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コミュニケーション:介護・看護職員に求められるもの

愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所
西村辨作

項目 内容
講演年月 1997年10月(愛知県心身障害者コロニー中堅職員研修にて)

人がその生きる望みを失うのは、貧困や飢えや病のためではなく、
周りの人から見放されたことを知ったときです。

マザー・テレサ


1. 人が人を介護することの意味

愛知県にはトヨタの工場がたくさんあります。その生産ラインでは工作や溶接はすべてロボットがこなし、人は計器を管理しているだけだという話を聞いたことがあります。わが国の工業生産技術は世界の最先端を走っています。しかし、コロニーの施設の中がこの自動車工場のようにオートメ化されることは決してないでしょう。

2、30年前のSF小説には、未来の食事は錠剤一粒飲めばいいということがまことしやかに描かれていました。ところが時代は決してそういう方向には進みませんでした。むしろ人々は豪華な食材のグルメを求め、鉄人の包丁さばきを愛でたのです。それはその方が人間らしく、また心豊かな生活には必須のことであったからではないでしょうか。

技術がどんなに進歩しても、人が人の世話をするということの大切さを忘れてはいけません。そのことの中にわれわれの介護や看護の仕事の特色もあります。人間にとって愛する対象や良き仲間、あるいは世話をしてくれる人の存在の大切さはいつも変わりません。むしろこの重要性は今後ますます増してくると思います。

2. 生きる力の源

1996年の秋、美智子皇后は、日本看護協会創立50周年記念式において次のようなおことばを述べられたと記されています。

「身心に痛みや傷をもつ人々、老齢により弱まった人々が、自分が置かれている状態を受け入れ、それを乗り越え、又は苦痛と共に一生を生き切ろうとするとき、医師のもつ優れた診断や医療技術と共に、患者に寄り添い、患者の中に潜む生きようとする力を引き出す看護者の力が、これまでどれだけ多くの人を支え、助けてきたことでしょう。看護の歴史は、こうした命への愛をはぐくみつつ、一人一人の看護者が、苦しむ他者に寄り添うべく、人知れず、自らの技術と、感性とを、磨き続けた歴史であったのではないかと考えております。時としては、医療がそのすべての効力を失ったあとも患者と共にあり、患者の生きる日々の体験を、意味あらしめる助けをする程の、重い使命を持つ仕事が看護職であり、当事者の強い自覚が求められる一方、社会における看護者の位置付けにも、それにふさわしい配慮が払われることが、切に望まれます。」

「患者の中に潜む生きる力」とは何であり、「それを引き出す力」とはどのようなものでしょうか。「患者の生きる日々の体験を意味あらしめる助け」とはどのようにして可能となるのでしょうか。

新潮文庫の一冊に『癌が消えた』というドキュメントがあります。自己治癒力の秘密を探ろうとした書物です。医学の専門的な視点からみれば、驚異的回復をとげた患者は例外中の例外で、特異すぎてとても参考にならないでしょう。しかし少なくともこういう例があることは、患者に希望を与えます。訳者はそのあとがきの中で次のように指摘しています。「本書の中にはもっとも大切なことが書かれている。それは自分が、かけがえのない存在であり、価値があり、尊重され、愛されているということを知ることだ」。私はこれが生きる力の源泉であり、それを引き出し意味在らしめるのは、周りの者の力だと思いました。皆さんは、その秘密が日々の介護や看護の一回一回の係わりの中に潜んでいることを、よくご存知だと思います。

私たちは介護や看護の対象となる人々に、専門的な知識と枠組みを持って係わり、技術のサービスを行います。しかしそれは、人間としての係わりの姿勢の上に成り立っているものです。その全体が「生きる力の源」を引き出すのです。私はこの係わる姿勢の内実を、コミュニケーションという側面から探ってみたいと思います。

3. コミュニケーションのしくみ

私たちはことばでコミュニケーションしていると思いがちです。たしかにことばは大切な手段です。しかし本当はことばだけで伝え合っているわけではありません。

ふたりの人が顔を合わせている場合、話す人は伝えたい考えや心持ちを言語の記号を用いてまとめ、それを口でしゃべり、同時に表情、しぐさ、視線など言葉でない信号も使って、相手に伝えます。普通の会話では六割が言語の情報で、残りの四割が表情や視線などで伝わるそうです。話の内容や二人の関わりによってこの割合は上下しますし、また伝え合う者同志の言葉の表現力や理解力によっても変わります。

伝え合う場では三種類の行動が起こります。しかもそれらは階層をなしています。まず伝え合うことを意識してその社会のことばを用いる言語の行動があります。次に、しぐさ、表情、まなざし、姿勢、声の調子などのいわゆるノンバーバルな信号があります。それは意味を伝えるために意図的に発したものではありませんが、相手はその意味をくみ取るものです。そしてその下に、この二つのカテゴリーには入らず相手には定まった意味を伝えない(伝えようをしているわけではありませんが相手が読み取る)何気ない振舞いがあります。

これら三つ、ことば、表情とまなざし、そして何気ない振舞いの中で、ことばが最も高いコミュニケーションの形として位置づけられています。そのため私たちは、ことばによってコミュニケーションしていると考えてしまいます。ところが、人間の本当の心は、実はこの階層とは逆の重みで現れるのです。

4. 共感、信頼、受容

もし、ことばが伝える内容と、視線や表情が伝えてくることが食い違っていたら、視線や表情のほうが本当の気持ちをあらわしていると私たちは捉えます。誰もがそういう感覚をもっています。もうひとつ例を挙げましょう。好きな人と一緒にいるときのことを思い起こしてください。じっと見つめ合うまなざしだけでお互いの気持ちが判ることだってあります。握った手の温もりだけで心の安らぎが伝わってくる感じがしないでしょうか。ことばはいらないと思ったことはありませんか。ことばを交わさなくてもなぜ気持ちが伝わるのでしょうか。それは二人のあいだに共感、信頼、受容という感情が行き交うからです。

「相手の気持ちが痛いほどわかる」という体験がありますか。共感といいます。「はじめて会った人なのに心の波長が合う」という感じを抱いたことがありませんか。信頼といいます。その人の成長や心の安らぎのために自分を捨て、すべてを包み込みたいという気持ちになったことはありませんか。受容といいます。このような気持ちは、ことばよりもむしろ表情やまなざし、それに何気ない振舞いやおこない、そして身体の温もりによって伝わるものです。

顔を会わせたコミュニケーションでは、人間はことばだけで考えや思いを伝え合っているわけではありません。だから、ことばをしゃべらないから、はっきり言えないから、聴かれたことに返事をしないからコミュニケーションできないと考えるのは間違っています。それはことばだけに頼り、相手の心を受け止めようとする姿勢が弱いからです。相手の心の中に入っていく「共感」する気持ち、心の疎通性をはかる「信頼」する気持ち、尽くす、支えるという「受容」する気持ちをもっと相手の人に向けてみてはどうでしょうか。相手の気持ちをもっと豊かに解釈してみてはいかがでしょうか。まだことばを喋らない赤ちゃんと母親が「会話」できる秘密はそこにあります。

5. 観察する眼と推し量る心

ことばの内容ではなく、その声の調子、表情、まなざし、そして姿勢によって、相手の心の大勢を推し量ることは誰にでもできることです。それはひとつには、誰もがその信号をとらえる共通の感覚をもっているからです。しかし、相手の心をより深く捉えるにはもう少し突っ込んだ眼が必要です。専門職としての私たちに要請されるのは、このもう一歩踏み込んだ観察する眼と推し量る感性です。

あなたの感性は何気ない日常の振舞いのなかから相手の心を推し量る力をもっているでしょうか。障害児・者はことばの表現が不得意です。しかし何も言わなくても顔の表情やしぐさから、楽しい、悲しい、恐い、やりたい、いや、びっくりした、怒りの気持ちは分かります。こうした共通感覚は障害の重い子どもも持っています。それを日頃の関わりの中で無視していることはないでしょうか。それに振舞いから心を推し量るということを怠ってはいないでしょうか。これらをうまく捉えることが関わりの出発点であり、子どもを支える基盤となります。

6. 支える人間のイメージ

ところで、相手の心を推し量るということは、自分がどの程度深く相手のことを思って関わりを持とうとしているかによって大きく変わります。先ほどの共感、信頼、受容ということに関係があります。愛情を持って関わり、尽くし、支え、理解しようという心で接する場合と、教えてやろう、憶えてほしいという押しつける気持ちで接する場合とでは、その深さが格段に違います。病気(障害)の重さや種類に関係なく、自分の心の状態を外に向かって表し、しかもそれを受け止めてほしいという気持ちは人間だれしも生まれつきそなえている強い欲求です。

ところが子どもの行動をみていると、とてもそうは見えないことが多いと思います。「呼んでも振り向かない」、「自分勝手な行動をとる」、「言葉を喋らない」ということをみていると、本当に伝えたいとか解って欲しいという気持ちがあるのか判断に迷います。しかしそんな時こそ受け止めることが大切なのです。子どもたちの心の底には受け止めてほしいという気持ちがあります。言い換えれば、介護・看護する者はそう信じて係わることです。周りから無関心でいられること、見捨てられることが誰にとっても最も恐ろしいことで、心に応えるからです。心とは反対の態度をとるというのはよく陥ってしまう人間のこころの不思議なからくりです。

子どもや相手の人の態度にかかわりなく、子どもにとって頼れる人、大切な人になってあげることが重要です。それが子どもの心にあなたへの傾きを生み出すことになります。その時には、ことばではなく、心の温もりを伝えることです。つまり愛情をもって関わり、尽くし、理解し、支えることです。子どもが、相手の人が拒否的な態度にでてきた時こそ尽くす、支えるということが一層大切になります。それはその子に対する自分の姿勢がどんな事があっても変わらないということを示すことになります。一貫して支える人間のイメージを子どものなかに創っていることになります。

7. 揺るぎない姿勢を保つ

しかしそれはなかなか難しいことです。すこし耐える心がいるかも知れません。私たちのような対人的専門職では、長期間にわたり人を援助する過程で心的エネルギーが絶えず過度に要求された結果、極度の心身の疲労や感情の枯渇がよく生じるといわれています。その結果、自分に対する卑下、仕事への嫌悪、他者への思いやりの喪失といった感情が頭をもたげます。

「リアリティ・ショック」といわれるものがあります。就職してしばらく経って職場に慣れたころ、学校で学んだ知識や枠組みが現実にはあてはまらず、ギャップに悩むことがあったと思います。がんばっているのに労力に見合った満足感が得られない、現実の重みに精神の安定が脅かされる、自分の果たしている役割に疑問を感じる、ケアが円滑に進まない、袋小路的な見方に囚われる、といったまとまりのない思いが心に重くのしかかります。これは何も現場に入った当初だけでなく、波のように繰り返し私たちに押し寄せてきます。

われわれ大人の心の中には、「基本的信頼を創る能力」「自己決定を行う能力」「積極的にことを始める能力」「新しい事態に対処する能力」「自分が何であるかを見定める能力」「他者との親密な関係を創る能力」といった精神的な能力があります。これらの能力、徳性は幼いときからの周りの人々との親密な関わりを通して形成されたものです。

われわれはときどきハートブレイクな精神的に苦しい出来事に出会います。そのような経験をいまの言葉で言えば「心的外傷」といいます。この心的外傷の体験の中身は何かといいますと、それは、自分は無力であるという打ちのめされた気持ちと、周りの者からの切り離された孤立無援の感覚です。だから心的外傷を受けた人が回復していくのは、自らの中に力がよみがえり、他者との新しい結びつきを創り直すことにあります。回復は人間関係の網の目を背景にしてはじめて起こり、孤立状態においては起こりません。心的外傷体験によって損なわれ歪められた心的能力を、他の人々との関係が新しく蘇る中で創り直していくのです。その心的能力とは、先ほどいった「基本的信頼を創る能力」「自己決定を行う能力」「積極的にことを始める能力」「新しい事態に対処する能力」などであります。その原動力は、われわれ専門職にとっても、「自分がかけがえのない存在であり、価値があり、尊重され、愛されていることを知る」ことです。この原動力はそもそもが他者との関係の中で産み出されたものですから、その再形成も、まさに他者との関係においてなされなければならないのです。

先日亡くなったマザー・テレサを追悼するテレビの番組で、次のような一文が流れました。これは「聖フランチェスコの平和の祈り」という文章の一部です。マザーの生きた姿勢を讃えて詠まれたものと思います。相手の姿勢にかかわりなく親切にしなさいといっています。

わたしが平和の道具になれますように。
憎しみには愛を、
いさかいには赦しを、
分裂には一致を、
疑いには信じることを、
誤りには真理を、
絶望には希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものにさせてください。
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを、
わたしが求めますように。


文献情報

講演者:西村辨作
題目:コミュニケーション:介護・看護職員に求められるもの
講演年月:1997年10月(愛知県心身障害者コロニー中堅職員研修にて)

文献に関する問い合わせ先:
愛知県春日井市神屋町713-8
愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所治療学部
西村辨作
TEL:0568-88-0811