太田選手
大阪市の工藤選手のジャンプ(片前腕切断) 4m11cmを跳んで1位になった宮城の納村選手(視覚障害)

 上左、富山の梅田選手(片前腕切断)。上右、走幅跳び(片前腕切断)で第1位になった岡山の谷山秀夫選手、記録は5m97cm。中左、栃木の杉山選手(視覚障害)。

 下左、大阪市の工藤選手のジャンプ(片前腕切断)。中右、“視覚障害”級で3位になった東京の太田選手。下右、4m11cmを跳んで1位になった宮城の納村選手(視覚障害)。

跳ぶ

〈立幅跳〉

 身体や視力などに障害のある者は、跳ぶということがかなりむづかしい。それは、着地の際のバランスを保ちにくいからである。競技は三回とんで、いちばんよい成績のものを採る。

1位になった三重の花木選手(体幹障害)
東京の浜田選手(両前腕切断)が跳んだ瞬間 東京の浜田選手(両前腕切断)のジャンプ直前

 、1位になった三重の花木選手(体幹障害) 下右、東京の浜田選手(両前腕切断)のジャンプ直前下右が跳んだ瞬間。、三段跳び(聴覚障害)で1位になった秋田の工藤選手。

〈三段跳〉

 三段跳は、視覚障害者と聴覚障害者が出場した。ルールはほとんど普通のものと同じで、踏切標識と砂場の間は7m以上にきめられている。3回のうち最良成績がとられる。

三段跳び(聴覚障害)で1位になった秋田の工藤選手

〈走高跳〉

 バーの高さは1mからはじまる。3回つづけて、失敗すれば失格になる。片手のない沖繩の新垣選手が、みごとなフォームで1.57mをクリヤーすると、ひときわ盛んな拍手がわきおこった。

神奈川の陶山選手(聴覚障害) 1位になった沖繩の新垣選手(片上肢切断)
視覚障害の選手のホーム

 上左、神奈川の陶山選手(聴覚障害)。上右、1位になった沖繩の新垣選手(片上肢切断)。、視覚障害の選手のホーム。

投げる

〈砲丸投げ〉

 砲丸投げは男子4kg、女2.721kgのものを使う。相当腕力が必要である。片上肢不完全機能障害の部で東京の白井選手が12.80mを投げ、人々をおどろかせた。

東京の海老原選手(3位) 高知の小笠原選手
愛知の伴野選手(1位)

 上左、東京の海老原選手(3位)。上右、高知の小笠原選手。、愛知の伴野選手(1位)。

〈槍正確投〉

 地面においた標的に、男は10m、女は7m離れたところから命中させる競技で、各6投し、その中記録のよい順序に5投をとって成績にする。

徳島の田口選手

徳島の田口選手。

〈ハンドボール投〉

 視覚障害者の競技、ハンドボールは大きさ約60cm、重さ約425gのもの、直径2.50mのサークル中から投げ、90度の角度の線の内側端の間に落ちたものだけを有効とする。(写真下は10.05m投げて1位になった東京の宮崎美江子選手)

10.05m投げて1位になった東京の宮崎美江子選手

〈ソフトボール投〉

 視覚障害者の競技で大きさ30cm、重さ約180gのなめし革製ソフトボールを半径8mのサークルから投げ、28度の角度でひかれた線の内側に落ちたものを有効として、足の前端からはかる。(写真は鳥取の絹見選手(視覚障害)。

鳥取の絹見選手(視覚障害)

〈棍棒投〉

 ぶなでつくった長さ39cm、重さ400gのトックリ形の棍棒を頭上から投げる。3回投げて最高が採用される。

棍棒投げで1位になった鳥取の鷲尾選手 福井の西川選手

、棍棒投げで1位になった鳥取の鷲尾選手、、福井の西川選手

打つ

〈卓球〉

 卓球は、日本のお家芸でもあるし、身体障害者のスポーツとして親しまれている。さすが、日本全国から選ばれた選手の試合は、スピードとみごとなタッチで、みるものを感嘆させた。(写真、左・中はプレーする選手たち。は表彰をうける選手)

プレーする選手たち プレーする選手たち 表彰をうける選手

泳ぐ

〈水泳〉

 肢体不自由と視覚障害者のスタートは、水中から行われるが、聴覚障害は飛込みでスタートする。目がみえなくとも、耳がきこえなくとも、泳ぐことには、あまりさしさわりはないが、手や腕のない人、下肢のない人にとっては、泳ぐこと自体がたいへんで、タイムなどいっておられない。

 水温、室温ともに、身障者のために調節された都体育館屋内水泳場では、人間の、たくましい斗魂を示す水泳競技が行なわれた。それは、水との斗い、自分との斗いである。両腕のない選手が、みごとに25mを泳ぎきって入賞した。介添人がみまもるなかを、やっとゴールにたどりついた選手もいるし、途中で落伍する選手もいる。全力をつくして斗うことこそ、自分にうちかつ凱歌である。

懸命に力泳する各県選手 懸命に力泳する各県選手
両腕のない選手が、みごとに25mを泳ぎきって入賞 左、プールサイドで出をまつ選手。右、コーチから、励まされる東京の太田正子選手

 上3枚、懸命に力泳する各県選手。下中、プールサイドで出をまつ選手。下右、コーチから、励まされる東京の太田正子選手。

グランドスナップ

選手たちはスタンドの応援者に感謝のあいさつ 陣羽織にハカマ、扇子を持ってのはなばなしい応援
スタンドの“沖繩県”という旗 仲間をスナップする名カメラマン

 上左、選手たちはスタンドの応援者に感謝のあいさつ。上右、陣羽織にハカマ、扇子を持ってのはなばなしい応援。下左、スタンドには“沖繩県”という旗もあった。下右 仲間をスナップする名カメラマン?

総理大臣を拝命して間もなくの日の佐藤首相が来場され、優賞メダルを見てニッコリ 山梨県の古屋正江さんを“指話”で励ます友だち
グラウンドの芝生には、義足が主人を待っている
左、最終日の役員席。右、事務局長の氏家さん

 上左、総理大臣を拝命して間もなくの日の佐藤首相が来場され、優賞メダルを見てニッコリ。下左、最終日の役員席。下右、事務局長の氏家さんも、この日やっと観戦することができた。
上右、山梨県の古屋正江さんを“指話”で励ます友だち。中右、グラウンドの芝生には、義足が主人を待っている。

表彰

 優賞メダルの授与はグランドで、オリンピック方式で行われた。

手をあげてスタンドに応える200m(聴覚障害)の入賞者たち。左から田口(鹿児島)、秋山(山梨)、安井(広島)の各選手 100m競走(両前腕切断)の表彰で左から林(2位、徳島)、工藤(1位、北海道)、安達(3位、大阪)の各選手
清水(千葉)斉藤(北海道)各選手 用意された優賞メダル

  ヤッタぞ!!手をあげてスタンドに応える200m(聴覚障害)の入賞者たち。左から田口(鹿児島)、秋山(山梨)、安井(広島)の各選手。
写真下左、清水(千葉)斉藤(北海道)。上右、100m競走(両前腕切断)の表彰で左から林(2位、徳島)、工藤(1位、北海道)、安達(3位、大阪)の各選手。下右、用意された優賞メダル。

感激の表彰台

左から、和歌山、愛媛、青森の各選手 メダルを受ける100m入賞者(片上腕切断)。左から関根(埼玉)、甲斐(宮崎)、小島(東京)の各選手
1・2・3の旗をしるしに、表彰台に向う選手たち

 上左、左から、和歌山、愛媛、青森の各選手。上右、メダルを受ける100m入賞者(片上腕切断)。左から関根(埼玉)、甲斐(宮崎)、小島(東京)の各選手。
、1・2・3の旗をしるしに、表彰台に向う選手たち。

“残ったもの”を生かしてかちとった勝利の感激!!

 はれがましい優賞台の上。その上で、あのオリンピックのメダリスト三宅選手と同じように、手をあげて声援に応える……というような立場に自分がおかれるとは、よもや想像もしていなかったに違いない……。そのような感激にむせんで、多くの選手の頬には、涙が流れていた。それは、苦しかった過去に対する涙でもあったろう。
まこと、身体障害者の勝利とは、記録に向って勝つということではなく“己に克つ”ということに他ならない。
……授与されたメダルを、その体の不自由な部分に、そっとふれさせている者もあった。

喜びの受賞者の方々
喜びの受賞者の方々
喜びの受賞者の方々

閉会式

 盛りたくさんではあったが、第2部国内大会の競技は、予定どおり終了して、午後5時から屋内競技場別館に、大会名誉総裁皇太子殿下、同妃殿下をお迎えして閉会式が行なわれた。行進曲にのって参加46都道府県と沖繩の旗が入場、パラリンピック讃歌の女声コーラスがあって、会長あいさつが行なわれ、特別参加したドイツ代表からドイツ身障者連盟旗と栄誉杯が会長におくられ、君が代吹奏のうちに日の丸、大会旗、都旗が降納され、皇太子ご夫妻退場のあと、ホタルの光にあわせ、選手たちは帽子や手をふりながら、地元東京選手団の盛んな拍手に送られて退場した。

一同整列して皇太子殿下ご夫妻のご来場を待つ
左、コーラス隊の“讃歌”も高らかに。右、葛西会長の先導で皇太子ご夫妻の入場
左、各県旗の入場。右、特別参加の西ドイツ代表より記念品をうける葛西会長

 、一同整列して皇太子殿下ご夫妻のご来場を待つ。中左、コーラス隊の“讃歌”も高らかに。中右、葛西会長の先導で皇太子ご夫妻の入場。下左、各県旗の入場。下右、特別参加の西ドイツ代表より記念品をうける葛西会長。

閉会のあいさつをされる葛西大会会長 連日仰ぎみられたパラリンピック東京大会旗
別れをおしまれて退場される皇太子ご夫妻

上左、閉会のあいさつをされる葛西大会々長。上右、連日仰ぎみられたパラリンピック東京大会旗。、別れをおしまれて退場される皇太子ご夫妻。

各部会の活動

 パラリンピック大会の、全体的な企画調整には、国立身障センターにおかれた運営委員会事務局があたったが、それぞれ次のような部分を編成して具体的な計画と実行を分担した。(括弧内は担任した団体)。
企画調整部会(事務局)官庁連絡調整部会(厚生省社会局更生課)選手村運営部会(東京都)競技部会(国立身体障害更生指導所、国立東京光明寮、国立ろうあ更生指導所)資金対策部会(社会福祉事業振興会)広報部会(全国社会福祉協議会広報部)通訳部会(日本赤十字社)サービス部会(鉄道弘済会)国内選手強化対策部会(全国社会福祉協議会)研究視察部会(厚生団)、それに、会期中の医療救護には日本赤十字社、音楽、警衛、競技、送迎、輸送などの支援には陸上自衛隊があたり、日本で、はじめての経験である、身体障害者の国際スポーツ大会をみごとに遂行した。

第3会場(屋内競技場別館)を背景に、待機する選手輸送用リフト付バス。サービス部会 上、原宿口ゲート、その下はその内部の警衛勤務 羽田空港における自衛隊輸送支援群

 、第3会場(屋内競技場別館)を背景に、待機する選手輸送用リフト付バス。サービス部会。中上、原宿口ゲート、そのはその内部の警衛勤務。、羽田空港における自衛隊輸送支援群。

正面ゲート受付 大会本部と本部前で忙しい連絡をしている葛西会長・グッドマン博士
広報部会の記者会見(プレスセンターにて) 選手村事務所
左、ひっきりなしに電話の鳴る深夜の総務部にて。その右は総務部前庭の各部会連絡状況

 上左、正面ゲート受付。上右、大会本部と本部前で忙しい連絡をしている葛西会長・グッドマン博士。中左、広報部会の記者会見(プレスセンターにて)。中右、選手村事務所。下左、ひっきりなしに電話の鳴る深夜の総務部にて。そのは総務部前庭の各部会連絡状況。

審判団の活動(日本陸上競技連盟員)
審判団の活動(日本陸上競技連盟員)
洋弓審判団(日本アーチェリー協会千島氏)
洋弓審判団(日本アーチェリー協会千島氏)
競技進行係
競技進行係
競技記録係
競技記録係
介添えや審判助手として活躍する日本ボーイスカウト連盟員
介添えや審判助手として活躍する
日本ボーイスカウト連盟員
 
救護班(日本赤十字社救護班)と診療所
救護班(日本赤十字社救護班)と診療所
救護班(日本赤十字社救護班)と診療所

左、深夜まで忙しかった通訳部会本部。右、通訳部会語学奉仕団と日本赤十字社名誉社長島津忠承氏

上左、深夜まで忙しかった通訳部会本部。上右、通訳部会語学奉仕団と日本赤十字社名誉社長島津忠承氏。

 選手村の清掃労力奉仕には、多くの婦人会や学生が動員された。これらは日本赤十字社東京都支部関係の21奉仕団、また都内の4中学、21高校、2大学の協力によるもので、その人海作戦には外国選手も驚いていた。

多くの婦人会や学生が動員された選手村の清掃労力奉仕
多くの婦人会や学生が動員された選手村の清掃労力奉仕 多くの婦人会や学生が動員された選手村の清掃労力奉仕

マスコミの協力

上左右、連日グランドで競技次第を記録する各社カメラマン諸氏。中左、各社記者の取材活動。中右、放送記者(TBS、小島正雄氏)に語るグッドマン博士
パラリンピック記録映画“愛と栄光の祭典”を撮影中の日芸綜合プロ(渡辺公夫監督)のスタッフ パラリンピック記録映画“愛と栄光の祭典”の新聞広告面

 上左右、連日グランドで競技次第を記録する各社カメラマン諸氏。中左、各社記者の取材活動。中右、放送記者(TBS、小島正雄氏)に語るグッドマン博士。下左、パラリンピック記録映画“愛と栄光の祭典”を撮影中の日芸綜合プロ(渡辺公夫監督)のスタッフ。下右はその新聞広告面。

 パラリンピック中は、各新聞雑誌がこぞってこれを報じた。一般ニュースの他、解説、論説などであって、身体障害者に対するマスコミの注視や激励が、これほど集中したことはかってなかった。もっとも、なかにはスポーツ記者などにこれを担当させ“金メダルが幾つとれるか”などという見当違いをしているところもないではなかった。しかし、多くは正しく理解し協力的だった。

パラリンピックを報じる各新聞雑誌

編集後記

高橋春人

パラリンピック実施本部での筆者
(パラリンピック実施本部での筆者)

■ 最初の役目,最後の役目
1964年東京パラリンピックを記録しておきたい,ということから,この写真集をまとめることになった。私はこの大会企画の当初から参画した一人であるが,その担当した仕事(企画委員・広報視覚媒体の制作)の性質上,ついに最後のしんがり的作業もつとめることになった。思えばそれはあしかけ4年間の関係であったが,その中でもこの“編集”はもっとも骨が折れるものであった。
昭和37年(1962年)の秋の頃,国立身障害センター次長の氏家馨氏が来訪されて“2年後の1964年秋に,東京で国際身体障害者スポーツ大会というものを開く予定であるからその広報媒体の制作に協力して欲しい”とのことであった。そこで,すぐ必要な海外向け招致ポスター(9ページ参照)や,資金募集用の啓蒙パンフレットなどをつくることになった。(12ページ所載のもの)
ところで,それまでは,“パラリンピック”という呼称は一般的なものではなく,発生地の英国ではストークマンデビルゲームと呼ばれていた。そして日本では国際身体障害者スポーツ大会と呼ぶことになった。しかし,広報効果の観点から東京大会では,それまでの略称であった,“パラリンピック”という呼称を大きく打ち出す方針をとることにした。(実はパラリンピックとは第1部のみを指すことなのだが)
さて,準備期間もすぎて,大会が近づくにしたがって私の仕事も多忙になった。それは対内用広報媒体(ポスターやパンフレットなど12ページ参照)の制作とか,あるいは大会行事に必要ないろいろなものをデザインすることであった。たとえば大会マーク,大会旗,参加章,ワッペン,メダル,会場装飾,選手役員の服装計画等,いろいろなものである。

■ 記録写真班は学生OBの諸君の手で
 そんなわけで,大会が近づくにしたがって,私の役目は主として本部企画委員の仕事をすることになり,広報業務関係は新たに設けられた“広報部会”によって進められることになった。この中に“大会写真記録班”が編成されたが,構成メンバーは日本大学写真科のOB山田重寿,岩城史郎,渡本勇君ら13名で,半数は在学生の諸君であった。
もっとも,こうした諸君は写真技術はあるが,必ずしもこの大会の意義やその他に精通しているわけではない。そこでこのメンバーとは別に,私のところが自主取材をして,そのヤマ場やカラー場面などを記録しておいた。なお本集に採録されている写真枚数は大小総計700枚であるが,この内訳けは写真記録班のもの563枚,私方で取材したもの106枚,その他31枚という内容である。

■ 編集は難航して5カ月
この写真集の発行は大会の当初から企画されていたものではない。そこで予算の裏づけもなく,また写真取材そのものが出版用としてなされていなかった。そんなことで,編集は思ったよりも難航して,4人がかりで5カ月もかかるという次第になった。たとえば,編集物として必要な整理や記録などが全く無かったからである。つまり,撮られている顔が,どこの国の誰だか,まったく手掛りがない。
したがって優勝者の競技姿などもさっぱり判らない。……どだい,撮影者が何の競技だが判らないままに撮っているものが非常に多かった。たとえば、槍投げと槍正確投げ,車椅子競走と車椅子リレーというようなものを区別して撮ってないのだ。という次第で,実は本集採録の700枚は,1万枚余のネガから,すべてを判読して選んだものである。まったくそれは“警視庁捜査課”的な作業であった。
したがって,記録としては,なお不満が残る編集である。たとえば,特に活躍した日本選手の競技場面(卓球・フェンシングなど)をもっと入れたかったが,そうした場面が撮られてなかったのである。さて,この難作業によく協力してくれたのは,牛沢利正,須田正博の両君。また,冒頭の大会推移などのコピーは小谷博夫氏が協力してくれた。
(1965.初夏記)

東京大会をシンボルするマークを新しく考案した。(3)が決定案。
■ 大会マークの変遷
パラリンピックという呼称を大きく広報したのは日本が最初である。そこで東京大会をシンボルするマークを新しく考案した。(3)が決定案。
(1)は1962年に海外向けとして使用したものだ
が,これはオリンピック委からの助言もあって(2)に訂正した。さらに東京大会は広義の身障者競技であるから,車椅子のみを強示するのは適当でないと考え(3)に変更した。
意味は,輪は車イス,および世界をつなぐ和,中心の星は希望,その配列はV字(ビクトリー)で,人生を克服する勝利,白鳩は愛を表わす。

▲戻る


主題:
PARALYMPIC TOKYO 1964 パラリンピック 国際身体障害者スポーツ大会 写真集 No.5
125頁~164頁

編集発行者:
パラリンピック・国際身体障害者スポーツ大会編集委員会

発行年月:

文献に関する問い合わせ先:
財団法人 国際身体障害者スポーツ大会運営委員会