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障害者差別をなくすための千葉県条例

項目 内容
発表年月 2007年8月

野沢和弘
毎日新聞夕刊編集部長

 障害者差別をなくす条例(正式名称・障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例)が2006年10月、千葉県で成立した。世界では40数カ国で障害者差別を禁止する法律があると言われているが、その中には日本は含まれていない。国連からは2001年に日本政府に勧告が出されており、日本弁護士連合会や障害者団体が法制定に向けて活動しているが、政府を動かすには至っていない。国が動かないのであれば、県がまず条例をつくって各地に波及させていこうということで、この取り組みがはじまった。障害のある本人や家族が作り上げた「市民立法」ともいうべきもので、これからの地方自治・地方分権にとっても意義が大きいと思われる。

差別事例と研究会

 条例制定等に向けた取り組みとして、県障害福祉課は04年9月から県民に「差別に当たると思われる事例」を募集した。県内各地から教育、雇用など日常生活の様々な場面における事例が、800件近くも寄せられた。以下はその一部である。

  • 就学時健診で普通学級を希望したら、教委から「養護学校へ行きなさい」と言われた。早朝に電話してくるなどの嫌がらせも受けた。
  • 養護学校の教員から「ばか」「のろま」の罵声を浴びせられた。
  • 下校中、下級生に囲まれて石や砂をかけられる。オウム返しをするので面白がって、「アホ」「バカ」と言わせられた。
  • 視覚障害を理由に教師を辞めさせられた。
  • 「企業秘密があるから」と、会議に手話通訳をつけてもらえない。
  • 「この子のことはあきらめて、もう一人産みなさい」と医者にアドバイスされた。
  • 「福祉の世話にならなければ生きていけない価値のない子」と病院で言われた。
  • 保育園で集団行動ができないため、「親の愛情が足りない」「もう来るな」と言われた。
  • 福祉事務所で「障害児がいるのに、なぜもう一人産むのか。また障害児だろう」と非難された。
  • 障害のある子が商品を見ていたら、「入ってこないで」「なんとなく気持ち悪い」と店の人に言われた。
  • バス旅行を申し込んだら、「付き添いがあっても障害者はお断り」と言われた。
  • 電車内で汚いものを見るような目でじろじろ見られる。
  • なんとなくさげすんだような目で見られる。

 条例づくりのための研究会が組織されたのは05年1月。民間から公募制で委員を募ったところ、多くの障害当事者のほか、医療、教育、福祉、労働などの分野から識者が参加した。企業からも4人の委員が参加して、計29人となった。その座長には知的障害の子どもがいる親の立場である私(野沢)がなった。
 これまで障害者が県の検討会や研究会で発言を認められること自体が少なかった。委員たちは緊張していたせいか、議論は当初はかみ合わなかった。誰もが自分たちの障害の大変さや辛さを競うように主張した。しかし、私はこの場に委員として参加して議論できる障害者はまだ幸せなのではないかと思っていた。私には知的障害者の虐待事件をいくつも取材してきた経験があるが、閉鎖的な入所施設で声も上げられずに虐待されていた障害者をたくさん見てきた。それを思えば、ここにいる障害者はまだ恵まれているのではないかと思えてしまった。
 しかし、研究会を重ねるにつれ、それぞれの障害ゆえに独特の苦労や差別を受けていることが分かってきた。聴覚障害のある委員は手話通訳を介して鋭い質問や反論をしてくるが、手話通訳がいなければまったく議論に加わることはできない。彼らは日常的に多くの情報が得られないままの状況の中で仕事や生活を強いられている、その疎外感や孤立感が少しずつ私にもわかるようになってきた。
 また、精神障害者の中には差別や偏見を恐れて、職場で自分の障害を必死に隠している人が多いことも知った。ふだん飲んでいる薬も隠さなければならず、家族からも疎遠にされて暮らしている人も多い。

 目の不自由な委員はあるタウンミーティングでこんな話を披露した。「神様のいたずらで、障害者はどの時代でもどの町でも一定の割合で生まれる。もしも、この町で目の見えない人が多くなったら、どうなるかみなさん考えてください。私はこの町の市長選に立候補する。目が見えない有権者の方が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は『この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、灯りをすべて撤去する』ということを公約にする。目の見える人たちは慌てて飛んでくるでしょう。『なんてことを公約してくれるんだ。だいたい夜は危なくて通りを歩けやしないじゃないか』と。市長になった私はこう言います。『あなたたちの気持ちはわかるけれども、一般市民のことも考えてください』。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りは必要ない。そのために地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人は勝手なことを言うのだろう」

 車椅子用のトイレを作ろうとすると、「こんなに財政厳しいのに、一部の人たちのためにもったいない」という議論がよく起きるが、車椅子の人たちのほうが大勢になったときのことを考えたらどうなるのか。障害の問題の本質は、何かができるかできないかということではない。どういう特性を持った人が多数で、そうじゃない人が少数なのか、そして多数の人は少数の人を理解しているのか、配慮しているのか、ということに尽きるのではないだろうか。
 私は知的障害者だけが特別に大変な思いをしているのだとは思えなくなってきた。ほかの委員も互いの苦労に共感するようになり、何とか折り合いをつけようと、議論は深まっていった。

ヒアリングとタウンミーティング

 外部の関係団体のヒアリングも実施した。中小企業の経営者からは厳しいことを言われた。
 「みなさんは障害者だからといって甘えているのではないか。私たちだって障害者を雇いたい。だけど、この10年に及ぶ日本の不況の中で、中小企業は一体どれだけつぶれていったのかをあなたたちは知っているのか。何でもかんでも障害者を雇えと言っても、会社の維持だって大変なんだ。給料もたくさん上げたいけれども、そうしたら会社はつぶれちゃうじゃないか」
 実は、その経営者は誰よりも障害者のことを理解してくれている人だった。自分にも重度の知的障害の子どもがいて、会社の経営が苦しい中で障害者の実習を積極的に受け入れていた。ほかの経営者仲間にも、障害者を雇うように一生懸命働きかけている人だった。
 「障害者のつらさを訴えているだけではだめだ。いま、企業がどうなっているかということもわかった上で言ってきてくれなければ、障害者の声は企業には届かない」ということを、憎まれ役を買って出て言ってくれたわけだ。  研究会での議論は、障害者の中で折り合いをつけるだけでなく、社会とも折り合いをつけなくてはいけないのではないかと意識するようになった。

 タウンミーティングも30カ所以上でやった。政府のタウンミーティングとは違って、千葉県ではそれぞれの地域の障害者グループや市民たちが主催し、カンパで運営資金はまかなわれる。県庁職員は資料をそろえて条例づくりの進ちょく状況や内容を説明に訪れるだけだ。
 鴨川市でのタウンミーティングでは、女子高生たちが養護学校や障害者施設を見学して、障害者への偏見や差別について勉強して、それをもとに寸劇を披露した。スーパーの中で自閉症の女の子がパニックを起こしてしまい、周囲の客たちはどうしたらいいのかわからず、店員さんもおどおどしている……という場面を演じた時には、会場から大拍手が起こった。女子高生はシンポジストにもなりました。ところが、女子高校生は演じるのは得意だけれど、人前で話すのは苦手で、声が出なくなってしまいました。隣には精神障害の青年が座っていて、心配そうな顔で女子高生を励ました。
 その隣のシンポジストのお母さんは、重症心身障害の娘さんがいる人だった。ずっと寝たきりの娘を抱えて暮らしている。  「つらいことも多いが、小学生のお兄ちゃんが優しくて支えてくれて、そのお兄ちゃんがいるために自分たちは本当に助かっている」。しかし、その兄も「学校には(妹を)連れこないで」と言うそうだ。いじめによる子供の自殺などが相次いでいるのを見ても分かるように、学校という独特の社会で何事もなく生きていくのは今の子供たちにとっては大変だ。重い障害の妹を見られたら、いじめや冷やかしの対象になるかもしれない、と心配だったのだろう。お母さんは、兄の気持ちが痛いほどわかるのだが、妹のことも不憫に思っていた。

 ある日、兄が学校でソフトボールの選手に選ばれ、妹にも兄の 活躍する姿を見せたくて、お母さんは車いすに妹を乗せて応援に行った。応援したかいがあってか、兄のチームは勝ち、妹の車いすを押して帰ろうとした時だった。兄のチームメイトが走り寄ってきたという。車椅子の中の重症心身障害の小さな女の子を、子供たちはまじまじとじと見つめていたそうだ。お母さんのどんなにかどきどき心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。じーっと見ていた子どもたちの何人かが手をのばしてきて、妹の頭を撫でて言ったそうだ。
 「勝利の女神だね」
 この子が応援してくれたおかげで、自分たちのチームは勝てたというのだ。会場は感動に包まれ、ハンカチを目にあてる人もたくさんいた。
 なんで子供たちはそんなことをしたのだろう。妹を隠さなければいけないと思っている友達の気持ちをおもんぱかってのことなのだろうか。子どものころは同世代の友だちと一緒にいることが大好きで、友だちが悲しい思いをしていれば何とかしたいと思い、楽しそうにしていると自分まで心が弾んできたりするものではないだろうか。友だち同士が、痛みや悲しみに触れ合って、心が共鳴するような、そういう中で自分の存在感をしっかりつかんでいく、相手の存在感も認める。そうやってお互いに自分自身を肯定し愛していくことができるのではないだろうか。そういう体験が子どもたちの生きる力をはぐくんでいくのではないかと思う。

私たちが作ろうとしている条例は、障害者のための条例ではあるけれども、決して障害者のためだけではない。すべての人間にとって、とくに子どもたちに、お互いの人間の違い、お互いの悲しみやつらさを分かり合い理解しあって、同じ時代を同じ地域で生きていこうという一つの大きな根拠になるのではないかと確信した。

県庁職員たち

 条例要綱案は障害福祉課と民間委員による研究会の1年に及ぶ議論をもとに作られた。計20回開かれた研究会は完全公開で、傍聴席には障害関係者だけでなく、県庁各課の職員たちで埋まった。傍聴に訪れたのは計33課に上る。障害者への理解を広め、差別をなくすためには、いかに広汎な分野の取り組みが必要かを物語っている。
 研究会の委員は昼間仕事を持っている人が多く、研究会は20回とも夜間に行われた。2時間以上、時には議論が白熱して3時間を越える回もあったが、各課の職員たちは熱心に議論に耳を傾け、毎回最後まで付き合ってくれた。これだけ多くの県庁各課に見守られ、支えられて、できあがった条例案なのだ。

 県庁各課が毎回、研究会に傍聴に詰め掛けたのは、障害者差別をなくすためには広範囲の取り組みが必要だからだ。
 たとえば、県民から募集した差別事例の中には、「障害を理由に子どもが保育園から退園を迫られた」といったものがあったが、障害福祉課だけでは解決できるものではない。保育園の事情をよく知った上で、園長や職員の意識や処遇スキル、ほかの保護者の理解、園内の設備などを勘案して話し合っていかないと、当事者間の対立が深まるばかりになる恐れがある。そのためには保育所を所管する児童家庭課に関わってもらわなければならないのだ。

 県警察本部も障害者には大いに関係がある。脳性まひの男性が恋人と結婚するために運転免許を取る姿を描いた「もっこす元気な愛」というドキュメンタリー映画が話題になった。手が不自由な男性のために改造した車で練習を積み、運転免許試験場と交渉して試験を受け、苦労しながらも合格する。男性は一人でハンドルを握り、高速道路を飛ばして熊本から東京まで旅をする。障害者用車両という技術開発、本人の努力、それに加えて、熊本県警察本部の理解が障害者の人生を大きく変えて行ったのだ。研究会には千葉県警運転免許本部試験課からも傍聴にきてくれた。
 また、これまで精神障害者や知的障害者は公営住宅の単身入居ができないことになっていましたが、厚生労働省はこの欠格条項を撤廃することを決めた。アパートを借りようとしても障害を理由に断られることが時々あるが、公営住宅への入居が認められると、障害者の地域生活を支える住居の整備が進むだろう。国が音頭を取るだけでなく、それぞれの地域で実現していくためには県土整備部住宅課の協力が必要なのだ。

条例案

 条例案ができたのは二〇〇五年の師走だった。研究会での議論は、条例の名称、前文、目的、障害の定義、差別の定義、解決するための仕組みなどの項目別に障害福祉課の職員たちが集約し、文章にして研究会に報告した。それを研究会で一字一句チェックしながらまた議論して完成させた。 この条例案の構成は、4本の柱から成り立っている。

  • ①県民の目に「差別とは何か」を明らかにするための「なくすべき差別」の例示
  • ②実際に差別行為があった場合の「解決のための仕組み」
  • ③差別の背景にある構造的な問題に取り組む「社会の仕組み自体を変えていく取組み」
  • ④頑張っている人を応援する仕組み

 これまで「差別」の問題は、主に障害者側からみて「差別する側」「差別される側」という対立関係でとらえられがちだった。しかし、寄せられた事例を見ても、差別の多くはそれと気づかずに行われており、気づいたとしてもそれぞれの立場で容易に解決できない場合が多い。このため、「障害者の敵を懲らしめる」のではなく「理解者、味方を増やす」という考え方に立って取組みを進めることとしているのが、この条例案の大きな特徴だ。

 一つ目の柱は「なくすべき差別」の例示だ。
 障害者に対する差別の多くが、それとは気付かずに行われている実態を踏まえると、分野ごとに代表的な差別に当たる行為を例示し、県民の目に明らかにすることが重要だ。条例案は、福祉、雇用、教育など8分野にわたり差別に当たる行為を具体的に列挙した。
 これらは、いずれも「障害を理由として行われるもの」に限定される。例えば、「労働者の雇用」について、会社がその業務に必要な能力のある人を採用することは当然であり、求めた能力のない障害者を採用しないことが、そのまま「障害を理由とする差別」に当たるものではない。
 障害は様々であり、その必要とする支援も様々だ。事業者の経営状態なども個別事例ごとに多様であり、形式的に「差別」に該当する行為をすべて「なくすべき差別」と位置づけることは適切でないため、過重な負担となる場合には適用除外としている。

 二つ目の柱は、「解決のための仕組み」である。
 差別を感じた障害者は、まず、身近な①地域相談員や、②広域専門指導員(原案では「指定機関」)に相談する。広域専門指導員は、障害者側の言い分と差別をしたとされる会社等の言い分を聞いて、双方の誤解を解き、意思疎通を図る。地域レベルで解決できない案件については、県の調整委員会(原案では「障害差別解消委員会」)に持ち込まれる。ここでも、複数の委員が様々な知恵を絞って、両者の言い分を調整し、解決に向けたアドバイスを行い、それでもダメな場合は知事による勧告や、訴訟の支援などを通して解決を図ることになる。

 三つ目の柱は、「社会の仕組み自体を変える取り組み」。  差別の中には制度や習慣・慣行などが背景にあって、構造的に繰り返されるものもある。こうした構造的な問題について話し合うため、当事者、事業者、行政など関係者からなる「円卓会議」のようなものを設け、継続的に、建設的に知恵を絞ることとしている。

 四つ目の柱は、「頑張っている人を応援する仕組み」。
 障害者差別をなくしていくためには、差別があった後に解決するばかりでなく、障害者に配慮するために頑張っている人たち、例えば点字メニューを揃えたレストランをみんなで応援する仕組みも有効だ。

 罰則を設けるかどうかについては激しい議論があった。タバコのポイ捨て禁止条例のように、条例で罰則を設けている例もあるので、障害者差別についても、倫理面の啓発に止まらず罰則で取り締まるべきではないかとの考え方も根強くある。条例を運営する「調整委員会」の独立性などの議論も根強くあるが、地方自治法上の制約もあって知事の付属機関としての位置づけとなった。これらは今後の課題として千葉県以外の自治体や国が差別禁止法を制定する際に大いに議論してほしい。

議会での批判

 この障害者差別をなくすための条例案に対して、議会からは冷ややかな空気が流れていた。2006年2月議会に条例案は提出された。議員が質問に立つようになると、次第に批判の声が大きくなって行った。
 「障害児がだれでも普通学級に入ってきたら、一般の生徒の授業に支障が出るようになる」「一般社会と障害者の軋轢を強めるだけだ」「障害者に特権を与えるような条例を作るわけにはいかない」
 当時県議会の7割の議席を占めていた自民党は、堂本県政に対して「野党宣言」をしており、さまざまな批判を条例案に対して浴びせた。
 なんとか条例を正しく理解してもらおうと、私や研究会のメンバーたちはニュースレター「やっぱり必要! みんなで作ろう」を連日作ってはメールで関係者に送信した。知的障害者の親の会である育成会、自閉症協会などの父母たちは地元の議員に説明に歩き、ニュースレターを全県会議員にファクスし、千葉県政記者クラブに持参した。多くの議員からは好評で、県庁職員たちもニュースを熱心に読んでくれた。当初は土日を除く連日発行した。
 ところが、議会での批判はなかなか収まらなかった。傍聴席がガラガラだったせいもある。ちょうどそのころ、「障害者自立支援法」の勉強会には黙っていても大勢が詰め掛けてきていた。目の前の制度改革は生活に直結するために関心があるけれど、権利を守るという抽象的な取り組みはピンと来なかったのかもしれない。結局、2月議会は議論が不足しているという理由で継続審査にされてしまった。

 次の6月議会に向けて、もう一度足元を固めて態勢を立て直さなければならなかった。県庁職員たちは町村教育委員会や企業への説明に走り回った。研究会メンバーや障害児の家族らで作る育成会、自閉症協会などのメンバーは県内各地で、なぜ条例が必要なのか、どのような内容の条例なのかを説明する「勉強会」を開催した。約1か月の間に22回。200人近くが詰め掛けた会場もあれば、20人程度で閑散としていたこともあったが、どの会場も地元の県会議員や市会議員がやってきて熱心に耳を傾け、メモを取っていた。
 6月議会が始まると、多くの障害者や家族が傍聴席を埋めるようになった。しかし、一部の反対派議員と各市町村の教育委員会が批判の声を強めていった。統合教育を求める親たちと対立している市町村教委は「こんな条例ができたら大変なことになる」と騒ぎ、それに反対派議員が呼応するようにして大きな流れが出来上がっていたのである。
 成立どころか、「修正しなければ否決だ」という意見が自民党内で高まっていた。知事はなかなか修正はできない。男女共同参画条例のときには「原案を修正しなければ否決する」と迫られ、涙を飲んで修正したところ、その修正案も成立には至らなかったからである。修正したために支持者まで知事のもとを離れていってしまった。
 だから、修正したときには必ず成立させるという確約がなければ、なかなか修正には応じられなかったのだが、マスコミは知事や県の姿勢がかたくなだとして批判的に報道し始めた。

 追い詰められた堂本知事は6月議会の冒頭、「修正案を用意して9月議会に提出するので、6月議会は継続審査にしてほしい」と自民党に申し入れることになった。苦渋の判断だったが、そうしなければ否決されそうな勢いだったためだ。
 ところが、反対派議員は「2月議会であんなに議会から反対されたのに、そのときは修正しないといって、教育委員会がだめだといったら修正するのは議会軽視だ」と攻めてきた。ついには「原案を白紙撤回しなければだめだ」「こんな修正しなければいけないような欠陥条例を出してきた知事の責任を問う。不信任決議案だ」と追及してきた。
 堂本知事は自民党の政調会に自ら2度まで出て行って説得しようと努めたが、反対派は容赦なく批判を浴びせた。原案を一度撤回したら、次の議会に提出できる保障はどこにもない。進むも地獄、退くも地獄だ。がけっぷちに追い詰められた知事は最後に言った。
 「研究会の意見を聞いてからでなければ撤回することはできません」
 だれも予想もしなかった展開になった末に、条例案をどうするのかは私たちの研究会に委ねられることになった。

 研究会の委員からは「条例の灯を消さないでほしい」という意見が相次いだ。そもそもこの条例案は、差別する人と対決するのではなく、粘り強く対話を重ね、お互いの立場や価値観を認め合って折り合いを付けていこうというものだ。私たちの側にも県議会を理解しようという思いが足りなかったのではないか、議会が長年培ってきた価値観をはなから否定的に見ているだけで、歩み寄ろうという意識が足りなかったのではないかとも思えてきた。条例案の基本コンセプトを踏まえれば、ここで議会と敵対して話し合いの芽をつぶすのは自己矛盾である。
 結局、堂本知事は条例原案を撤回する選択肢をとった。政治家として顔に泥を塗られることになるが、障害者のために屈辱を味わう道を選んでくれたのだった。

成立~施行

 6月議会で、ついに条例案は撤回された。私たちにとっては大きな挫折だった。しかし、自民党が変わりだしたのはそれからだった。黙っていた良識派の議員たちが「なんとかしてやらなければならないんじゃないか」と、苦労しながら党内を説得してくれた。
 さまざまなドラマがその後も水面下で延々と繰り返された末、06年10月11日、条例は成立した。条文はずいぶんさっぱりしたものになり、ひどい差別は「公表」できるという個所は削除されたりもした。その代わりに、自民党内に多くの賛成の声が上がるようになった。また、本来ならば原案を支持してくれた他会派は、自民党の意向通りに大幅修正された条例案には納得できず、そんなものが議会に再提出されること自体、面白いわけがないのだが、悔しさを飲み込んで最後には賛成に回ってくれた。

 条例は今年7月に施行された。県庁職員たちはその間、差別解消委員会を開催し、県内各福祉県域に1人ずつ広域専門指導員を選んで委任し、数百人もの相談員の研修を行い、逐条解説を作成するなど準備を進めてきた。少しずつではあるが、さまざまな相談が寄せられている。条例ができたからといってすぐに差別がなくなるわけではない。むしろ、潜在化していた差別事例が続々と表面化して混乱する場面も出て来るだろう。
 しかし、社会的な弱者を排除しその痛みに気づかずに運営されている社会から、どんな障害者も包み込んでいく社会への変換を図るためには、この条例が大きな役割を果たすに違いない。同時代に生きる人々がお互いの違いを理解し、その違いを楽しむような寛容の精神とゆとりを社会のまん中に据えなければ、これからの成熟社会など築いていけるわけがないと思う。障害種別が違えばお互いの障害のことはあまり知らなかった障害者たちが議論を重ねて理解するようになり、あれだけ反対された議会との相互理解を進めて、この条例は成立した。そのプロセスがこれからの成熟社会を築いていく可能性を示していると私は思う。