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アメリカ ADA法(障害のあるアメリカ人法)
-その成果と課題-
The Americans with Disability Act: Accomplishments and Challenges

リチャード・スコッチ
米国テキサス大学社会科学部 教授

院内学習会「アメリカ ADA法の最新動向と課題~日本の障害者差別禁止法制に向けた対話~」
(2012年7月6日 主催:日本障害フォーラム)より

本日はお招きいただき、日本における障害者運動に関してとても重要な方々、また障害当事者の方々にお会いできましたことをとても嬉しく、感謝申し上げます。私は米国におきまして、障害者の権利に関する法律を30年以上研究しています。この度このような機会をいただきまして、ADA(障害のあるアメリカ人法)とその他の法律によってアメリカで何が達成されたのか、またADAがあっても何が達成できなかったのかということにつきまして、私の見解を皆さまと共有できますことをとても嬉しく思います。

世界中の多くの社会で起こっているのと同じように、アメリカにおける障害者の方々も日々の生活において社会的な参加に多くの困難を抱えております。障害のあるアメリカ人の多くは雇用されるのが難しかったり、働いていても低賃金の仕事であったり、福利厚生がほとんどなかったり、昇進の機会があまりないというような状況にあります。その結果障害のある人は、障害のない人たちに比べて収入が低く、不適切な家や必要なサービスを受けることができずに生活しなければなりません。

多くの障害のあるアメリカ人は否定的な態度や差別、アクセシブルではない建物により公教育(public education)が受けることができません。そして、多くの障害者は、社会の一員になるために必要な公共サービス、例えば交通手段、医療へのアクセス、テクロロジーを受け取ることが難しい状況です。障害者の中には投票したり、公民として参加することができない方々もいます。

アメリカにおける産業時代から、多くの障害のあるアメリカ人は世界から閉ざされた、自由を奪われた施設に入れられて、家族やコミュニティから切り離され、抑圧的な状況の中で生活せざるを得ない状況にありました。

イギリスの障害学研究者であるマイケル・オリバーは次のように書いています。 「障害のある人たちは常に社会的制約を経験している。社会的制約というのは、建物の環境がアクセシブルでなかったり、知性や社会的能力を疑問視されたり、一般の人々が手話を理解することができなかったり、点字での読み物が少なかったり、目の見えない障害のある人々への敵意のある態度などである。」

人々がどのように日々の生活を送るのか、また支援がない人々がどのようなことができるのか、もしくはできないのかということはすでに想定されていて、期待にそえない人々に対して大きな障壁を作っているのです。もし様々な建物や技術が、“普通”と呼ばれる人間の機能をもとにして作られているのであれば、代わりの方法を使わざるを得ない人々にとっては制約になります。階段は車椅子の人たちが建物の中に入ることを制約しますし、印刷物は目が見えない人たちには読むことができず、情報にアクセスすることができません。そして時に私たちは非物理的な障壁がどのように存在しているのかということを忘れがちになっています。組織的習慣や公共政策の “普通”の機能という想定が障害者の社会的参加を制約してしまいます。職場での決められた業務時間は朝早く仕事を始めることができない人たちや、休みを多くとる必要がある人たちを排除してしまいます。公的支援を受けることができる人というのは、障害があって働くことができない人で、働くことができる人は障害者ではないとみなされます。障害のある人たちは常に疎外され、作られた社会環境の中で抑制されており、障害のある人たちは社会参加する能力がないという想定のもとに成り立っています。けれども私たちは人生はそのようなものではないということを学んできました。

こうした状況に対応するために、アメリカの障害者と彼らの仲間たちは、日々の生活で彼らが直面する偏見や差別を排除し、社会の全ての側面で平等に参加するためのより良い条件と機会を求めて、権利擁護グループを組織しました。仕事、家庭生活、教育、政治など全てに障害者が含まれなければなりません。このようなことをどのように改善できるかということですけど、障害があるということは物事を違った方法でやるというだけで、能力がないということでなない、ということを人々に教育することでいくらかは達成することができます。しかし、多くの改善は法律を変えていくことが必要になってきます。

過去35年以上の私の研究は、障害者の完全参加を促進するためにどのように障害者の社会的運動が法律や政策を変えてきたのかということについてでした。こうした社会的な運動は、もともとは19世紀の障害者の社会的運動にさかのぼります。その当時、ろう者や障害のある退役軍人たちが自分たちの状況を改善するために組織を作りました。1930年代、大恐慌の時に失業した障害者たちが、政府の貧困撲滅プログラムに平等にアクセスしたいと組織しました。1940年、法律学の教授であるヤコブス・テンブロック氏に率いられて盲の人たちが全国的な組織を結成して、平等な権利を要求しました。テンブロック教授は、「世界に生きる権利」という著書で有名です。1950年代、知的障害児の親たちが、地域の公立学校から排除されていることに立ち向かうために組織を作りました。1960年代には、障害のある若者たちが大学のキャンパスや退役軍人やリハビリテーション施設で自助グループを形成しました。1970年代には、アメリカのあらゆる町で障害者による自立生活センターが作られ、障害のある人たちが様々なスキルや資金や社会的サポートを得るためにお互いに助け合いました。

障害のあるアメリカ人の社会的な動きは、あらゆるタイプの障害の人たち、そしてあらゆるコミュイティの人たちにより構成されていました。したがって、この当時はこの運動のメンバーは多様な異なる目標を掲げていました。ある人たちは特定のアクセスやサービスを求め、ある人たちはもっと一般的なことを求めていました。ひとつの重要なゴールは自治体及び全国レベルの行政において障害に基づく差別を禁止する法律を作ることでした。1960年代と1970年代には多くの地域及び州におきまして差別禁止法が制定されました。最初の全国的な障害者権利法は連邦で可決されたリハビリテーション法でした。私の著書にも書かれておりますが、リハビリテーション法におきましては連邦政府が資金提供をしている例えば、学校、病院、政府機関、公共交通、公共施設などにおける差別を禁止しました。この法律は1973年に可決され、1年か2年のうちには施行されるはずでしたが、実際に効力を持つようになったのは、障害当事者団体が政府に対して何かしらのアクションをとるように圧力をかけた後でした。

実際に効力を発揮するに至った後も、この法律についてはあまり知られていなかったり、理解されておらず、活発に施行もされておりませんでした。実際に何かしら法的なアクションがとられるまで、多くの場所はアクセシブルではない状態でしたし、政府も強化するための十分な資源を提供しませんでした。さらに重要なことは、政府の補助金を受け取っている機関だけがこの法律によって影響を受け、民間の雇用主は対象とはならず、店やレストランや劇場といった商業施設は、障害のある利用者にアクセスを提供する義務はありませんでした。

1986年、大統領によって任命された諮問委員会は、”Toward Independence(自立に向けて)”というタイトルの報告書を発行し、これがADAに向けての大きな一歩になりました。障害のあるアメリカ人に限定した調査を行い、その報告書の中では障害のある人たちが社会参加及び雇用の場において差別が一番の障壁であると断言しています。そこで必要とされたのは、アメリカはもうこれ以上障害者に対する差別を許さない、というとても強い社会的責務を記した人権法でした。この報告を受けて、障害者の権利擁護団体は新しく幅広い障害者禁止法を作るために政治的な活動を始めました。様々な障害の種別の人たちの連帯が生まれました。保守的な勢力も自立という考え方をサポートしました。民主党の人たちはインクルーシブな社会を支持しました。その結果ADAは多くの賛成を受けて可決され、1990年7月26日、当時の大統領であるジョージ・H・W・ブッシュによって署名され法律になりました。

ADAは民間での雇用、公共サービス、公共施設、通信における障害に起因する差別を排除する包括的な取り組みです。しかしながら、このような明確な要求以上に権利擁護者の方々は何百万という障害のあるアメリカ人の完全な社会参加というさらに大きなインパクトをADAに期待しました。

ADAの理論は、障害者が直面する多くの問題は、身体的及び精神的インペアメントを持った人たちの社会参加を恣意的また致命的に排除または制限するという、社会的に作られた環境の結果である、ということです。この法律は、障害者であるということは自立した生活が送れず、経済的、政治的、社会的な生活への参加できないという考え方を否定しました。障害者権利擁護運動の人たちは、公共政策、最終的には公共生活において障害がどのように構成されるのか再定義における重要なステップになることを期待しました。

障害者の社会的孤立や強要された依存は、その人たちの障害の結果ではなく、社会的、政治的結果であるという社会的モデルは他の疎外されているグループとの類似性を作り出しました。

アメリカの社会学者のポール・ヒギンズはADAが可決されたすぐあとにこう書きました。

障害者が経験する困難さを理解するためには個人の性質を一番に見ることより、権利というのは障害者に制約を与える行動を評価するために我々を励まし、そうすることを求めています。権利は障害者をエンパワーする。権利によって障害者は不当な扱いと彼らがみなすものと正当に闘うことができるのである。もう彼らは障害のない人々が有利になっているために障害者にとって不利な処遇に耐える必要はないのである。

同じように、ジェーン・ウエストは次のように書きました。

ADAは障害者に対する私たちの態度がどうあるべきか明白なメッセージを送る法律である。ADAは、包括的なサービス提供システムを作るために使われる正しい方向に向かうための枠組みである。ADAは社会の扉を開け、そして開け続けることを意図しています。

法律に対応しての自発的な行為はどれだけあったかということを測定するのは難しいです。なぜならアメリカ政府はコンプライアンスを適切に測定することをしていないからです。しかし、私たちは多くの民間の公共施設の提供者が自発的に施設をアクセシブルにしたことを知っています。アメリカにおいてアクセシビリティを保障しようという試みは高いように思われます。そして、技術的な変更や障害当事者の活動や自立生活運動は 障害者にとって状況を改善するための一因となりました。ADAは障害当事者団体、ビジネスのコミュニティ、ADAの対象となる組織、政策決定者、またマスメディアにとってとても大きな触媒となるものになりました。

けれども、問題もありました。ADAの中では障害は広範に定義されていますが、初期の頃の判決は最初にADAの枠組みを作った人たちの意図と比べ、もっと狭い範囲の人たちにサービスを制限するような判決を下しました。ADAの中で障害の定義は、インペアメントをもとにした機能制限のある人、もしくはインペアメントの経歴のある人、もしくはインペアメントがあるとみなされる人というふうにされています。これは多くの保守的な判事に対して、対象となるグループはとても大きなものでした。ですので、例えば判事がその障害のある人たちはそもそも働くことができないと思ったのであれば、ADAによる保護をその障害者に適応させませんでした。つまり判事をはじめとする政府の役人がもつ偏見は法律の実行を狭めてしまいました。差別からの保護を除外された人たちの中には、働いているのであれば本当の障害者ではないから法律で守られる必要なないという理由で保護されませんでした。障壁を乗り越えてしまった人たちは、自分たちは差別を受けていたと主張することができなくなったのです。

ロバート・バーグドーフ教授は元のADAの草案を書いた人ですが、その方が次のように言いました。「ADAが可決されてから20年間で行われた裁判の判決は、障害者は特別なグループもしくは個人であるという誤ったコンセプトを持つことになってしまった。誤ったコンセプトとは障害者は他の人たちと大きく違っていて、特別な保護が必要だという考えでした。彼はそのことを批判しました。障害者はどこにでもいる「太郎さんと花子さん」のように一般の人たちと同じである。たとえ障害があったとしても他の人たちと大きな違いはない。」彼は次のように結論づけました。「この特別な措置というのは真にそれを受けるに値する受益者という人たちと制限することにより、本来この法律が保護を提供しようとしていた他の中心となるグループの人たちや他の市民の人たちの障壁を作ることになってしまった。つまり判事の解釈によって広範な法律が狭いものになってしまった。」

特に、インペアメントが医療や機器によって軽減されるなら差別からの保護を受けられないという判決も下してしまいました。インペアメントが軽減された人たちはADAによって差別の保護を受けられないということになりました。ADAの草案に関わった別の専門家もこう言いました。こうした判決の結果、ある人は仕事から解雇されるに十分な障害があるものの、その解雇に対抗できる権利を得るほどには障害がない、というばかげた結果を生み出してしまうことになりました。

こうした障害者運動への対応として、選挙の年に議会はADA改正法が当時のジョージ・W・ブッシュ大統領により署名され制定されました。新しい改正法は広い障害の定義が再確認され、障害者の差別に関して対処できるよう法律に技術的な変更をしました。ADA改正法の長期的なインパクトに関しては不透明な部分もあります。しかし、この改正によって差別的な待遇にあっている障害者の人たちが自分たちの直面している問題を解決する手助けにはなりました。そして裁判所に誰が障害者かということに注目するのではなく、差別の状況にもっと焦点をあてさせることができました。

ADAが制定されてから最初の22年間は、短期的に状況を変えることができましたが、当初の大きな目的でありました障害のあるアメリカ人の生活を根本的に変化させるというゴールには到達することができませんでした。明らかな差別はやめて、もっと権利を与えることにはなりました。しかし、全体を見ると、障害のある人は今でも雇用されていないか、失業中であったり、障害のない人に比べると収入は低かったりします。調査のデータを見て見ますと、アメリカ人のほとんどはADAの目的であるインクルージョンとか差別をしないという考えを支持していますが、人々の中にある偏見は個人の態度や政治的なプロセスに内在しているのが現状です。

障害のあるアメリカ人の社会参加を制限するものには、多くの間接的要因もあります。障害者は歴史的に学校から排除されていたために、教育レベルやトレーニングレベルが低いものとなってしまっているため産業労働市場においてはとても弱い立場になってしまいます。多くの障害者は労働市場にあります給付金や保険プログラムにおいて不利な状況におかれています。例えば、よりよく機能されてしまうと給付金が打ち切られてしまうということがあります。慢性的な状態の人たちに対する不十分な健康保険が雇用の障壁となるということもあります。

また、急速に変化している経済的、技術的状況にも障害者は影響を受けています。インターネットや改善されたコミュニケーションのソフトウェアを通じて仕事へのアクセスを増やすこととなりました。しかし、速いペースの仕事やグルーバル的な競争に対応するための人件費削減の圧力は、雇用を求める障害者にとって大変厳しい状況になっています。アメリカにおきましては、民間の保険システムになっておりますので、障害に伴う医療費の出費が高くなるのではないかと危惧し、障害者を雇うのをためらう雇用主もいます。

障害者の社会的排除はADAだけで解決できることではありません。良い仕事、健康保険、介助者、地域でのサービス、アクセシブルなテクノロジーなどはADAによって奨励されるものですが、保障されるものではありません。機会が均等になり、社会参加を可能にする資源を投入する喜びを共有しなければなりません。差別禁止法は必要ですが、それだけでは大きな制度的変化を起こすには不十分です。

さらに、雇用主や判事は、障害とは何か、障害があるとはどういうことなのかということに関して一般的に普及している考え方を好みます。多くの人が障害というのは能力がなく、依存することであると考えている以上、ADAの効果はあまり大きくないでしょう。その一方、障害に関してよりポジティブな視点を多くの人が持てば、差別禁止法はより効力を発揮します。

障害のあるアメリカ人の雇用パターンを見てみますと、複雑な絵が見えてきます。多くの障害者は雇用主が職場での配慮を喜んで提供すると思っていますが、法律があるにも関わらず多くの雇用主は障害がある人を雇用することを尻込みしています。障害のあるアメリカ人の全体の雇用率は、ADAが制定された後も増加していません。現在、障害のある人の雇用率は障害のない人の雇用率の半分です。

専門家の中にはADAは、今雇用されていない人や教育を受けていない人や技術的なスキルのない人より、すでに働いている人、特に教育レベルの高い人にとって有益なものであると言う人もいます。雇用主の中には、配慮の提供の必要性があることを障害者を雇用しない言い訳に使う人もいます。

しかしながら、ADA全体を理解するためには、インクルージョン理念に対する取り組みを分析しなければなりません。ADAを用い、どのように障害者を守るのかを知っている人にとっては直接的な影響がありますが、障害者の排除とはどういうことなのか、そして効果的に社会参加することができるのだということを社会に教えていくという間接的な、より広い影響も重要です。

ADAのような法律は職場や公共な場所でよりインクルーシブな環境を作ることができるのでしょうか。スロープをつけるとか、アクセシブルなコンピューターや情報通信技術の活用は十分な財源があれば達成できるかもしれません。しかし、今日の経済状況では、財源を得るための競争は激しいものとなるでしょう。けれども、多くの変化はただ単にお金を払うことではなく、態度を変えることか必要なのです。社会のだれでも障害のある人たちの潜在能力を理解する必要があります。差別禁止法がインパクトを与えるものとなるためにも、人々が障害について学ぶことが必要なのです。法律を変えることに焦点をあてることは重要ですが、それだけでは不十分です。私たちは社会も変えていかなくてはいけません。

ADAはアメリカの障害者の保護のために重要な法律であり続けるでしょう。ADAが制定されてから、より多くの人たちが仕事に就き、教育を受け、一般の文化や市民生活に参加することができるようになりました。ADAに書かれていることは、社会、経済、政治的な主流へのアクセスを大幅に拡大しました。しかし、差別から法的な保護を受けたとしても、障害のある人たちの社会的、経済的平等が得られたのはADAのおかげだと結論づけるのは難しいです。私たちはまだ障害が多くの個人にとって人生を変えるような大きな要素ではないというところには到達していません。

公民法ではそこまでは期待はできないかもしれません。障害のある人たちは人的資源の制限や社会的孤立、偏見などから社会的参加への様々な障壁に直面しています。これらの多くは間接的及び直接的に差別と関連付けることができるかもしれませんが、ただひとつの法律によって簡単に変わるものではありません。アメリカやどの国においても障害者が完全なアクセスを享受するためにはさらに深いところの社会の変化が必要になります。

最後に、アメリカにおけるADAの経験は他の国にとってどのような意味を持つのでしょうか。世界のあらゆる国は国連障害者の権利条約に署名、批准し、障害者の完全な平等と教育、司法、健康、あらゆる形態での経済、社会、政治的参加における合理的な配慮の提供の必要性を認識しています。私のいくつかの懸念する点をお話しましたが、だからといって条約の中に書かれている重要な原則を支持しないというわけではありません。それどころか、障害者権利条約は障害者の権利が普遍的に支持されるものであると断言できる重要なものであると思っています。

しかしながら、私たちは条約の批准だけで終わってしまってはいけません。それ以上に障害当事者と障害者運動を支持する人たちは、権利条約に書かれている権利の実現に向けてともに進んでいかなければなりません。そのような努力は、たとえ経済的資源があったり民主主義の国であっても簡単ではないでしょう。けれども私たちは障害のある方々の尊さを、仲間である市民に教育していくという努力を続けなければいけません。そして、条約に書かれている様々な価値を達成するために必要な政策決定や行動をしていかなければいけません。

重要なことは障害者自身がこのような行動に参加していくということです。障害者は社会に対して自分たちが経験している障壁のネガティブな影響を説明することができますし、そしてそれをどのように効果的に除去していけばいいのか教えることもできます。障害者は彼らを保護する政策の対象者ではなく、そのような政策を作る主人公なのです。だからこそ、世界中の障害者の権利擁護をしている人たちのスローガンは、“Nothing About Us Without Us” (私たちのことを、私たち抜きに決めないで)なのです。障害者の参加がなければ、条約やどのような差別禁止法であっても世界中の障害者の完全参加は達成することができないのです。

今日この場で皆さまにお話しする機会をいただきありがとうございました。