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ソーシャルワークの社会学-実践理論の構築を目指して-

加茂 陽

項目 内容
発表年月日 1996年9月20日
備考 発行者 世界思想社

1 新たなソーシャルワークの潮流

 本著は社会学的理論枠、特に社会的構成主義の視点より、ソーシャルワーク理論の構築を目指したものである。
 北米のソーシャルワークの理論家たちは、一九六〇年代はじめより、心理還元主義を脱却し、システムズ理論やサイバネティックスの思想を土台にして、新たに援助体系を組み替えることの重要性を強調し始めた。もちろんそれらの臨床活動への導入は、それらが有する理論的厳密性を犠牲にして、ひとつのアイデアないしはメタファーという水準で試みられたものであった。それにもかかわらず、いくつかの援助の理論体系は、その体系は数学的厳密性による裏付けを欠いていたが、一定程度の概念相互の力動的結合性や操作性を有しており、それらは新たな援助活動の地平を切り開いた(1)。ところが、1970年代後半より、科学理論のパラダイム論争の影響を受けて、ソーシャルワークにおいても理論の超越的、普遍的正当性という発想が批判され始める。例えぱ、システム的家族理論に関して言うならぱ、家族構造の病態化の客観的定義という伝統的援助理論において共有されている了解は、実は理念型としての核家族の構造を普遍的であると仮定しなけれぱ成立しないはずであり(2)、それ以外の家族形態を基に、正常異常を考寮するならば、 異なる理論が形成されるはずであると、理論形成がその文脈と離れては成立しないことが議論され出す。つまり、社会的構成主義的な発想が浮上してくる。これは新しい理論の潮流である。
 しからぱ、社会的構成主義よりの視点とはいかなるものであろうか。この思想体系を略述する前に、まずは本著での理論構築の基本的視座を整理しておこう。

2 墓本的視点

 ソーシャルワークにおいては、これまでその理論体系では、用いる概念定義が不鮮明で、概念結合の様態も混乱しており、また概念の背後にあるメタレベルでの理論的諸前提の矛盾への自覚が低いことが指摘され、さらに、実践レベルでは概念定義の操作性の水準が低いと、要するに臨床科学としてそれが成立するためにはいくつかの根本的欠陥を持つことが、ソーシャルワークの理論家たちによって一貫して議論されてきた。これらの指摘は正当なものであり、システムズ理論の導入の試みは、そのような批判を受け止め、無原則な折衷主義を認識論のレベルにおいて、さらに介入理論のレベルにおいても乗り越え、ソーシャルワークの体系化を目指そうとするものであった(3)
 他方、システムズ理諭の体系性や状況への統合的把握カに魅せられ、それに依拠しソーシャルワークの科学的構築を試みようとしたグルーブとは相異なる視点より、その科学性を実現しようとする理論家たちが存した。彼らは、状況の統合的把握よりも、厳密な仮説形成とその明確な検証でもって、すなわち論理経験主義的方向にソーシャルワークを整備していくべきだと主張し、無原則な折衷主義が横行する中で彼らのこのような発言には説得力があった。それらの中で、ハドソンは次のごとく有名になった発言をする。「クライアントの問題を測定できなけれぱ、それは存在しない」、「クライアントの間題を測定できなけれぱ、それを取り扱うことはできない」。(4)
 ところが、このような臨床科学としての成立の条件を満たしていこうとする作業が十分徹底しないうちに、科学的な理論構成は、ある前提を抜きにしては成立しないことを強調する、それゆえ、理論は検証によって正しさが証明されることはないと論じる、社会的構成主義と呼ぱれる、ポストモダニズムの思想の中に位置づけられる理論が、ソーシャルワークの論争の中に入り込み、論争は、心理還元主義対システムズ理論という対立を通り越し、論理経験主義対構成主義という様相が色濃くなっていった(5)
 ソーシャルワークの道徳理論や社会理論を社会的構成主義的視点より再構成し、そしてその実践的可能性をも追求しようとするのが、本著の目的である。しかし、この発想や理論枠を無批判に受け入れるのが本著での立場ではない。つまり、社会的構成主義者と自らを呼ぷ理論家たちは、科学理論のバラダイムの多様性を主張し、それ自体は臨床レベルでは一定の厳密性を実現するにもかかわらず、彼らが古典的だと考える実証主義的発想や直線的因果論を簡単に放棄して、例えぱ、アサートンのように「ファジー理論」を用いて臨床にあたるとか、「カオス理論」が新たなパラダイムになるなどと、あまりにも単純にソーシャルワークヘの現代科学の最前線の理論導入の可能性を議論し始めるのを目にすると(6)、彼らは、はたして彼らが時代遅れとして批判する、厳密な仮説形成そしてその検証という科学方法諭を、比喩としてではなく、論理的厳密性を有する科学方法論として理解していたのか否かを疑問視せざるをえなくなる。言うまでもなく、「ファジー理論」や「カオス理論」の概念構成は、彼らが論理の正当性を決定する基準としては拒否する数学的厳密性に裏付け られたものである。当然のことながら、いかなる科学理論も形式的論理的厳密性を放棄することはできない。
 確かに以下の内容では、社会的構成主義の立場から議論を進めていくが、その立場は論理構成と経験主義的な手法を否定するものではない。概念にできる根り厳密な定義を施し、そして現実を対象としてそれの説明力を測定する行為を援助活動の中で取り除くことはできないはずである。しかし、同時に、概念やその結合体は論理的な作業のみではなく、あるメタレベルでの前提を基礎にして成立していることも認められなければならないであろう。これら二つの立場は確かに原理的には矛盾する。しかしそのことを了解した上で、両者を認めなけれぱならないのが、目下の社会科学の方法論の論争の到達点であろう(7)
 近年の家族研究の著作の中で、ボスらは今日のポスト実証主義の時代での科学方法論の混乱を次のように述べる。
  様々な種類の理論を受容するという90年代の一つの結論は、家族の分野や社会科学一般領域での、理論の性能を評価する方法には一致点が   ないということである。理論の評価は、抽象性、普遍性、客観性、そして経験的立証を基準として採用する、実証主義的視点から試みるとそれはよ  り容易である。今日のポスト実証主義の雰囲気下では、家族の研究者たちはある理論の評価を決定するためにいかなる基準を用いることができ  るのであろうか(8)
 そして彼は我々が取るべき態度を次のような巧みな比喩で表現する。
  家族研究において現代挑戦されていることは、我々について我々が発言していることと、我我が研究している家族にっいて我々が発言していることを区分するため一層批判的内省的であらねばならないということである。そのことは、ツーウェイ・ミラーで家族を見ることにたとえられよう。家族の側が点灯されたならば、ガラスを通して家族を見ることができる。治療者のほうで点灯されれば、鏡に映る我々とその周囲を見ることができる。そして私たちは家族とそのコミュニティから観察可能となる。将来我々はスイッチの切り替えに一層上達しなけれぱならない(9)
 ここでは、これまでの実証主義的手法の遣産を受け継ぎつつ、その成立の文脈についても同時に自覚的であることが強調されているのである。
 以下では、本論においては、動的現実の説明力を有するために、社会的構成主義的説明法を現象説明の体系として用いるが、形式論理や実証を否定する立場には依拠しないことをあらかじめ述べておきたい。

3 社会的構成主義について

 以下の章では、社会的構成主義の臨床的有用性について細かい理論上の吟昧が加えられていくが、本節ではまず社会的構成主義の概略を示しておきたい。
 社会的構成主義は通常実証主義的科学観に対抗的な科学観として論じられる、その恩想の旗手の一人であるガーゲンの社会的構成主義についての説明を要約してみよう(10)
 第一の特徴は、それが、仮説を作りそれを検証する帰納的方法が現実を客観的に把握すると見なす立場を批判する点である。社会的構成主義は、「まず、科学であろうと日常生活であろうと、自明だと考えられている世界に根底的な疑問を発し、特有の形態でもって、社会批判のひとつの源泉として作用する(11)」ものであると、彼はその基本的立場を明示する。さらに、彼は、カテゴリーを観察によって帰納的に作り出すと言っても、観察データを確認する作業はカテゴリー抜きにはできないと見なし、構成主義は、「共通に受け入れられているカテゴリーや解釈方法は、観察によって正当性が保障されるとする信念を、一時的に放棄するよう問いかける(12)」と論じる。
 第二の社会的構成主義の理論構成上の特性は、それが科学用語であっても日常の用語であっても、世界を理解する用語が、社会的な文脈において構成された人工的産物であると考えることである。つまり、理解のために用いる用語は「相互に関係する人間の主体的、共同的作業の結果生じる(13)」と見なされる。
 さらに、第三は世界解釈の一般化、定着化のプロセスに関することで、世界解釈の体系は検証によって正当性が保障され、一般化するとする前提が否定され、対人間で相互調整的にそれは生成すると考えられる。ガーゲンはこの点を次のように表現する。「ある形の理解方法が広がり、ある時代を通して維持されていく程度は、考察対象であるこの視点の経験的妥当性に直接依拠するのではなく、(コミュニケイシヨン、交渉、葛藤、レトリック等の)社会過程の展開によるのである(14)」。
 第四は、合意された理解が有する認識や行為の生成力についてである。ガーゲンはこう述べる。「合意を得た理解の形態がいかなるものであるのかということは、社会生活で重要な意味を持つ。それらは、人々が従事する他の諸活動と統合的に結び付けられるからである(15)。」つまり、例えぱ、これは、ある人の行為を、精神障害の症状として理解する認識方法が支配的になるのか、あるいは、自らが選択した主体的行為であるとして構成し、認識する方法が共有される認識の基準となるかの違いによって、主体間で相異なる相互作用を引き出すことになるということである。
 このような社会的構成主義は、ソーシャルワークの理論やその検証法を巡る、1970年代から現代まで繰り広げられている、一連のソーシャルワーク方法論論争において実証主義を批判する理論家たちの理論的支柱となるものであった。
 一方、ソーシャルワークの領域においては、1982年、ハドソンは科学の目標を次のように述べる。「科学の基本的目標は、現実世界がどのように展開しているのかについての命題的言明を作り出し、それらの言明を、体系だった観察や観察可能な実在物を用いた実験にかけ、それらの言明の正当性を検証するところにある(16)」。これは明確に実証主義の視点を打ち出した立場である。
 これに対して、ハイネマン・ピーパーは実証主義の立場に次のように反論を加える(17)。それを要約してみよう。
 1、統制的な実験法下では非現実的環境が作られ、そこでは、現実に即した援助ではなく、方法論に従属した援助しかできなくなること。
 2、あらゆる観察はバイアスを有し、臨床家は中立的な観察者となることはできないこと。
 3、複雑な現象を単純な変数に選元して説明することは間題解決から遠ざかることになること。
 4、普遍的な法則を求めるよりも、状況より生じる知識に焦点を合わせることのほうが、生産的であること。
 5、統計的検定法や実験計画法は調査者の既存の理解方法を取り除いたり、置き換えたりすることはできないこと。
 6、価値判断から自由な観察やデータは存在しないこと。
 これらの主張は、先のガーゲンの主張と同一の社会的構成主義的なものである。
 ソーシャルワークの理論化やその検証についての論争を具体的援助活動に置き換えて言うならば、ハイネマンの攻撃の標的は、介入対象を明示し、効果測定の検証を重視する single-system design であった(18)。社会的構成主義的治療援助法を徹底させれぱ、治療者の治療行為は、クライアントのメッセージに問題として見なされる何か本質的な意昧を探す行為を放棄し、そして、治療者対被治療者という権威構造から成る伝統的治療行為も断念し、援助場面で、クライアントと相互に新たな、有意義な状況を構築することを目指す共同作業の時点にまで行き着く(19)
 ソーシャルワークにおける実証主義的援助法対構成主義的援助法という方法論上の分裂は未だ解消しておらず、先のアサートンの論文はその例である。彼は、社会的構成主義を支持し、ハドソンらの経験主義を疑似宗教的次元にまで祭り上げられたものとして批判する、幾分感情的な論文(20)を発表する。ただしそこでは、実証主義的発想を論破しようとするあまり、純化された科学的言語を機械論的だと批判し、他方「カオス理論」の応用可能性を強調するなどと、諭理的とは言えない強引な結論が出されている(「カオス理論」は厳密な理論体系である)。この立場を強気の構成主義と呼ぶことができよう。
 もちろん構成主義者が主張するように、援助者もクライアントもある前提に依拠し、認識、行為を選択するという、援助場面での認識活動の構造の生成的特徴は本質的なものであって、ゆえに実践臨床科学が認識方法論として日常の認識行為よりも質的に優位であるとは言えない。言い換えると、それ自体正当性が証明不可能な、かつ変容する前提の上に、現実を生成させるという意味において、日常生活での現実生成のメカニズムと科学的手法で現実を生起させるメカニズムとは構造的には同型であって、片方が優位な特権的説明力を有するとは考えられない。しかし、本論では構成主義に依拠しつつも、単純に実証主義を否定するこのような立場を支持することはない。
 むろん、援助場面に関与する際に、ある水準の厳密性を有する仮説によって状況を分析し介入してい<作業は、クライアントのみならずワーカーも認識や行為選択の前提に依拠し、相互的に状況へ関与する作業によってしか展開しない。しかし、この構造は、先の比楡を用いて表現すれば、分析のための変数を厳密に定義し、因果枠に基づいて対象の特性を仮説的に構成し、そして評定し介入する援助者の作業に焦点を合わせると、つまりクライアントの部屋を点灯すると、論理、検証の世界が開けるが、援助者の部屋に点灯し、それを生成させているコンテキストに焦点化するならぱ、構成主義的世界像が浮かび上がるのであり、いずれの世界もスイッチの切り替えで生起する構造である。
 科学理論論争での視座をこのように定めて、以下では、スイッチを援助者の部屋に入れ、この人間相互間で生成する現実過程という構成主義的アイデアに着目して、ソーシャルワークの基礎理論や技法的応用理論の体系化を目指してみたい。

(1) ハルトマンは、家族とその背景を介入対象と定め、そこへの介入理論の体系化を試みた。この文献については A. Hartman and J. laird, (1983). Family-centered social work practice. The Free Press. 参照のこと。これは、システム的臨床モデルの名著である。しかしながら、それは、自ら重要性を強調する家族の背景、文脈の理論化の水準が低く、臨床家にこれからの課題を残したと言えよう。臨床活動にシステムズ理論を最も巧妙に導入し、発展させたのはシステム的家族療法である。ソーシャルワークヘのシステムズ理論の導入は、それに比して、理論の洗練度において劣る。これは、ソーシャルワークの介入対象が、家族とその背景という広汎な領域であるため、家族療法より借用した、家族を分析するシステム的概念を直接家族の背景の分析に用いるわけにいかず、また手持ちの家族の背景システム分析理論の水準は低いため、体系化が困難であったという事情によるのかもしれない。しかしながら、コパースミスの家族システムとその背景のシステムとの結合の様態を評定し、介入を加える家族療法のフレイムを目にすると、必ずしも、ソーシャルワークの介入領域の特性が、自らの理論化を困難にしているとも言い切れない。E. I. Coppersmith, The family and public service systems: An assessment method. In B. P. Keeney (ed.), (1983). Diagnosis and assessment in family therapy. An Aspen Publication.
(2) 伝統的な家族療法の理論が、核家族の伝統的な夫婦の役割や親子の役割を自明のものとし、家族はジェンダーを軸にした権力構造の不平等な配分から成り立っている事実を無視し、現代の家族を成立させている政治経済的文脈に目を向けないという批判が、フェミニストによって投げかけられた。ここでは、間接的に、パーソンズの、道具的優位の父親対劣位の息子、表出的に優位の母親対劣位の娘という、現代核家族の構造モデルの普遍性の主張が批判されている。パーソンズたちの核家族での社会化モデルは、T. Parsons and R. F. Bales, (1955). Family, socialization and interaction process. The Free Press. また民族ごとに家族の価値や規範が異なるという反論も加えられ、伝統的な家族療法が想定する家族モデルは一定のイデオロギーに基づいていることが明らかにされた。この点についての議論は、W. J. Doherty and D. A. Baptiste, Jr, Theories emerging from family thrapy. In P. G. Boss, W. J. Doherty, R. LaRossa, W. R. Schumm and S. K. Steinmetz (eds.), (1993). Sourcebook of family theories and methods: A contextual approach. Plenum Press. 米国統計(1990)が示すデータでは、学齢児の母親の七〇%以上が就労している。また米国では離婚率は五〇%の横ぱい状況で、2000年代には再婚家族が最大多数となり、また、四人に一人の子供が未婚の母親から出生している状況では、いかなる形態の家族が正常であるのかを決定することは困難になってきている。F. Walsh, Conceptualization of normal family process. In F. Walsh (ed.), (1993). Normal family processes, second edition. Guilford Press. の議論を見よ。
(3) 当初、ソーシャルワークにシステムズ理論を導入する際、それによって認識論的レベルおよび実践的理論レベルを統合化しようとする立場と、既成の諸援助理論の整理のための理論としてそれを位置づける折衷主議的手法とがあり、必ずしも導入方法は一通りではなかった。この点については、拙論「エコンシステムズ・アプローチと家族中心のソーシャルワーク」『広島女子大学文学部紀要』 第二二号(一九八六年二号)にて論じている。
(4) W. W. Hudson, (1978). First axioms of treatment. Social Work, 23, pp. 65-66.
(5) 例えば、構成主義的立場からの主張として、M. B. Heineman, (1981). The obsolete scientific imperative in social work research. Social Service Review, 55, pp. 246-258.
(6) C. R. Atherton, (1993). Empiricists versus social constructionists: Time of a case-fire. Families in society: The Journal of Contemporary Human Services, 4, pp. 617-624.
(7) 編集者の立場としてハルトマンはハドソン、ハイネマン等のソーシャルワークの知識やその検証方法の論争に、知識の多様性とその文脈規定性を強調することで一定の妥協的結論を出した。 A. Hartman, (1989). Many ways of knowing. Social Work, 35, pp. 3-4.
(8) P. G. Boss, W. J. Doherty, R. LaRossa, W. R. Schumm and S. K. Steinmetz, (1993). Family theories and methods: A contextual approach. In Sourcebook of family thoeries and methods: A contextual approach, p.24.
(9) ibid., p. 27.
(10) K. J. Gergen, The social constructionist inquiry: Context and implications. In K. J. Gergen and K. E. Davis (eds.), (1985). The social construction of the person. New York: Springer-Verlag.
(11) ibid., p.4.
(12) ibid., p.4.
(13) ibid., p.5.
(14) ibid., p.6.
(15) ibid., p.7.
(16) W. W. Hudson, (1982). Scientific imperatives in social work research and practice, p. 256.
(17) M. Heineman Pieper, (1985). The future of social work research. Social Work Rrearch and Abstract, 21, p. 4.
(18) J. Fischer and W. W. Hudson, Measurement of client problems for improved practice. In A. Rosenbllat and D. Wldfogel (eds.), (1983). Handbook of clinical social work. San Francisco: Jossy Bass Publishers.
(19) その例として、例えば、L. Hoffman, A. reflexive stance for family therapy. In S. Mc Namee and K. J. Gergen (eds.), (1992). Therapy as social construction. London: Sage.
(20) Atherton, op. cit.


主題:
ソーシャルワークの社会学 -実践理論の構築を目指して-

著者名:加茂 陽

発行者:
世界思想社

発行年月日:
1996年 9月20日