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ヒューマンサービス論-その社会理論の批判的吟味-

加茂 陽

項目 内容
発表年月日 1998年1月10日
備考 発行者 世界思想社

 90年代、心理還元主義的ソーシャルワークにシステム的な視点より批判を試みる作業はもはや色あせ、それが論理経験主義的なものであるにせよ、あるいはシステム的なものであっても、一連の介入対象に実在論的な発想で関与する一連の援助モデルに対して、そのような発想の根拠を問いただすことで批判を加え、さらに新たなモデルの構築を追求するポストモダニズムの思想に強い影響を受けた方法論が専門誌を賑わせるようになった。この小論においては、現代のソーシャルワークが、真理概念の存在やその検証法の正当性の根拠に対して懐疑的な立場をとるポストモダニズムの思想、とりわけ社会構成主義の影響下で、いかに自らの実践的体系を構築してきたのかを概略してみたい。さらに、その新たな体系が内包する論理構成上の基本的難点についても少し議論し、新たな方法論構成の見通しをつけてみたい。

1 心理還元主義からシステムズ理論へ

 60年代からのソーシャルワーク理論や技法群の変遷を、考察単位としての人の内面の消滅、そしてシステムズ理論の浸透という、存在論的軸から分析することができるであろう。多くの読者にとっては不必要であろうが、議論の中心に入る前に、予備知識としてまずは一つの心理還元主義的な援助方法のアウトラインを提示しておきたい。ここではエリクソニアンの実践者の介入の指針を示しておこう(1)。エリクソンの立場に依拠する援助者は次の事柄を要請される。
 ・クライアントは生涯にわたるバーソナリティ発達の過程を歩んでおり、そのなかで援助者は発達を増大させる助けになれることを理解すること。
 ・クライアントに対して自己分析にあたらせること。それは発達的な生活史を作り出すことになる。
 ・クライアントの心理社会的危機の解決を試みる際に、彼(彼女)にとって相対的に成功した点や問題点をはっきりと理解させること。
 ・クライアントの現実歪曲や自我機能の低下につながる発達の諸領域を明らかにすること。
 ・クライアントの発達や生活史の混乱を解釈すること。援助者の解釈をクライアントが承認できるか否かをクライアントに対して確かめること。
 ・未解決の標準的な危機やそれが生活史に対して持つ意味に対してクライアントの洞察や理解を広げること。
 ・クライアントが環境に対して一層効果的に対処できるよう、自我の強い側面を用いる方法を見いだすこと。現実への対応戦略がいかなる手法によれぱ具体化可能であるのかを探求すること。
 ・様々な社会機関がいかに、どのような方法でクライアントの心理社会的福祉を支え、あるいはそれに失敗しているのかを明確にすること。
 ・クライアントヘの社会的支えを向上させる手段を求めること。
 ・自らの社会環境内での場面に対してのクライアントの新たな志向性の発達を増大させること。
 その他の心理還元主義的なロジャース流の非指示的カウンセリングや対象関係論等の精神内界を重視する理論に比して、対人的側面が強く出るエリクソニアンの介入方法においてさえも、介入の焦点は、一定の段階を辿って発達するパーソナリティであることが上記の指針より理解されるであろう。
 60年代に入ると、エリクソニアンの発達段階において予定されているライフサイクルやその過程で形成される自我という概念が揺らぎだし、それゆえ健康や病理の実在も曖昧になり、そして次第に介入の理論的根拠が揺らぎ始める。本格的な議論はここから始まる。
 1950年代から60年代において、心理還元主義を乗り越え、クライアントの問題をより広い文脈のなかで捉えようとするソーシャルワーカーの基本的方法論上の視点を実現する思想体系として、GST(General Systems Theory)、サイバネティツクスやエコロジーの諸概念への関心がソーシャルワーカーたちには深まり、60年代後半より70年代にかけて、例えぱ、ジャーメインの生命体と環境との適合的な調和を追求するような(2)、いくつかの巨視的援助モデルが出現する。また同じく、60年代後半より、ベイトソンの理論に強い影響を受け、サイバネティックスの諸概念をコミュニケイションの評定や治療に応用した理論体系(3)や、70年代において、システム的な色合いの濃い家族療法理論が数多く出現するなかで(例えば、構造の概念により治療法を体系化したミニューチンあるいはクライアントの変容の戦略技法の体系化を目指したヘイリー(4))、それらの理論や技法群がソーシャルワークのなかに取り入れられ、介入の中核としての家族システムブラス背景の諸システムというフレイムヘと、アブローチの領域が再設定され、家族中心のソーシャルワーク実践モデルが出現する(5)。これは「家族中心のソーシャルワークモデル」として体系化される(6)
 これらシステム的、そしてエコロジカルな諸アプローチは、問題の所在や介入の焦点を対人的、そして人と環境との相互作用の場面に定める点において、従来のモデル、とりわけ精神力動論に基礎を置くモデルとは理論や技法群において根本的に異なるものであった。
 ところが、これらのアブローチはいずれも、人とその文脈群やあるいは家族プラスアルファと介入の対象の範囲の差はあっても、認識者ないしは治療者とは切り離された客観的に存在する対象域を想定し、サイバネティックな概念で語られるその領域の動的メカニズムの実証的解明の可能性を前提にしたものである。80年代後半から90年代初頭にかけて、論理的、経験主義的科学が成立するための基本的前提である、普遍的に妥当する法則の実在やそれを客観的に認識でき超越的主観の存在に疑義を唱える、ポストモダニズムの思想家たちの発想、その典型としてはフーコーの科学的な知識と権力の関連性の分析(7)に影響を受け(8)、また自らの臨床活動を通して(9)、家族療法には非治療的、非権威主義的、ポストモダニズムのモデルが増殖していく。治療関係について言えば、認識行為においてクライアントよりも上位に位置するがゆえに治療力を持つ援助者という発想が放棄されなければならないと、認識論の次元から、権力差を前提とした治療関係の再検討の必要性が唱えられるようになる。ここでは治療者の知 識に科学的真理を読み込むことは断念され、そのような知識体系は権力構造の差異を不可欠の要件とする治療関係を正当化する力として分析される。そして、家族プラス背景のシステムに関与を試みるソーシャルワークもこの方法論争の渦中に巻き込まれることになる。
 ところで、最初のソーシャルワークにおける真理の実在性やその客観的検証法に対する問題提起は、健全な家族の構造や機能を前提としたり、そこにサイバネティックな循環的システムズモデルを導入して状況を説明したりして、認識対象の分析に比重を置きすぎた先の一連の家族療法モデルヘの批判が目立ちだしたころより少し遡り、また、その標的も別のところにあった。それは、1980年代初期の行動主義的ソーシャルワークモデルが援助方法論成立の重要な条件として強調する、データの客観性や観察の中立性という前提に対するハイネマンの科学の認識諭的レベルからの反論より開始すると言えるであろう(10)。そこでの議論を要約してみよう。

2 経験主義的なソーシャルワークモデルヘの批判

 1970年代までは、ほとんどのソーシャルワークアプローチは、程度の差こそあれ、理論の現実に対する説明力や予測力、そしてその検証可能性を自らの科学としての成立に必要な規範として受け入れていたと言えよう。
 ソーシャルワークを学ぶ者にとっての古典あるいは必読書とも考えられる文献において、編集者であるターナーは、彼自身は概念の操作的定義や数量化に重きを置く行動療法的臨床家ではなく、自我心理学に影響を受けており、また援助活動を直接的に理論体系より導き出す可能性について懐疑的であるにもかかわらず、以下のようにソーシャルワークの援助理論の成立条件を実証的視点より位置づける。
 「理論の最も本質的かつ重要な貢献は、結果を予測する能力、言い換えるとその説明力にある。状況の評定に基づき、意図的に処遇計画を作り出す治療者は、理論形成や理論の検証活動に組み入れられるのである(11)」。
 この時点では、彼は、厳密な理論によって一つの援助体系を作り出す作業の実現性には否定的で、彼の主たる方法論上の関心は、理論的な背景が異なり、また各々は理論から直接引き出せない技能(Art)的要素を含む諸援助アプローチの緩やかな結合可能性を模索することにあった(12)。しかしながら、彼は、他方では、理論が検証されるならばそれは実在する真理となるというような伝統的理論観に囚われていた。 厳密な仮説の定義と客観的なその検証法を最も強気に主張したソーシャルワーカーたちの一人はハドソンである。彼はソーシャルワークの理論化のための不可欠な方法論上の第一条件として、後々論争の種となる次の事柄を宣言する(13)
 第一の命題:クライァントの問題を測定できなければ、それは存在しない。
 第二の命題:これは第一の命題より導出されるもので、もしクライアントの問題を測定できなければ、それを処遇することはできない。
 この宣言が提唱する援助モデルの手法は、基本的には、間題の明確な定義、それに続くベイスラインにおける測定行為、そして明確に定義された(多くの場合は行動主義的な)介入技法による具体的な介入行為、さらに、統計的に決定される介入前後での問題あるいは望ましい行動の出現頻度の差異の有意性の検定という一連の手順から構成されるシングル・ケースリサーチ(あるいはN=1デザイン)である(14)。その具体例を示してみよう(15)
 ハイネマンは、1981年の論文において、科学理論は一種の問題解決の手法、比喩的に言えば、チェスゲームでの次に打つことができる可能性のなかの一手のようなもので、いかなる特定の方法論にも認識論的特権は認められず(つまり、いくつかの次の一手のうちどれがベストかは先験的、論理的には決定できない)、それゆえ問題の解法は多面的で、解は近似値的なものであると見なす、すなわちヒュアリスティックな視点より科学の成立条件(あるいはパラダイム)を設定することの重要性を論じた。その立場から、ハイネマンは、観察と論理的操作が結びつけられるとそれは科学的真理の条件を具える(言い換えると、詮理操作が何を具体的に指し示すのかが明示できなけれぱ、それは科学的な理論体系とは見なされない)と考える操作的定義や、初期条件XでYが生じることが確認されたならば、Xが存在すれば、Yが必ず生じるとする説明と予測とを同一だと考えるシンメトリックテーゼ、そして、科学的行為としての仮説群への検証作業という、彼女が論理経験主義の特徴として列挙する項目に対して、それは同時に上記の経験主義的ソーシャルワークモデルに対してでもあるが、ラディカルな批 判を加えた(16)。 これに対しハイネマンが論理経験主義者たちとしてラベルを貼る陣営は(先のハドソンは強力な前衛であった)、ハイネマンの論理経験主義者としてのソーシャルワーカーというラベル貼りの不当性を指摘し(なぜなら彼女が論理経験主義的と想定するソーシャルワーカーの誰も超越的真理を信じてはいないので)、プラトン的な意昧での超越的真理概念の存在はむろん否定されるが、データの体系的な観察法を否定すること、つまり経験主義を否定することは、魔術の応用のソーシャルワークになり下がることであると(17)、経験主義の擁護の立場から激しい反撃を開始する。
 この後、ハイネマンを支持する側から、立て続けに彼女が諭理経験主義的ソーシャルワークの理論家と呼ぶ側への批判論文が出され、彼女もこのハドソンたちの反撃に、1985年の論文においてすぐさま一層強い口調で対抗する。先のハドソンの宣言を典型とする経験主義的科学観を唱える主張を、ユートピア的で、客観性という幻想に囚われ、観察のバイアスを認めない、疑似科学だと強く非難する(18)
 その後、経験主義へのそのような問題提起は社会構成主義を信奉する理論家たちによって受け継がれていく。
 例えば、文脈を排除した直接観察によって得られた世界解釈法には正当性のお墨付きは与えられず、文化的、歴史的に意味づけられた条件下での相互作用の過程を通して解釈法は形成され、また社会解釈の体系はある解釈のパターンを抑制し、他のパターンを強化することで、人々の社会生活の意味づけ方にとって実質的な重要性を持つに至るとして、つまり一連の社会構成主義の基本的前提群に従い、ウィトキンとゴットシャークらは、それら科学的理論体系やその援助法は、クライアントを、単純な因果関係が通用する孤立化した状況に閉じこめる、人間コントロールの実験法だと、批判する(19)
 結局これらのソーシャルワークの科学性をめぐる論争においては、メタ理論レベルでのやりとりはあっても、社会構成主義者の側からは明確な具体的援助の体系が提出されないままで決着がつかず、1990年、Social Work の編集者であるハートマンは、和解を図るため次の妥協的な意見でもって締めくくろうとする。
 「理論の体系化には実際多くの方法があり、また理論家も多様である……いかなる単独の理論の体系もこのように広大で、多様な領域を説明し尽くすことはできない(20)」。むろんこの妥協の呼びかけでこのように紛糾した事態が収まるわけはなかった。この流れは我が国のソーシャルワークの理論家から見れば予想もつかないほどの激しい対立的論争の繰り返しであった。

3 社会構成主義的ソーシャルワークモデルの登場

 システムズ理論の導入は家族療法理論より多大な影響を受けたためであったように、ソーシャルワークモデルの社会構成主義的な体系化は、家族療法理論の脱モダニズム的な志向性と深く関連している。
 ここで社会構成主義的家族療法モデルの成立過程を略述してみよう。
 トムは、ベイトソンの循環的認識論(21)を基にして、つまり、精神過程を情報処理のサイバネティックなフィードバックメカニズムとして捉える発想に従い、システム的な家族療法のなかにサーキュラーな面接法を体系化する(22)
 この質問法の最も基本的な特徴は、思考、感情、行為、人間関係等の相互的結合性を説明しようとするものである。さらに、彼は同じくベイトソンの精神システムは差異によって活性化されるという認識論に依拠し、循環的質問に対して、相互作用の過程に新たな情報=差異を投入し、変化の引き金を引く機能を持たせる。
 この質問法は行動や認識の文脈に焦点を合わせ差異を発生させようとも企てる。この側面は、情報環流システム内で流通するメッセージの解釈やその伝達方法の重層的文脈構造を定式化したクロネンとペアスのCMM理論(Coordinated Management of Meaning 「意味の調整的処理(23)」理論)に裏づけられたものである。
 最後に、この質問法は、客観的な基準を基に、何か具体的解決法を知るための質問法というよリも、家族の成員とともに次のステップヘ進むことを意図した質問法である。ここでは、認識主体から原理的に区分される客観的世界の不在とその認識の不可能性が前提にされている。あるいは「サイバネティックスのサイバネティックス(24)」が前提とされ、治療者は家族のシステムの力動性に関与する自分自身の動きを考慮に入れ、家族の成員とともに変化法を模索していくことが、そこでは要請されている。
 トムは、客観的に存在する病理や症状を正常に回復させる治療というモダニスティックなメディカルモデルの治療観の根底を揺るがす、新たな援助法を体系化したと評価されなければならないであろう。
 ところが、主としてベイトソンの認識論(それは情報環流システムを説明しているという意味では、存在論でもあるが)が抱える難点が同時に彼のモデルの難点となり、後にそれらがラディカルな社会構成主義的療法家の批判点となる。彼(彼女)たちから見ると、トムのモデルは、そして80年代のシステミックな家族療法家のモデルも同様に、不徹底な社会構成主義モデルであったのである。
 一つの批判点はフラスカスやパレが指摘する(25)権力構造を消滅させてしまう循環的因果論についてである。ベイトソンの認識論は権力の実体化を排除した(26)。彼の理論に従い、例えぱ、あえてラベルを貼って呼ぷと、ひどい虐待を受けている子どもと虐待を加えている親との間には、その関係を強化するメッセージが相互に伝達され、解釈されるパターンが存するのみであると仮定してみよう。このように、権カ構造を排除して循環的に状況を定義するならぱ、「私の考えは理屈にあっていて、また証拠もこのように存し、正しい」と、権カが上位の者が、他者の異質な現実構成を無力化して、彼(彼女)の間題定義を中心として関係性を意味づけ、真理であるとして構成する、「支配的家族生活のストーリ(27)」の生産的力が見逃されることになる。ここでの問題の特性は、知識プラス権力によって、正確には現実構成力を持つ知識が権力として作動することによって、定義され具現化された問題で、システム内で自他の関係性を自明のものとして構成し、例えば非難の対象等の役柄を設定する定義でもある。権 力が自らのストーリーを真理であるとして生活の隅々にまで浸透させていくという発想は、言うまでもなく、フーコーの、近代の社会シスム内で、知識体系が自他の関係性を自発的に内面化させることで、支配力を浸透させ、権力とて作用するという、知識/権カの分析に強く影響されているものである(28)
 もちろん、パレたちがベイトソンのエコロジカルな精神概念が権カの意味合いを排除していると指摘することは、コミュニケイションの過程が、ある言説が支配カを獲得しようとする戦略的な過程であるという事実をベイトソンが見逃しているという点に関しては正当性を有する。しかし、サイバネティツクな言説でもって現実の定位づけを試みるという側面においては、ベイトソンの精神概念は権力としての言説を基礎にして成り立っているとも言える。パレたちは言説すなわち権力と見なし、科学的な言説とコ、ミュニケイションの場において自他の定位づけを生成させる言説との分析手続き上での区分に自覚的でなかったことは前もって述べておきたい。
 第二の難点は彼(彼女)たちの認識や行為選択の文脈概念の狭さについてである。つまり、家族システムの変動を作り出す差異を、トムは認識や行為選択の文脈を議論し合うことによって作り出そうと試みるが、その文脈にはマクロな自他の存在様式を規定する言説が含まれてはいない。一時期、自閉症児の母親を「冷蔵庫のように凍った心のお母さん」と、いわゆる専門家たちが診断し、実在化させ、それが様々な悪影響を母親とその家族にもたらしたことは記憶に新しい。ここでは、子どもを見るのは母親であることを自明な前提とする一種の性差別的な言説が優位で、かつ精神内部のなかにこそ病理が存在することを語る科学的言説の力も見られ、これらが有機的に結合し自閉症児という疾病を顕在化させている状況として症状の実体化を判断することができるであろう。すると家族内部ではメッセージの伝達や解釈の文脈としてそれらの言説が作用する。母親が自らの内的病理を探し出すことこそが母親の役割であると一度定義されると、そこから脱却し、新しい言説に乗り換えることが状況を改善することになるなどと思うことは容易ではない。そこで、根拠が不確かな原因にこだわる精神力動論的 解釈枠に対して、子どもの外界への主体的関わりを強調し、そこでの外界を構成し、そして外界に調節される過程において、発生する論理的能カに着目する(ここではピアジェの構造主義的な発達理論を念頭に置いている)理論体系を採用するならば、そこでは親子の関係性が大幅な変容を受け、子どもの疾病の意昧も変容するであろう。もちろん後者の理論も一つの言説であり、この言説こそクライアントが受け入れるべきだと援助者が構えると問題はまったく解決されないことになる。ここで伝達される言説はマクロなレベルにおいて差異として作用する言説である。つまり、家族システムのなかで環流する情報へ差異とし作用する情報は、「支配的家族生活のストーリー」に対して対抗的なマクロなレベルでの異質な言説でなけれぱならないであろう。今日的な話題を例にとれば、不登校症侯群や溺愛の母親とう呼び名はいつのまにか診断、つまり真理となり、家族のなかで支配的ストーリーを作り出し、成員の行動様式を縛る。
 これらの批判はつまり、知識の体系には本質的真理が存することはなく、また、それの実在が確証されることもなく、知識は社会的に構成されることを主張している。すなわち、それらは、社会構成主義的な立場からの批判である。そしてこの支配的なストーリーに対抗するストーリー治療者とクライアントとの関係性のなかから顕在化させることの重要性を強調する社会構成主義的家族療法家たちは、治療法の特性について次のように述べ、また体系化を試みる。
 「ストーリーやテキストのうちには、顕在化していない先験的意味の体系は存在しない。この視点に立つ治療者は、会話のなかで、新しい希望的なかつより有効なナレイティブが浮上することを期待し、かつこのナレイティブが計画的なものであるよりも自発的であるよう配慮する。治療者ではなく、会話が自らの編者である(29)」。
 あるいは、「人が治療を求める時、彼らが受け入れることができる成果は、……新たな意味づけを作り出すことを可能にする、オルタナティブなストーリーを見出し作り出すことであろう(30)」。
 問題の定義を、家族内のサイバネティックな相互作用の文脈ではなく、支配的な言説の家族内への浸透という、より広範な社会的文脈において考察する、社会構成主義をメタ理論とする家族療法は、その後同じくこの認識論に依拠するソーシャルワーカーたちに具体的介入方法として受入れられる(31)。そして、ハイネマンがメタ理論のレベルで正当性を論じたポストモダニズムの認識論を土台としたソーシャルワークは一応体系化される。そのことで、社会構成主義的なソーシャルワークは同一の認識論に依拠する家族療法と著しく類似しつつも、面接場面での家族外の環境をも介入の対象に拡大したという点で純粋な家族療法とは区分される特殊な技法群となる。
ソーシャルワーカーたちは自らの方法論のアイデンティティを裏づけるソーシャルの意味の定義づけに悩まされてきた。ソーシャルを精神の外に存在する物質群とその意味合いを定義しようとレた、つまり物心二元論に彼(彼女)たちは陥ってきたところに、彼らの方法論の体系化が遅れた一つの理由があると言えるであろう。ソーシャルの定義づけを、言説やストーリーが描く自他の関係性として捉えた、ホワイトたちの発想は、この二元論を乗り越えた非常に斬新なものであった。

4 新たなソーシャルワークモデルが内包する基本的難点とこれからの方向性

 このように、面接場面で、支配的ストーリーによる、「あいつは不道徳だ。逸脱的だ。病気だ」という類の、社会生活におけるクライアントの「ポジショニング(32)」を、彼(彼女)自身が、ソーシャルワーカーとの共同作業でストーリーを主体的に再構築(あるいは再編集)することで打ち破る作業を社会構成主義的ソーシャルワークとして考えるならば、そこでは原理的には、ストーリーの力動性こそが現実を構成すると主張されており、ストーリーとして描く作業とは切り離して、社会的、経済的制度という現実が存在するとは想定されてはいない。ところが、本来、いかなる認識行為もその正当性を会見適に裏づけることはできないという問題提起により、レアードは社会構成主義的ソーシャルワークの体系化を開始したはずであるのに、彼女は面接外では社会的正義の増大に取り組まなければならないと訴え、倫理的発言をする(33)。むろん援助っ行為は何らかの倫理的要請を前提にしなければ開始しない。しかし、議論の必然性からこの要請は言説がコミュニケイションの文脈に乗せられることで(つまり、ストーリーという形で)、構 成されるとする発送が出発点であったのに、ここでは超越的倫理の実在が想定されており、出発点を意識するなら、この点での混乱を、彼女は整理するべきであった。私たちは社会的主義の内容についての普遍的な合意が可能であるのか。あるいは、その正義の概念は経験的次元での定義づけに基づく正当性の証明が不可能なメタレベルでの概念にしかすぎないものであるのか。このように、権力が支配的言説を社会生活のなかに巧妙に真理として浸透させ、人々のアイデンティティを操作するメカニズムを解明し、人々を多様な現実作りへと解き放とうとするポストモダニズムの思想に強く影響され、一応の体系化を実現したソーシャルワークモデルでさえも、実践を通して、言説と何らかの形で対応する実在を言い出さざるをえないことは、科学的法則や倫理の存在についてのいわば存在論的議論と、言説による現実の構成に着目する認識論的議論との関係性の整理が思ったよりも難問であり、超越的主体や法則の実在根拠を脱構築的に解体したはずの「物語モデル」を提案することでは、依然として決着はついていないことを示したと言えよう。
 生活のなかでの一つの言説は、それが、媒介項なくして客観的現実と直線的に結びついているがゆえ真理であるという主張は、実証主義的科学に信頼を置く一種の現実構成の暴力である。他方、実在の手がかりを持たずに物語が現実を作り出すことができるという主張は、説明される対象を持たない生活についての説明体系の力を認めることであろう。もし、その体系の存在が認められるならば、そこではあらゆる言説やストーリーがその正当性を主張することが可能になり、そこでは“何でもあり”の相対主義が生じることになる。治療的介入の倫理的根拠を問われると援助者たちは、「物語モデル」に現実への関与の理由づけの弱さを感じとるはずである。それは援助すべきであるという道徳的要請を引き出させないように思えるからである。仮に、この不安定な事態を、死んだはずの実在という概念を生き返らせることで解消しようと試みると、議論は振り出しに戻されたと言えよう。レアードの手法がもしそうであるならば、果実を結ぶはずの彼女のラディカルな議論はその意図に反し話を振り出しに戻したのである。
 おそらく、彼女は正義という抽象的観念の内容さえも、コミュニケイション過程のなかで生成すると見なす時点にまでラディカルに構成主義的な発想を徹底させるべきであっただろう。そして、その後、そこで生じる相対主義という難題への解決策を模索するべきであったのであろう。この観点からは、援助者と援助を受ける者という役柄から構成される援助構造が解体し、むろん従来の援助理論は正当性の証明がもはや不可能な言説の類と見なされ、技法群もその科学性の根拠を失う。援助者のメッセージは科学的な裏づけを喪失し、それは日常的コミュニケイションのレベルに引き下ろされてしまう。つまり、ソーシャルワーカーたちはこれまでの重要な遺産を喪失するのである。それゆえ、「物語モデル」を受け入れる彼(彼女)たちにとって最も必要なことは、論理の徹底化よりも、むしろずっと簡単な行為である決断である。この時点までソーシャルワークの專門性のレベルを引き下ろす(あるいは引き上げると表現するべきであるのかもしれない)勇気を持てるか否かが問われていることである。
 しからば援助者のクライアントヘの貢献とは何か。援助者はクライアントのメッセージを完全に理解することはできないが、相手の立場に立とうとする能力は有していると、援助者の能力を志向性の能力として位置づけてみよう。援助者がクライアントの言説やストーリーに共感する力を持ち、さらに、彼(彼女)らが自らのストーリーや言説をクライアントに説明し、理解してもらう力をも有しているとすると、相互のコミュニケイションの場からは、新しい自他の関係性を説明する言説が生まれ出すかもしれない。すなわちこのような新たな言説作りに一役買うのが援助者の役割であろう。
 以下の一連の議論ではポストレアード、あるいはホワイトを睨んだ後期社会構成主義の立脚点から、一つの「物語」としての援助(権力構造が捨象されているという意味ではもはや援助という言葉を使うこともできないが)活動を描いてみよう。

(1) Greene, R. R. Eriksonian Theory : A Developmental Approach to Ego Mastery. In Greene, R. R. and Ephross, P. H. (eds.), Human Behavior Theory and Social Work Practice. Hawthorne, New York : Ardine de Gruyter, 1991, p, 102.
(2) Germain, C. B. Social Work Prdctice : People and Environment. New York : Columbia University Press, 1979.
(3) Watzlawick, P., Bavelas, J. B. and Jackson, D. Pragmatics of Human Communication. New York : W. W. Norton, 1967.
(4) Hayley, J. Problem-solving Therapy. San-Francisco : Jessy-Bass, 1976.
Minuchin, S. Families and Family Therapy. Boston : Harvard University Press, 1974.
(5) Hartman, A. Diagrammatic Assessment of Family Relationship.Social Case Work, vol. 59, no. 8, 1978, 464-76.
(6) Hartman, A, and Laird, J. Family-centered Social Work Practice. New York : The Free Press, 1983.
(7) Foucault, M. Knowledge/Power : Selected Interviews and Other Writings. New York : Pantheon Book, 1980.
(8) M・ホワイト、D・エプストン著、小森康永訳 『物語としての家族』 金剛出版、1990年。
(9) Anderson, H. and Goolishian, H. The Client is the Expert : A Not-knowing Approach to Therapy. In MacNamee, S. and Gergen, K. J. (eds.), Therapy as Social Constraction. London : SAGE Publication, 1992.
(10) Heineman, M. B. The Obsolete Scientific Imperative in Social Work Research. Social Service Review, vol. 55,no. 23, 1981, 371-97.
Heineman Pieper, M. The Future of Social Work Research. Social Work Research and Abstract, vol. 21, no. 4, 1985, 3-11.
(11) Turner, F. J. Theory in Social Work Practice. In Turner, F. J, (ed.), Social Work Treatment : Interlocking Theoretical Approaches. New York : The Free Press, 1979, p. 8.
(12) ibid., pp. 535-45.
(13) Hudson, W. W. First Axioms of Treatment. Social Work, vol. 23, no. 1, 1978, 65-6.
(14) Gingerich, W. J. Signifcance Testing in Single-case Research. In Rosenblatt, A. and Waldfogel, D. (eds.), Handbook of Clinical Social Work. New York : Jessy-Bass, 1983.
(15) 具体例は以下の文献が解りやすい。Rubin A and Babbie, E. Research Methods for Social Work. Pacific Grove : Brooks/Cole Publishing Company, 1993, pp. 516-22. ここでのデータはルビンたちのものとは異なるが、計算の過程は彼らの方法に従った。なお2標準偏差法を用いる際の前提条件や、セリレイションライン、そしてARIMAモデルとの使い分けについてはラビンたちやジンジャーリッチの文献を参考にしてほしい。
(16) Heineman, M. B. The Obsolete Scientific Imperative in Social Work Research.
(17) Hudson, W. W. Scientific Imperatives in Social Work Research and Practice. Social Service Review, vol. 56, no. 2, 1982, 246-58.
(18) Heineman Pieper, M. The Future of Social Work Research.
(19) Witkin, S. L. and Gottschalk, S. Alternative Criteria for Therapy Evaluation. Social Service Review, vol. 62, no. 2, 1988, 211-24.
(20) Hartman, A. Many Ways of Knowing. Social Work, vol. 35, no. 1, 1990, 3-4.
(21) G・ベイトソン著、佐藤良明、高橋和久訳 『精神の生態学』 下、思索社、1987年。
(22) Tomm, K. Circular Interviewing : A Multifaced Clinical Tool. In Campbell, D. and Draper, R. (eds.). Applications of Systemic Family Therapy : The Milan Approach. New York : Grune & Stratton, 1985.
(23) Cronen, V. E. and Pearce, W. B. Toward an Explanation of How the Milan Method Works : An Invitation to a Systemic Epistemology and the Evolution of Family System. In Campbell, D. and Draper, R. (eds.), Applications of Systemic Family Therapy.
(24) Keeney, B. P. Aesthetics of Change. New York : The Guilford Press, 1983.
(25) Flaskas, C. and Humphreys, C.Theorizing about Power : Intersecting the Ideas of Foucault with the Problem of "Power" in Family Therapy. Family Process, vol. 32, no. l, 1993, 35-48.
Pare, D. A. Of Families and Other Cultures : The Shifting Paradigm of Family Therapy. Family Process vol. 34, no. l, 1995, 1-20.
(26) G・ベイトソン著 『精神の生態学』。
(27) M・ホワイト、D・エプストン著 『物語としての家族』。
(28) 同上。
(29) Hoffman, L. A. Reflexive Stance for Family Therapy. In MacNamee, S. and Gergen, K. J. (eds.), Therapy as Social Construction. p. 18.
(30) M・ホワイト、D・エプストン著 『物語としての家族』。
(31) Laird. J. Family-Centered Practice in the Postmodern Era. Families in Society : The Journal of Contemporaray Human Services, vol. 76, no. 3, 1995, 150-62.
(32) Burr, V. An Introduction to Social Constractionism. New York : Routledge, 1995.
(33) Laird, J. Family-Centered Practice in the Postmodem Era. 160.


主題:
ヒュマンサービス論 -その社会理論の批判的吟味-

著者名:
加茂 陽

発行者:
世界思想社

発行年月日:
1998年1月10日