音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

講演会 「アメリカ ADA法の現状と将来展望」

ピーター・ブランク氏
米国シュラキュース大学ロースクール教授
同大学バートンブラット研究所長

 コンニチハ。先ほどはご紹介ありがとうございました。本日このようなすばらしい講演会にお呼びくださいまして誠にありがとうございます。
 初めて日本に訪問し、たくさんの素晴らしい方々とお会いできたことをとても嬉しく思っております。
 私は今回、京都、神戸、札幌、東京、そしてそれ以外の場所でも講演をさせていただきました。本当に皆様に温かい歓迎をしていただきまして、まるで家にいるような感じで話しをさせていただきました。

バートン・ブラット研究所の事業

 現在、世界では障害分野におきまして大きな変化が起こっており、このような重要な時に話をさせていただくことができて嬉しく思っております。
 私はバートン・ブラット研究所という障害学に関するとても大きな施設で働いていることをとても誇りに思っております。この研究所には60名以上の専門家、例えば社会学者、経済学者、法学者、医師などが勤めております。
 私たちのオフィスはニューヨークシティ、シラキュース、アトランタ、ワシントンDC、そしてイスラエルのテルアビブにあります。
皆さんと共通の点があるとしたら、そこにいる専門家の方々、リーダーの方々はご自身が障害があるか、もしくは障害を持つ家族のいる方々ということです。

 3年前、私がこのバートン・ブラット研究所を立ち上げるたきっかけは、とても偉大な学長でありますナンシー・カンター学長が私をシラキュース大学へ招いてくださったからです。
ナンシー・カンターは他の大学の学長でもあり、アメリカ各地の他の学長の方々とも交流がありまして、偉大な教育者でもあります。彼女はさまざまな場所を旅し、数多くの賞を受賞しました。彼女は世界観を表すとてもいい言葉を残していますが、それは彼女の18歳になる息子、アーチーが自閉症であるということにも関わっています。アーチーと私の子どもの一人は一緒に学校に行ったんですけれども、そのときカンター学長が私に言いましたのは、シラキュース大学に来て奨学金を作ってほしい、そしてその奨学金で本当に障害を持つ人たちのためになるような研究ができるようにしてほしいと言いました。

 先ほど先生からのご紹介にもありましたが、私はちょっと異端児とも言えます。まず、ハーバード大学で心理学のPh.D.を取得しまして、ハーバード大学でも教えておりました。その後、ロースクールに行きまして障害者の権利問題に携わるようになりました。
 バートン・ブラット氏は比較的若くして亡くなられましたが、とても有能な教授でした。彼はシラキュース大学で教育と障害学に関する学部長をしておりました。
 1970年代、まだこのような障害者運動がファッショナブルでなかった時代、またADAもなかった時代に、彼は友人と知的障害者の施設を夜中に訪問しました。そして、ベルトのところに隠したカメラで施設内の様子を写真に撮り、当時アメリカにとって最も恥ずべき状態だったこの施設の内部状況を世間の日の目にさらしました。その経験をきっかけに彼は一冊の本を書きました。その本のタイトルは「地獄のクリスマス」というものでした。彼が訪問したのはちょうどクリスマスの時期だったからです。この重要な書籍は、人々の中に障害者の権利擁護とエンパワメント運動の火をつけました。そして30年後、とても熱意のある方々の資金的な提供もありまして、私はこのようにバートン・ブラッド研究所を始めることができたのです。

 私たちのミッションは、障害を持つ人たちの経済的、市民的、社会的な立場を世界的に改善するということです。
 最近のアメリカの労働省の統計によりますと、障害のない人たちの71%が雇用されており、障害のある人たちでは14%しか雇用されていないということでした。この厳しい経済状況の中でアメリカの失業率は全体で9~10%になっています。そして、障害のある方たちになりますと2倍になると言われています。
 バートン・ブラット研究所ではいろいろなプログラムを用意しています。その中には弁護士の協会を組成するような動きもありまして、このような協会が国際的に若い権利擁護者を育てるというプログラムを行っています。  世界銀行が協賛しているGlobal partnership on disability developmentというプログラムがあります。障害を抱えながら貧困に苦しむ人たちの会議を今年の10月にイタリアで行い、100以上の障害者団体、及びNGOが集まることになっています。  ルイス・ガレゴス氏という方をご存じの方もいらっしゃるかもしれません。私は、国連障害者の権利条約でも非常に関わってくださったルイス・ガレゴス氏が名誉会長を務めていらっしゃるグローバル・ユニーバーサル・デザイン協会(Global Universal Design Commission, Inc.;GUDC)の会長に任命されました。 この取り組みが主眼とするところは、世界的に障害を持つ人たちに対して物理的な環境を改善するということにあります。

障害の定義

 2010年には、ADA制定から20周年を迎えることになります。私はその法の制定前から関わり、それ以降もずっと関わってきておりますけれど、この20年間は、甘く、また苦い20年間だと申し上げられます。
 物理的な環境は東京や他の場所においても、障害者によりアクセシブルになってきていることは事実だと思います。しかし、同時に皆さんよくご存じかと思いますが、障害者に対してはまだネガティブな態度が残っています。ある分野では改善されたかと思ってもまた逆戻りするという動きも見られます。
障害者に関する法律や差別禁止法や障害の定義に関しましては過去10年から15年間、アメリカで盛んに討議されてきました。
初代のブッシュ大統領がADAの制定を行いました。そしてその息子である二代目のブッシュ大統領が、ADトリプルAと呼ばれるADA改正法を2008年に制定いたしました。
 そしてADAのもとで、障害とはどういう定義なのか、そして差別とはどういうことなのか、権利を推進するための政府の役割とは何なのか、また合理的配慮とは何なのかということを討議してまいりました。 松井先生がよくおっしゃっていることなんですけれども、ADAと日本の障害者基本法の違いというのは、ADAの方がより訴訟を起こされる可能性のある法律だということです。
 ADAでも障害の定義の解釈は難しい側面を抱えてきました。

 ダニエル・シュワルツという原告が関わった訴訟が、私がADAの専門家として関わった最初のケースでした。
 ダニエルは40代半ばの男性で、知的障害と他の健康上の問題を抱える人でした。住友銀行のロサンゼルス支店でメールルーム、郵便物を仕分けする部屋で20年以上働いていました。
 銀行はあるとき、メールルームの郵便仕分けの仕事を外部に委託するという決断をしました。この外部委託に伴いまして新しい機械が導入され、ダニエルは新しい機械の使い方を覚える必要がありました。
 ダニエルは上司に、その機械の使い方を簡単にメモとして書いて、機械に貼ってもよいかと聞きました。これは合理的配慮にあたります。しかし、上司にノーと言われてしまいました。もしダニエルが書いたメモを機械に上に貼ってしまいますと、他の従業員に対してフェアではないという主張でした。
 私たちには今でも、知的障害のあるダニエルがこうやって合理的配慮を頼んだこと、この内容がなぜフェアでないと判断されたかわかりません。しかしながらその要求は通らず、結果的にダニエルは解雇されてしまいました。
ダニエルはADA法にのっとり、合理的配慮を提供してもらえなかったということで訴訟を起こしました。
 先ほども申し上げましたけれども、ダニエルはその仕事を20年間きちんと続けてきて、そして一緒に働いてきた人たちも彼のことを慕っていました。
判決の段階になって、ダニエルの障害についての疑問が上がってきました。そして驚くべきことに判事が下した判決というのは、ダニエルは知的障害を持ちながらでも20年間、全く問題なく働けたのだから、なぜ障害を持っていると判断できるのかということでした。
 論理を曲げられているということがおわかりいただけると思います。そして私たちは弁護士としまして調停に持ち込み、そして和解金として10万ドルを勝ち取ることができました。

 このような訴訟は本来ならば回避でき、コストもかからないで済んだわけです。このケースから、判事というのはなかなかADAについて十分理解していないということがわかりました。ダニエルのケース、また他のケースが重なりまして、多くの弁護士や政策策定者の注意を引くところになりました。
社会での人々の態度ですとかアメリカの法廷においては、医学モデルと呼ばれる障害に対する定義がまだ主流をなしているということがわかります。
 この医学モデルと言われる障害への対応ですけれども、これは戦争の後に適用されるようになったものです。古くは南北戦争にさかのぼることができるモデルです。多くの帰還兵が障害を持った状態で帰ってきて、その治療やリハビリを目的にした法律が主であるという経緯がありました。
この医学モデルは、医師や裁判所に対して、そして法律家に対しても従属的な地位に障害者をつけるものでした。基本的には医学モデルと言われるものは、障害者以外の人たちの社会に障害者がうまく適用できるように意図されたものでした。
 バートン・ブラット研究所は1970年代から、そしてまた自立生活運動の流れの中で、徐々に、障害を持つ人たちの権利や公民権モデルに着眼してきました。これは、アフリカ系アメリカ人や女性の公民権運動の流れに沿ったものです。公民権を主眼にした動きは、社会において障害者に対して壁となっているものを対象にして運動が行われているものです。

 ADAは何も白紙の状態から始まったわけではありません。いろいろな連邦法というのがありました。リハビリテーション法ですとか建築物バリアフリー法がありましたが、障害者が抱えている問題に関して包括的な法律はありませんでした。
日本でも同じかと思いますけれども、社会保険に関するいろいろ法律等があります。社会保険の給付は基本的には障害を持つ人たちは働かなくても生活できるようにというものを意図するものです。
 ADAが制定された時点でのアメリカでの障害を持つ人たちに対する差別というのは一般的でした。そして多くの問題を抱えていました。

雇用における差別

 1990年代、私は幸運にもアメリカ政府の仕事をすることができまして、新しく制定されたADAのもと、雇用の差別のケースを取り扱いました。このクライアントの名前はドン・パークルという男性です。彼は知的障害があり、また話すことができません。話すときには絵とコミュニケーションボードを使っていました。  ドンは大人になってからはほとんど作業所で働いておりましたが、社会に出て働くことになりました。非常によい状況で働いていたということです。そしてチャッキーチーズピザというところでも働くことになりました。
 チャッキーチーズピザというのはアメリカではディズニーランドのピザ屋さんみたいなところです。アメリカ中に多くの支店を持つピザのチェーン店で、ビデオゲームが店内にあったり、バースデーのお祝いをしてくれたりします。チャッキーチーズのマスコットは大きなネズミです。子どもとかお孫さんがいたら別でしょうけど、そうでなければ土日はチャッキーチーズピザのそばに寄りたくないといったような場所です。ドンはそこで働いていまして、さまざまな雑用やピザを調理したりしていました。
 ある日、それはイリノイ州シカゴからそう遠く離れていないマディソンという町で起こったことです。テキサスから上役の人たちがドンが働いている地元の店へやってきました。その上司はドンを見て次のように言いました。これは実際、裁判のときの記録に残っています。彼はドンの店長を呼んで、「あいつをクビにしろ、あいつの見かけは気に食わないんだ」と言いました。これはお店の人のためにも申し上げたいんですけれども、そのときお店の方々は、「もし彼を辞めさせるんだったら、私たちみんな辞めます」と言いました。しかし、テキサスから来た上役は、障害に関することを全くもって理解することができず、ドンを解雇しました。

 この生産性のある店員を解雇したことにより、とても高額な訴訟が開始されることになりました。私は政府から、働こうとする知的障害者たちに対する間違った考え方や態度について証言するように言われました。
 実際、ドンの働き具合には何の問題もなかったわけです。問題があるとしたらその会社の態度が一番大きな問題だったのです。その審理は4日間続き、最終的にドンは陪審員から、損害賠償として7万ドル受け取れるという判決を言われました。
 その後はまるで映画のようでした。このような判決を出した後に、陪審員は判事に対して一言言ってもいいかと求めました。陪審員が判事にこう言いました。
 「この件に対して1,300万米ドルを賠償金請求してもよいですか。それによってこのような問題がこの町で二度と起こらないようにしたいから」
 それに対して会社側の弁護側は「知的障害のあるドンがこんなに大金をもらってもそれをどうやって使えるんだ」ということまで言いました。けれどもドンの弁護士は判事に対して、「ドンは1ペニーだって有効に使うだろう」と証言しました。
判事はこの賠償金を認め、障害に関する訴訟における過去最高の損害賠償金となりました。

ADAの概要

 今、私はADAの雇用に関することについてお話しましたが、ADAはとても大きな法律ですので、それ自体、幾つかの法律に分けることができるくらいのものです。
 ADAの第1章は雇用についてです。第2章では連邦政府、そして地方自治体における差別を扱っています。そして第3章は、一般の公共の場、例えばホテルとかレストランとか病院などにおける配慮について触れられています。
 ADAが制定された後、障害に関する定義をめぐって大きな議論を呼び、最高裁まで持ち込まれた二つのケースがあります。そしてADA改正法ができたことによりまして、最高裁でなされた二つの判決が逆転されるということも起こりました。

障害の定義が争点となったケース

 まず一件目はウィリアムズさんという女性のケースです。彼女はアメリカのトヨタの工場で働いていました。これはウィリアムズ対トヨタという訴訟名で呼ばれています。
 ウィリアムズさんはこの工場の組立ラインで働いていまして、そこではさまざまな仕事をチームで行っていました。
 彼女はずっと同じ作業を続けることによって、手首が悪くなったり、肩の関節が悪くなるという症状を患うようになっていました。実際、工場の中ではやることの制限はあったんですけれども、庭仕事をしたり、孫を抱いたり、お店に買い物に行ったりすることができていました。
 先ほどドンの件において、20年間働いている彼をどうして障害者と言えるだろうと判事が言ったと申し上げました。アメリカの最高裁は、ウィリアムズさんは工場外のことでは何も実質的な制限がなく活動ができるのであれば、彼女も障害を持っているのだろうかと言い出しました。そのため彼女は、ADAのもとで障害があるとみなされませんでした。
 しかし、ADA改正法ができてからこの件は逆転されまして、そのときになされた判決では、障害があるかないかは何か特定の作業ができるかどうか、そのときの段階で判断するというふうになされました。

 ADA改正法によって最高裁で逆転された二つ目のケースとしましては、2人の女性、実際には双子だったんですけれども、彼女たちはメガネを着けておりましたが、ユナイテッド航空のパイロットになりたいと思っていました。これはサットン対ユナイテッド航空という訴訟名で知られています。
 彼女たちはメガネをかけることによって視力が両方とも2.0だったんですけれども、ADAのもとではこのように何か器具等を使って軽減された状態でその人がまだ障害があるかどうかということを判断するようにとされていました。
 これにはやはり数多くの問題が含まれています。例えば躁鬱状態であったり他に精神的な障害がある方の場合、もし薬を飲んでいてその状態が軽減されていたら、その人は障害がないとみなされるのでしょうか。例えば義足を着けている人がいた場合、その義足で普通に歩けることができたら、それではその人は障害がないと言えるのでしょうか。また、人工耳を取り付けている方に関しては、それを取り付けて聞こえるようになったから、ADAのもとでは障害者とみなされないのでしょうか。ここに問題があることは皆様もおわかりいただけたと思います。
 そしてADA改正法におきましては判決を覆すものとなりました。
障害は裁判所においては、軽減されていない状況、例えば器具や薬等を服用したからといって、軽減されていない状態で障害があるかないかの判断をされるということとなりました。

 ADA改正法はまだ政治的にも歩み寄りが必要で、さらに改善されるべき点はあるかと思います。しかし、改正によって、障害のある人たちは、訴訟が起きたときにさまざまなハードルをより乗り越えやすくなるのではないかということを期待しています。

合理的配慮が争点となったケース

 ADAの心臓の部分は、障害者に対する態度だと思いますが、ADAの脳の部分に当たる点は、これからお話しする合理的配慮になると思います。
 ADA改正法ができたことにより、障害のある方たちは自分たちが受けた差別に関する訴訟を起こしやすくなりました。 確かADAが制定されたすぐ後だったと思いますが、合理的配慮に関わる訴訟を担当しました。 その時期に合理的配慮に関するコストと利益ということに関して、何千にもわたる調査ができたということはとてもよかったと思っています。
 調査の結果、これは今では明白な事実ですが、合理的配慮をすることによるコストはさほどかからず、それどころか会社にとって大きな利益を生むものという結果が出てきました。

 カリフォルニアにあります大きなNGO、Disability Rights Advocate、DRAという団体が私に専門家として合理的配慮のリサーチについて話してほしいと言いました。その訴訟の原告はマーティン・パットナムという名前でした。
 マーティンはハーバードロースクールを卒業した弁護士で、大企業において弁護士として働いていました。彼はこの会社でとても順調に仕事をしておりまして、それどころか他の同僚の人たちと比べても労働時間も長いし成果も上げていました。
 しかし、何年かとても労働環境が厳しい時期が続いた後に、彼は上司に話しました。自分は躁鬱病なので普通にちゃんと仕事をすることはできるのだけれども、労働時間を制限してほしいということを頼んだわけです。
 マーティンは、そのような配慮をしてもらってもまだ同僚よりも長い時間働ける自信はあると言いました。躁の状態のときには自分が頑張り過ぎないような何かの制限を設けてほしい、また鬱のときにはそれに対する何らかの配慮をしてほしいという頼みでした。

 彼の上司は、「仕事でやらなきゃいけないものはやらなきゃいけないので、そのような配慮をすることはできない」というふうに言いました。
 もちろんそれ以前に、マーティンはとてもいい業績を残していました。しかし、このような態度を見せられたことで、マーティンは会社で居心地が悪くなってきました。
 結局マーティンは会社を解雇されました。自分が達成できることを十分達成しきっていないからという理由からでした。
そこで私は、障害者に対する態度と合理的配慮について話をしてくれるようにという要請を受けました。
 精神障害を持った人たちについて証言をするようにという依頼を受け、非常に驚いたのは、会社や上司が、マーティン・パットナムやダニエル・シュワルツのように、それまできちんと働いていた人をいとも簡単に解雇してしまうということ、この理由というのはやはり会社や上司が、障害という概念、そして合理的配慮という概念がなかったところに起因すると思っています。

 合理的配慮がより世間に知られるようになったきっかけは、プロのブルファーがプロフェッショナル・ゴルフ・アソシエーション、PGAのトーナメントでプレーをするときのことだったかと思います。
ケーシー・マーティン対PGA(プロゴルフ協会)という訴訟です。このケースはユニークでした。
ケーシー・マーティンというのは、会場でもご存じの方がいらっしゃるかと思いますけれども、尊敬するに値するすばらしいゴルファーでした。ただ問題なのは、彼は足の血液の循環に問題を抱えていまして、長い距離を歩くことができなかったということです。しかし、アイアンやパットを使うのは他のゴルファーに引けをとりませんでした。

 ケーシー・マーティンはPGAに対して合理的配慮を求めました。それは、移動をカートでさせてほしいということでした。ゴルフ競技の本質を失ってしまうからという理由で、PGAはこれを却下をしました。
 おかしなことですが、両サイドでプロゴルファーが証言することになりました。カートに乗ることはかえって不利になるという証言をした人もいます。というのは、歩いて得られるようなゴルフコースの感触を得ることができないからということです。また反対に、カートに乗ることは有利だという人もいました。カートに乗ることでエネルギーをそれほど消費しなくてすむし、スタミナを貯めることができるからということでした。
 ここでの疑問は、どこまでが合理的と考えられて、もともとの競技そのものを変えずに済むのかという疑問です。
 ケーシー・マーティンのケースでは、最高裁はケーシーに対して有利な見方を行いました。カートを使うということは何らケーシーを有利に導くものではないということでした。他の言い方をしますと、裁判所の判決はケーシーがカートに乗っているからといって競技の本質を変えるものではないということでした。
 しかし配慮という観点というのは、やはり限度があります。本当に合理的である必要があるわけです。

 二つのケースを比較します。一つは、看護師のケースです。この看護師は病院でシフトで働いていました。ある一定の時間を働くようにと要求されていまして、その時間を変えるというのは合理的ではないと考えられました。
 もう一つのケースはカリフォルニアのシリコンバレーのコンピュータのプログラマで、自宅で働いている人です。この方も鬱病を持っていました。この人は大学の同期の人たちから、夜型の人間だと言われていました。この人は作業をする時間というのは夜中から6時までの時間に作業を行い、その時間は非常に生産性が高かったということでした。あるとき上司が、日中の仕事のシフトに代わってほしいと言いました。裁判所の判断は、これは合理的であったということです。やる内容を変えているわけではなくて、これはケーシー・マーティンのケースと似ているということでした。
 もちろん合理的配慮には限度があります。ある一定の状況では雇用主はそれほどの配慮をしなくてもいいというときもあります。

障害に対する態度

 職場での健康や安全の問題に関して私はまた最高裁で関わることになりました。マリオ・チャズバという人のためにブリーフィングを行うようにと政府から依頼されました。
 マリオは、ロサンゼルスのシェブロンの精油精製所で20年近く働いていました。彼の雇用形態は、シェブロンの社員ということではなくて契約で働いているという形態で、非常によく働いていました。
 彼が行っていた仕事と同じ仕事が、シェブロンの会社側で空きが出たということで、正社員になりたいと申し込みました。正社員になることで賃金も上がりますし健康保険等、福利厚生もよくなるわけです。
 会社側はマリオに対して、本当に採用されたいのであれば健康診断を受けなくてはいけないと言いました。会社側はマリオが無症候性のC型肝炎を持っているということを知っていました。健康診断の結果も同じでした。医師は、こういった病気があっても、少しの配慮をすることによって健康危害を与えず仕事ができると言いました。
 しかし、会社側はマリオに雇用できないと言いました。「雇用できないのは君のためだ。君のことを被害から守りたい、そういった意味で雇用はできない」と。

 ADAがこのようなことを阻止するようにと作られたにもかかわらず、マリオのケースは、働くことを阻止しようとしたことをよく表すケースになりました。雇用主の方が雇用される方に対して、これがベストであるということを決めているということです。
 口頭陳述で弁護士に対して一つ質問がありました。その質問というのは、「それなら雇用者は自殺行為を行うような人を従業員として雇わなければいけないのですか」ということでした。
 ここでもわかるのは、障害に対する態度ということです。

 「フィラデルフィア」という映画をご存じでしょうか。HIVエイズを持っている弁護士の役がトム・ハンクスでした。映画の中で、弁護士事務所は「君のことは雇えない」と言いました。その理由はこのようなセリフでした。「弁護士事務所のアシスタントがもしかしたら風邪を引くかもしれない。そうしたら君の病状が悪くなってしまうし、それから助けたいんだ」
 最高裁は結果的に9対0でマリオの主張を却下しました。

公共施設における配慮

 雇用ということに限らず、日常の生活での至るところでの配慮が必要になってきます。
 この1年前ですけれども、私は恵まれたことに、共同弁護士としてターゲット対全米盲人連合(National Federation of the Blind)のケースを扱うことになりました。ターゲットという会社は、ウォルマートのような会社でアメリカ全国のさまざまな土地にその支店が存在しています。ターゲットは、ターゲット・ドット・コムというホームページを持っていまして、そこでも商品を買うことができます。
 10年前に、私はアメリカの連邦議会におきましてADAに関してとても興味深い、とても重要な証言をする機会に恵まれました。そこでなされた質問は、ネット上の世界は、ADAでカバーされているplace(場所)に当たり、アクセシブルでなければならないかということでした。これはイギリスのDDA、差別禁止法とは違いまして、ADAの中にはネット上のサイバープレイスは合理的配慮が提供される場所でなければならないということではカバーされていませんでした。
 そこで議会での質疑応答のときに、私はウェブスターの辞書を取り出しまして、プレイス=場所という言葉を調べました。私は議会に対して、このADAは、プレイス=場所という言葉をインターネットにも適用されるくらい広いものだというふうに証言しました。

 そのときにはまさか数年後に、まさに問題で裁判で戦うことになるとは思っていませんでした。私たちがターゲットに対して言っていたのは、ここにそれこそ全盲協会の方たちを指しまして、5万人の新しい新規の顧客がいるのだと。その人たちが買おうとしているのだということも言いました。
 当時ターゲット・ドット・コムのウェブサイトには、スクリーンリーダーソフトウエアには対応していませんで、数多くの図があったため、視覚に障害のある方たちにはアクセスが難しくなっていました。
 それでこれはまさにアメリカの恥ずべきことだと思うんですけれども、私たちはこのことに関して長年、何百万ドルもかけて訴訟を戦ってきました。そして去年やっと、カリフォルニア州サンフランシスコの裁判所で、インターネットもADAでカバーされるべきであるという判決が下されました。

 これは買い物だけではなく、例えばインターネットで仕事をしなければいけない人、もしくは職を探さなければいけない人、そういった方々に幅広く対応できるものです。専門家には十分わかっていたんですけれども、ターゲットがウェブサイトをアクセシブルにするのにはさほどお金はかからないはずでした。
 しかし、この訴訟を起こしたということはターゲットにとって最悪なPR活動になったわけです。また弁護士料も何百万ドルも払わなければなりませんでした。そして、視覚障害のある人たちを助けるための和解金も、多大な金額を払わなければなりませんでした。また原告側の弁護士に対する弁護士料も払わなければなりませんでした。
 このインターネットは、私たちアメリカにいる者だけでなく、今日ここにいらっしゃる皆さんにとっても非常に興味深いものだと思います。

 船旅会社に関しまして、アメリカの最高裁でなされた裁判でとても興味深いものがあります。
 これがどうして興味深いかと言いますと、この船はノルウェーからやってきましたが、会社はパナマの会社で、アメリカの水域に行きまして旅客を乗せようとしました。
 アメリカの水域に来たときに彼らは、車いすに乗った人たちもこの船に乗りたがっているということを知りました。 そしてその車いすの人たちは、アクセシブルな部屋がほしい、そして他のお客さんと同じようなサービスにもアクセスができるように配慮をしてほしいということを求めました。
 そこで最高裁が出した判決というのは、たとえそれがノルウェーの船であっても、アメリカ水域に来たときには障害のあるお客に対して配慮を提供しなければならないということでした。

 それでは次に別の件に関して、お話したいと思います。
 アメリカの子どもが日本から「ポケモン」のカードを買いたいと言いました。例えば日本からこのカードを買いたいと思ったときに、アメリカに住む消費者のためにそのようなさまざまな配慮がなされるのかどうか、そういったことがまた次の問題として挙がってくると思います。これは、例えば国連における障害者権利条約が制定されたことが今後、何かしらの光を当てるのではないかと思います。今世界はさまざまな面で関わり合っていると思います。
 このように世界的につながりができている中では、すべての人にアクセシブルであるということが経済的な大きな価値を生み出すものだと思います。 そしてまた先ほど申しましたグローバル・ユニーバーサル・デザイン協会は、世界中の5~6億人の人々に対して健全なアクセスのスタンダードを提供しようという試みをしております。

政策課題-雇用・福祉・保険・技術

 障害に関しまして私たちアメリカは世界中、そして日本から多くのことを学ばなければなりません。
 私たちは日本のような法定雇用率というのはありませんが、それに似たような別の形のものがあります。連邦の公的機関に関わる仕事、もしくはそれに関わる契約の中に、障害のある人たちが2%いなければならないということが書かれています。最近は重度障害者の雇用を創出するような努力を政府がもっとしなければならないと言われています。
 そしてこれは日本だけでなくイギリスや他のところでも出てくるとても大きな質問だと思いますけれども、差別禁止法は本当に機能しているのかということです。
 アメリカでは最近、オバマ大統領が誕生しましたけれども、彼はさまざまな改革をしておりまして、その中の一つが健康保険の改革です。これはアメリカの恥とも言える部分ですけれども、アメリカには何の健康保険にも入っていない人が4,000万人にも達します。アメリカにいる重い障害を持っている人たちが働くこともできず、どのように健康保険の高い掛け金を払うことができるのでしょうか。それは全くもって不可能です。
 アメリカでは、障害に関する大きな枠組みを変えなければならない中で、ADAはその一部であるというような見方が出てきています。

 例えば賢明な目の見えない人が大きな象を手で触って理解しようとしているのと同じようなものです。足を触っている人は、これは木の幹だと言うかもしれません。長い鼻を触っている別の人は、これはホースだと言うかもしれません。耳は大きな葉っぱだとか、牙はやりだとか、さまざまな人たちがさまざまな見解でものを言うかと思います。そうした中でADAは、ひとつの牙で一本の大きな矢なのではないかと思っています。
 貧困削減、健康保険や雇用問題を解決するためには私たちは象全体を見ていかなければなりません。
私はADAだけで現在のアメリカの大きな失業率を改善できると考えるのは間違いだと思います。

雇用政策における課題と機会

 私があるエコノミストと話していたら、ADA制定後、障害を持っている人たちの就業率は下がっているからADAは失敗だと言う人がいました。しかし、他の調査研究をしたところ、ADAと失業率にはリンクがあると言うよりも、その他の多くの要因があったからということがわかってきています。経済的な不況ということもあるでしょうし、それ以外の例えば給付金が、やる気を起こさせるものとして働く場合もあれば、やる気をなくす場合もあります。
ここでまた重要な点に戻りたいと思います。それは人々の態度、そして企業の姿勢というものについてです。

 先ほど話しましたダニエル・シュワルツ、ドン・パークルの話を覚えていらっしゃるでしょうか。最近私は、とても著名なエコノミストと一緒に一冊の本を出しました。これはカリフォルニア大学バークレー校が出したとても有名なジャーナルです。
 私たちは数多くの会社から3万人の従業員――これは障害のあるなし両方ですけれども――にインタビューを行いました。障害のある従業員に対する態度等に関する初めての大がかりな調査でした。
 一般的には、残念ながら障害のある従業員とない従業員の間には、例えば賃金とか生産性にギャップがありました。これはいわゆるディスアビリティ・ギャップと呼んでいるものですけれども、離職率や不満足感を生み出しやすい傾向にあります。
 そして雇用主や被雇用者の正義感、公平さ、責任感と会社への適応に関しても調査しました。
 特筆すべき調査結果は、公平さや責任感のある会社におきましては、先ほど申し上げましたディスアビリティ・ギャップが消えてなくなっていたのです。言い換えれば、会社の文化が障害のある従業員に対する態度へ大きなインパクトを与えているということです。
 アメリカ政府、連邦労働省が非常に私たちの研究に興味を持ってくれまして、大きな資金を提供してくれることになり、企業の態度に関してより深い研究ができることになりました。
 フォーチュン500と言われているアメリカのトップ企業を対象にして、障害者に対する態度、行動について調査をします。そしてどのように障害者の対応を行っているのか、またなぜ行っていない企業があるのかを研究します。
 日本障害フォーラムがいろいろな障害団体の結束する場になっているのと同様に、私たちも様々な障害者団体と雇用に関して配慮の分野で調査をしていきたいと思っています。

 そして先ほども申しましたけれども、発展途上国において世界銀行からの支援を受けたプロジェクトを行っておりまして、環太平洋地域のアフリカで障害を持った人たちがどのように雇用され、どういった状態でいるかという調査を行っています。
 残念ながらアメリカの影響もあって、また新しい戦争が発生しています。アメリカの5万人ほどの若い青年たちが、イラクやアフガニスタンから身体障害の状態で帰ってきます。その10倍にも当たる30万人もの人たちが心的外傷後ストレス障害=PTSDを持った状態で帰還します。
 私たちが行っている一つの試みといたしまして、起業家ブートキャンプというのがあり、このような帰還兵に対して集中的な研修を行って、職場に少しでも早く戻れるようなトレーニングを行っています。

さいごに

 今日いろいろなプロジェクトやストーリーについてお話をいたしました。私たちがこのようなことを通して行おうとしていることは、経済的なエンパワメントと市民権の獲得です。
 もう亡くなられましたがジャスティン・ダートという非常に有名な障害者の権利擁護者がいまして、彼はADAの制定に尽力をしました。ヨシカという日本の女性がこの方の奥様で、この運動を続けていらっしゃいます。
 ジャスティン・ダート氏は「公民権と経済的権利は、同じコインの両面に過ぎない」と言いました。
経済的なエンパワメント、そして公民権運動というのは、差別禁止法とともに発展していかなくてはいけません。
 アメリカや日本、その他の国においても、私たちの子どもの世代がADAやDDA、国連障害者の権利条約がもともとある時代で育つ初めての世代になるわけです。
 しかしながら、態度や偏見の問題はあり、これからも訴訟は続いていくかと思います。

 数年前、私は共同弁護士としまして非常に著名な障害者関係の弁護士と離婚訴訟に立ち会いました。この夫婦には2人の子どもがいまして、1人は9歳で自閉症でした。そしてもう1人が6歳で少し学習障害はありましたけれどもそれ以外は問題のない子どもでした。母親はすばらしい母親で、子どもたちを愛していますし、子どもたちもお互い非常に仲が良く、一緒に暮らしたがっていました。
 判定で判事は、直感的な自分の考えを持ち込みました。判事は、特に証拠も実証もない状態で、こうしましょうと言いました。「では母親が障害のある子を引き取って、父親が障害のない子どもを引き取りなさい」と。この判決に関して争うため、私と他の障害者専門の弁護士に相談をしてきました。 最初は非常に小さな離婚訴訟でしたが、日がたつにつれてカリフォルニア内で注目を浴びるようになりました。そして結果的に自閉症を持つ人たちの関連の協会ですとか、子どもの権利を擁護する団体も関わることになりまして、自閉症というのは何も伝染病ではないし、この非常に仲良しの2人の子どもたちは一緒に育てるべきだという結果になりました。
 弁護士とか判事が正しい決断をすることはたまにはあるもので、このケースはカリフォルニアの高等裁判所までいくことになりました。そして、この2人の男の子たちは一緒に育てるべきだという判決になりました。聖書のソロモン王のケースを引き合いに出してこの判定が下ったというのが非常に興味深いことでした。ソロモンの判決というのは、ソロモン王のところに2人の女性がやってきて、自分が赤ちゃんの母親だと言いました。そしてソロモン王の判決は、「わかった。この赤ちゃんを2つに割ってそれぞれに半分ずつあげる」と言いました。一方の女性が、「やめてください、それだったらもう1人の女性にあげます」と言い、ソロモン王がこの人が本当の母親だとわかったというケースです。
 カリフォルニア高等裁判所は、下級裁判所の判決はソロモン王が絶対にしなかったであろう決断であると言ったわけです。 そしてこの兄弟のケース、マリオのケース、ダニエルのケース、そしてマーティンのケースから、判決がこの人たちの生活にどういう影響を与えているかということを認識することができます。

 よく弁護士や判事、企業家、ビジネスマン、政策の策定者というのは、こういった実際にあるストーリーを忘れがちだと思います。しかしながらこのようなストーリーこそが障害者に関する政策を作る理由になるわけです。
 最初にも申し上げましたけれど、私たちはこれから多くのことを共に学ばなければなりません。私たちは自分たちの責任として、蔓延していた差別や態度に対して戦い、そして改善していかなければなりません。
 そして私はまた、皆さんのようなリーダーの方々が世界中にいらして、今までの現状をこれから変えてくれるに違いないと固く信じております。
今日行っているような話し合いの内容の結果、子どもたちがよりよい世界を享受できるようになると信じておりますし、そのように望んでおります。
 このように今回機会に恵まれまして、皆さんと一緒に学ぶことができ、そして日本のことも学ぶことができ、これから一緒に取り組むことができますことを本当に光栄に思っております。
 このような機会を与えてくださってありがとうございました。