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ドアをあけて “ケアの再考”に関する精神障害からの観点

メアリー・オーヘイガン
世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワーク

項目 内容
備考 英語版:原文

たとえ話

昔々、誰も知らない深い海に囲まれた、緑が多く肥沃な島にある家族が大きな家に住んでいました。彼らは、いつもこの家が安全で住み心地がいいように努力しました。自分たちの才能や技術をうまく組み合わせながら仲良く働きました。しかし、画家である家族の一人が徐々に変わってしまいました。彼女は勝手に自分のやりたいようにし、自分も他の誰も理解できないような奇妙で一貫性のない絵を描きました。皆が怖がり、途方にくれてしまいました。

しばらくして、家族のひとりが彼女に対して、「もうここにはいて欲しくない。きみの絵はもうこの家にふさわしくない。私たちの家はもはや安全で居心地のいい場所ではなくなってしまった。」と言いました。家族たちは世話人に、家からさらに下の陸と海の間の滑りやすい岩場に建つ物置小屋にいる彼女の様子を見るように言いました。物置小屋では、彼女は今まで以上に苦しんでいましたが、やがて海と友だちになり、海から彼女の芸術が何を意味するかを学びました。すると女性は再び筆をとり、絵を描くことを望むようになりました。そこで彼女は世話人に頼んで、家族に彼女が家に戻りたがっていることを伝えてもらいました。

しかし、家族は家を秩序正しく保つためには、まだ彼女を信頼できませんでした。家族は彼女に対し、家の裏口のポーチに住むなら食料と毛布を与えよう、というメッセージを伝えました。しかし家の裏口のポーチと物置小屋では大した違いはありませんでした。彼女はやはり絵を描くことは許されず、芸術を失ったことが彼女の中で恐ろしい叫びを引き起してしまいました。世話人は彼女の痛みを感じ取り、ついに家族を説得して、彼女を受け入れ家の中に住まわせるようにしました。

女性は家の中にいることができてとても喜びました。他の者が目を見張る中、彼女は絵と筆を掴んで、絵を描きました。最初は家族はまだ彼女の絵を理解することができませんでしたが、しばらくすると彼らも彼女の絵の力に気づきました。「こんな風に絵を描くことを誰が教えたの?」と彼らは彼女に尋ねました。「物置小屋にいるときに海と友だちになったの。海が私の芸術の意味を教えてくれた。でも私も長い間持たせてもらえなかった道具を手に取るまで、こんな絵が描けるなんて知らなかったわ。」と彼女は答えました。家族は自分たちの間違いに気づき、そのときから、彼女に部屋を与え、好きなように部屋を飾り、暮していけるようにしました。それからは皆がひとつ屋根の下それぞれの部屋で幸せに暮しましたとさ。

家の外の生活

簡単な歴史

精神障害者は長い間、コミュニティから隔離されてきた歴史がある。欧米では、施設ができる以前は、私たちは屋根裏部屋やみすぼらしい家に幽閉されたり、見捨てられて路頭をさまよったり、魔女のように狩られ拷問を受けたりした。過去200年の間は、町からはるか離れた大きな施設に送られ、たいていはそこで生涯を過ごした。自然なコミュニティに属する権利を剥奪された人々に、人工的なコミュニティや温情主義的なコントロールやケアを与えるのはましな方であった。最悪の場合、虐待を受けたり、無視されたり、拷問を受けることもあった。

裕福な欧米諸国ではほとんどの施設が閉鎖されているが、それ以外の国々ではいまだに残っている。施設時代の隔離は過去のものとなりつつあるが、精神障害者は今起こっていることに深い懸念を抱いている

経済的な制約や、人々の行動を「正常にする」新しい治療法、および人権に対する意識の高まりによって、コミュニティ・ケア時代が到来した。しかしながら、コミュニティ・ケアは大方、人々をもとのコミュニティに戻すことができなかった。国々はコミュニティ・ケアに十分な資源を投入しなかった。多数の精神保健サービスは、引き続きコミュニティから離れて孤立して運営され、精神障害者をかつてと同様な温情主義的なコントロールでもって扱った。施設から出た人の中には、路頭に迷ったり、刑務所行きになってしまったりした人たちもいる。

精神障害者は物置小屋から開放されたがっているが、裏口のポーチに行き着きたいわけでもない。ドアを開ける鍵と家の中にある部屋を望んでいるのだ。

人々の経験

私はこの論文を惨めな貧困や戦争や抑圧的な独裁政権を一度も経験したことがない、豊かで民主的な国に住む恵まれた人間として書いている。しかし、精神障害の経験はあるし、世界中の精神障害者の人たちとも会ったことがある。文化や民族的背景や信仰が違っても、私たちの語ることは本質的には同じだ。それらは自分たちの家に帰る道を見つけようともがいている、追放された人たちの話なのだ。

世界中の精神障害者は精神障害の症状が出ているときの苦しみについて話をするが、それより悪いことには、彼らは自分たちが選んでもいないことに対して、他者から受ける辱めや拒否について話すのである。

精神障害者の多くが施設に幽閉されてしまうことや、強制的な治療、身体的または性的虐待を受けたり、放置されたりすることの恐ろしさについて話す。ある国では、施設から出ることができるような法的手段がないまま、何年間も閉じ込められることがある。家族の対面を保つためや政治的な意見を表現できないようにするために施設に入れられてしまう人たちもいる。

何百万人もの人々が精神治療の深刻な害に悩まされている。多くが、抗精神病薬の副作用の遅発性ジスキネジア(口周辺や舌が、無自覚に動いてしまう、不可逆的な薬の副作用)に苦しんでいる。電気ショック療法によって永久的に記憶喪失になる人もいる。時には白質切除を受けさせられることもあるが、これは完全に人格を破壊してしまう脳手術である。

必要なときにコミュニティの精神保健サービスを使うことができないという声がますます高まっている。それは十分に行き渡るほどサービスがないことや、サービスの管理が厳しすぎること、提供されるサービスは人々が望むものではないことなどが理由である。
何百万人もの精神障害者が、自分たちが発言権を持たない自尊心を傷つけられるような施設や、家、ホステル、または荒廃した寮、刑務所、路上などで生活している。まともな地区に住もうとすると、そこでは歓迎されないというメッセージが送られてくることがしばしばある。
精神障害者の多くは、望んでも、開かれた市場で雇用を見つけることは決してない。作業所に入れられ、わずかな単純作業をすることが多い。またはコミュニティに貢献する機会を得ることもなく、生涯を居間や障害者施設で過ごすこともある。

世界中で精神障害者はそれぞれのコミュニティで裏口のポーチにいる最下層階級の人々の仲間入りをし、そこで貧困、失業、失望、不適切な住宅環境、孤立、搾取といったいくつもの耐えがたいストレスにさらされているのである。
しかしこのような状況である必要はないのである。精神障害者に彼らの望む治療やケア、サポート、および周りの人たちと等しい機会を与えられれば、これらのことは起きるわけがないのである。

閉ざされたドア

精神障害者に対して、強い、時には圧倒的な強さでドアを閉ざそうとする力がある。この力とは人の考え方であり、行動である。精神障害者自身を含む全ての人々が、精神障害者に対してドアを閉ざし続けている責任の一端を潜在的に担っている。

精神病や精神障害の概念は狭義過ぎ、回復を促さない。

歴史を通し世界の様々な文化を超えて、精神病について多くの説明がなされてきたが、大概の国では、精神病は生物学的なものであり、医学療法が最も効果があるというのが中心的な見解である。精神障害者の中には医学的診断と療法がうまくいったという人もいるが、ほとんどは、人間の生涯の経験や、社会的な不平等、精神的問題など全てを考慮した全体論的説明のほうをより求めている。
精神病や精神障害の性質に関する話は、単なる興味深い知的な遊び以上のものである。社会に潜在する精神病や精神障害の概念化は、サービスがどのように提供され、私たちに対してコミュニティへのドアが開かれるか閉ざされるかに深い影響を及ぼすであろう。

精神障害と精神病は、事実ではなく価値判断

精神保健の専門家やそれに興味を持つ人々は、精神病や精神障害を社会的に構築された見識というよりは、個人に特有の事実であるという見方をしがちである。普通ではない信念を持ったり、他者が聞こえない声が聞こえたりすることは実際の出来事であると見ることはたやすい。しかし、これらの事実に精神病や精神障害であるというレッテルを貼ることは単なる判断に過ぎない。聖人やみこの声を聞いたり姿を見たりすることが、多くの文化において多大なる貢献をしてきた。もし神聖な才能ではなく精神病を持っていると判断されていたら、彼らの生涯はどんなにか違っていただろう。

私たちの社会での関係の外や、生産性、コミュニケーション、魅力的であること、独立性、地位のようなものを私たちがどのように理解するかを考えるとき以外では、障害や精神病は実質的な意味を持たない。生産的、魅力的、独立云々とは何かという社会的な定義に当てはまらない存在は、障害というカゴの中に捨てられがちなのである。
障害という概念の相対性と可逆性は、かつて“車椅子共和国”というすばらしいテレビ番組の中でうまく表現されたことがあった。これは車椅子の人々によって作られ、運営された番組である。全ての天井は座っている人々に合わせて低くしてあった。直立する人々はつまずいたり這ったりしながら動き回り、天井にぶつかっても保護されるよう、緩衝ヘルメットをかぶらなければならなかった。番組では立場を逆転させ、車椅子の人々が生産的になったり、独立したり、コミュニティの貴重な一員となる機会が事実上および象徴的に邪魔されている世界に住む直立する人たちが、車椅子の人たちにどのように差別されるかを示したのである。

おそらく精神障害者は、だれも障害を持っているとか精神的に病んでいるとは見なされず、ただ他の市民が当然のごとく持っているいくつかのものを必要としているのだと見られるような世界に住むほうがいいのであろう。障害とは、ある少数の人々が人生を全うするために必要な異なった必要条件のことを示すのであって、どうしようもないとか、役に立たないとか、魅力がないとか、貧しいといった重荷やレッテルを張ることではない。
残念ながら、障害や精神病が個人に特有の事実だと見なされるとき、これらの概念が疑いの余地もなく当てはめられるのである。また、社会が精神病や障害のためにどう貢献できるか、または有害な治療や、強制、差別などによって、どのように障害や精神病が永久のものとなってしまうかについての社会における議論や分析をも制限してしまう。

医学モデルは強制を正当化する

医学モデルは、精神保健体制の中で強制的な慣行と長いつながりを持っている。このモデルでは、精神障害者を自分たちの内面にある能力や理性を奪う力に対する無力な犠牲者であると見がちである。また強制的および温情主義的な慣行は、人々に能力と理性を取り戻させ、自己の病状から開放するという理由で、これらの慣行を正当化する傾向にある。社会心理学的モデルでは、強制や温情主義的慣行、特に自由意志や個人的または社会的責任を強調するものについては、それほど簡単に正当化することはできない。

回復は専門家によって支配されている

医学モデルは薬物や電気ショックなどの強力な技術を支持している。この技術の専門家のみが、精神障害者を非常に受身的な状態にしてしまうこのような治療法を施す権限が与えられている。心理療法やハーブ療法、セルフヘルプグループなどの精神障害者が使う他の療法のほとんどは、彼らにもっと積極的な参加を求めるものである。

精神保健サービスに対する悲観的見方が広まっている

診断や予見に対する先入観がもっと強いのは、医学モデルに強く執着する人たちである。彼らはいわゆる主たる精神病は大体がすでに決められた道をたどると信じている。これによると精神障害者たちが、実際はそうではないのに、再発または症状が悪化するしかないと信じるようになってしまう。医学モデルは、特に他の解釈や療法を伴わない場合、精神障害者を自分たちが変える力もないひどい運命が襲ってくるのをただじっと待つよう奨励している。

精神障害者は差別されている

差別は、精神障害者にとって最も苦しく、多くの人が感じている深刻な問題である。
差別は様々な形であらわれる。私たちは嘲り、嫌がらせ、または虐待されることがあり、また単に忘れられたり、無視されたりする場合がある。暴力的であるとか、正直でないと見られたり、予測できない行動のために、恐れられたり避けられたりしがちである。怒りや苦痛の表現は、他者にとっては病気の症状であると見られかねない。過度の哀れみを受けたり、私たちの人生は悲しくほとんど価値のないものであると考えられたりする。また私たちは決してこれ以上回復しないと言われることもしばしばある。もし精神病や精神的苦痛の経験を話すと、友人を失ったり家や望む仕事を失ったりしかねないことはわかっている。
精神障害者に対する差別は、人が私たちを見る目に表れるような微妙なものである場合もあれば、ナチによる精神病患者の虐殺のような露骨なものまである。
精神障害者は、他のどんな人との関係においても差別を経験しうるものである。これらの人々とは、家族、隣人、雇用者、警察、裁判官、保健の専門家、聖職者、役人、ボランティア機関、他の精神病患者、家主、銀行員、保険販売人、政治家、ジャーナリスト、友人、パートナー、移民局担当官、同僚、弁護士、スポーツの仲間などである。
そして精神障害者は、差別をする人とのつらい衝突の中で、他者が自分を見るような目で自身を見るようになることがよくある。

国による差別

国の役割とは、全ての国民が充実した生活を送り、それぞれのコミュニティに貢献する機会を持つことができる環境を築くことである。どのように行うかは国によって違う。多くの国は精神障害者のための資金とサービスの両方を提供する。しかし、このような供給を廃止し、コミュニティや非政府組織に資金を提供し、それらが人々のニーズを満たすようになってきている欧米諸国もある。
国は精神障害者を様々なやりかたで差別してきた。精神障害者を支援するためのサービスが慢性的に資金不足であるのは国の責任である。精神障害者の中には、国が精神保健サービスに対し精神障害者を強制的に治療し拘禁する権限を与えたことで差別していると考える人もいる。国が施設の外で暮らす人々に義務的な治療を強制する傾向が高まっている。国はコミュニティが精神障害者を除外しないようにするための努力をほとんど行ってこなかった。私たちに、他の国民と同じようにまっとうな住宅に住み、働き、十分な収入を得られる機会を与えるような、法律や政策を整備しなかったためである。

精神保健サービスによる差別

精神保健サービスも、サービスを利用する人々を差別することがある。強制的または温情主義的な慣行や、私たちを意思決定に参加させないこと、私たちが本当に望むサービスを提供しないことが差別である。
強制的または温情主義的な慣行は、単に施設における生活の特質ではない。残念ながらこれらの慣行は、精神保健サービスをベースとした多くのコミュニティでいまだに用いられている。臨床サービスは、どのような治療を私たちが受け、サービスのどの情報を提供するかを決めることができるので、私たちは自宅で独断的なコミュニティの治療プログラムを無理やり受けさせられる。収容施設サービスは、私たちがどこに住み、誰と住み、何時に就寝し、何を食べるかを決めることができる。職業指導サービスは、私たちが日中何をし、就職する用意ができているか否かを決定することができる。その他のリハビリテーションサービスは、私たちが自分のお金で何をし、生活上のどの技術が欠けていて、どこで買い物するかを決めたりする。
多くのサービスがいまだに、精神障害者に尋ねることもなく、彼らにとって良いサービスをいかに提供するかをわかっているつもりでいる。これらのサービスを利用する人々はサービスを変える力もなければ、他のサービスに乗り換えることもできない。多くの精神保健サービスは私たちを尊重することなく平等にも扱わず、インフォームドコンセントの権利を始めとする私たちのもつ権利を保護することもない。

コミュニティによる差別

コミュニティ活動は精神障害者を多くの点で差別している。私たちが近所に住んで欲しくないと言うとき、雇用者が私たちを雇わないとき、同僚が私たちを精神病を患っているとからかうとき、人々が私たちを冗談のネタにするとき、友人が私たちから離れていくとき、などである。
しかし、コミュニティはまた私たちの生活に対する責任を放棄し、しばしば国に委ねることによって、精神障害者を遠まわしに差別をしている。コミュニティが彼らの必要とするものを提供する能力や意思がなくなったときに、専門的なサービスが必要となる。ほとんどの人がある特別な仕事、たとえば外科手術や配管工事、コンピューターのプログラミングなどをする能力を持っていないことは全てのコミュニティが認識している。しかしコミュニティは、住宅、収入、仕事、家庭生活に対する市民の通常のニーズを認識する意思が必ずしもあるわけではない。精神保健問題の薬などのような特別な治療の例を除いては、私たちのコミュニティは、能力は持っているが意思が欠如しているのである。
精神障害者が、住宅、収入、仕事などに関して専門的なサービスを必要としているとき、コミュニティは、私たちの通常のニーズを満たすという責任を放棄してしまった。善意の友人、同じ体験をした仲間、家族、クラブ、コミュニティグループ、近所の人々、仕事関係者たちがすべての人に共通のニーズを満たしているように、この万人共通のニーズを満たしてくれる専門的サービスは残念ながら存在しないのです。
精神障害者は、多くの場合国の管理する社会的に孤立した地区に住み続けている。それは通常国が管理し、ただ単に高い塀に囲まれた施設というだけでなく、サービスが中心となったコミュニティであり、そこにいる人はユーザーまたはそこにいることで収入を得ている人のみである。

精神障害者は自分の生活の責任も持てない犠牲者だと見られている

無力だとみなされ、サービスにコントロールされ、コミュニティから排除されている人々は、自分自身の能力を発見し、発展させ、利用することが非常に難しいと思う。しかし自分の生活を取り戻した精神障害者によれば、自分の責任をとるという強みや能力を使うことが回復における最も重要な要素であると言う。

あまりにも多く精神障害者が精神保健サービス施設に何年もの間じっと座ったままでいる。多くの場合、過剰に投薬されていたり、やる気が失われていたりする。彼らの個人としての発達は、診断されたり回復の見込みがないと言われたりしたその日に止まってしまう。人格を傷つけるような治療や差別によって、彼らの自尊心は粉々にされてしまった。彼ら自身でよりよい人生にできるという希望や信念を失ってしまった。人間の可能性を痛ましくもむだにしている。

私たちを犠牲者とみなしているのは、国や精神保健サービス、コミュニティばかりではない。精神障害者たち自身が自分たちのことをそう信じていることがよくある。精神医療サバイバー・ユーザー運動その他の精神障害者の権利や参加を擁護する人たちもうっかり私たちを犠牲者扱いしかねない。人権擁護活動家やサバイバー、ユーザー運動は精神障害者に対する抑圧や差別の理解のために多大なる貢献をした。しかし時には、私たちは、無力さの分析や、慣れきってしまった無力なものとしての役割に行き詰まってしまうことがあった。人が抑圧から抜け出そうと苦闘するとき、自分たちやどの力を変えるべきなのか、またはそれは周りの人々やシステムなのかを必ずしもわかっていない。私たちもまたドアを開ける鍵を持っているのである。

ドアを開ける鍵

精神医療サバイバー/ユーザー運動

精神障害者の中でも勇気ある人たちは過去2世紀の間、自分たちの権利のために戦ってきたが、精神医療サバイバー/ユーザー運動1970年代始めまで組織化されなかった。運動はヨーロッパと北アメリカで始まった。それ以来、運動はその他の西側民主国家、東欧の旧共産主義国家、アフリカ南部、日本、そして中央・南アメリカに広がった。フェミニスト、公民権、ゲイ、原住民、障害者運動と同じく、サバイバー運動は自決権を原則とすることが基礎となった。精神障害者は、精神保健体制による過度の強制とコミュニティからの排除に苦しめられてきたと考えている。精神障害者も自分の人生を決定する力と能力を持たなければならない。

サバイバー/ユーザー運動はふたつの前線で機能している。それはセルフヘルプと政治行動である。セルフヘルプでは、私たちは自分自身を変え、経験から立ち直ることを目標としている。政治活動では、私たちの生活の安定に影響を与える人々やシステムを変えることを目標としている。

精神障害者が自分たちでサービスやサポートネットワークを管理するのが普通に行われている国もある。いつでも立ち寄ることのできる場所や、緊急時に飛び込める場所、アートプロジェクト、住宅プロジェクト、または小さな会社などである。精神障害者の管理するサービスは通常、サービスのユーザーが最大限に参加することおよび彼らの権利を尊重することを非常に重要視している。セルフヘルプ・イニシアチブ(精神障害者自身が運営しているサービス)では、私たちがどのようなサービスを望んでいるかについて貴重な手がかりを得ることができる。

ユーザー運動に関わるグループの中には、運動が始まって以来、強制治療反対のキャンペーンを行ってきたグループもある。世界のどこにおいても強制治療が違法にされたことはないが、多くの国では人の意思に反して拘禁したり治療したりすることがますます難しくなっている。しかしながら、懸念すべき兆候も見られる。欧州や北アメリカの一部では、コミュニティの中で強制治療の対象になる精神障害者が多くなってきている。またユーザー運動では、施設の閉鎖や、たいていの精神保健サービスが提供するよりも広範囲の治療やサポートのためのキャンペーンや、精神障害者が他の市民と平等な機会が持てるようキャンペーンを行ってきた。

精神障害者はより必要に応じたサービスを作るため、精神保健体制の中からも活動を行っている。多くの国で私たちは、政府に政策についての助言を行ったり、資金供給の決定に参加したり、サービスの計画、提供、評価の一端を担ったりしている。サービスのユーザーとして歴史上のいつの時点よりも、精神病の原因をめぐる議論をよりよく理解することができ、治療やサポートの違う選択肢を求めることもできれば、私たちの権利も理解し、サービスのプロバイダーが私たちのことについて決定したことに疑問を投げかけることもできる。

世界人権宣言

世界人権宣言が採択されてから50年になる。これは、ナチス・ドイツが犯した人権に対する残虐行為を受けて作成されたものである。宣言は世界中の国々がすべての国民の人権を保護することが求められる時代の幕開けを意味する。それ以来、国連において世界人権宣言に多くの人権に関する宣言が新しく付け加えられた。これらは、他の人たちにとっても精神障害者にとっても等しく重要である。中でもふたつの宣言が、特に精神障害者の人権に関してうたっている。

「障害者の機会均等に関する基準原則」では、全ての国が以下の点において、障害を持つ人々の平等な参加を妨げるものを取り除く責任があると述べている。

  • 物理的な環境、情報、コミュニケーションへのアクセス
  • 教育
  • 雇用
  • 収入の維持と社会保障
  • 家族生活、性的関係および親子関係
  • 文化活動
  • 娯楽およびスポーツ
  • 宗教

この規定ではまた、平等な機会へのアクセスの前提として、障害をもつ人は適切なケアとサポートを必要とし、政策策定やサービス提供の全ての段階において参加しなければならないと規定している。全ての国が十分に規定を実施していないとみなされている。

精神障害者の保護と精神保健ケアの改善のための国連原則

この文書は治療とサービスを受ける権利に焦点を当てているが、残念なことに治療を拒否する人の権利の保護についてはいかなる指導も提供していない。世界中のサバイバー・ユーザー運動に関わる多数の人々によれば、これは紛れもない怠慢である。

私たちに門戸を示してくれるサービス

多くのサービスが不十分な働きしかしていないが、私たちが生活を取り戻すのに大いに援助してくれる精神保健サービスもある。これらのサービスは様々な共通の特徴を持つ。以下が私たちの望むサービスである。

私たちが誰であろうと、どこにいようと、いつ必要としようと、私たちの表明するニーズに応えてくれるサービスへのアクセスを私たちは望んでいる。

私たちは、少なくとも私たちに無害のサービスを望んでいる

提供されるすべての治療およびサポートサービスは、最大限の恩恵をもたらし、悪影響は最小限に抑えられなければならない。

私たちは、精神的苦痛を理解し対応するため、医学モデルが提供するよりも多様な方法を求めている

精神保健サービスはいまだに生物学的説明および治療に支配されている。精神障害者は、彼らの精神障害には多くの説明があり、自然治療、心理療法、回復に向けての教育、仕事や住宅を見つけるための援助、コミュニティでの縁故など、それを助けるようなたくさんの治療やサポートがあると考えている。

私たちは薬物を減らすことや、失った社会的および物理的な機会を取り戻すためのもっと多くの支援を求めている

サービスは、精神的苦痛や精神病の望ましくない特徴を軽減する手助けをするべきであるが、孤立、貧困、失業、差別、その他精神的苦痛や病気の後に失ったものに対処するため私たちを援助することに同様な努力を払うべきである。

私たちは強制的ではなく自主的なサービスを望んでいる

強制的な治療や拘禁は、決して正当化することができない人権侵害であると考える人が私たちの中にいる。完全な自主性を剥奪された人々に対し、精神保健サービスの提供は、制限が最小限な環境においてできるだけ強制や拘禁のないやりかたで、最短時間で行われるべきである。強制治療を避けるため、事前の指示や危機計画を利用して、危機の時に私たちはどうなるかを自分たちで決定したいと思っている。

私たちが望むサービスを選択し、私たちのためにならないサービスを変える力を持ちたい

精神保健サービスは、精神障害者が回復するために必要な治療やサポートに関し、私たちにできる限り自主性と選択権を与えなければならない。サービスは、私たちの生活に影響を与えるサービスの中での全ての意思決定にサービスのユーザーを同等として扱い参加させなければならない。もし私たちがサービスに満足しない場合、苦情を申し立てることができ、今後より良いサービスを得ることが確保できる、公正で容易なプロセスが必要である。

私たちは、自分たちの能力を用いて自分たちのサービスを経営したりその他の機会を利用するスキルと資源を求めている 個人として、私たちは治療とサポートに関する意思決定に積極的に参加する必要がある。集団として、私たちは全てのレベルでサービスの計画と評価に参加していかなければならない。国は、サポート・ネットワークを構築し、ユーザーがサービスを経営できるように、ユーザー運動を援助しなければならない。精神保健サービスに携わる精神障害者に対するバリアーがあってはならない。

精神保健サービスから卒業したい

精神保健サービスは決して、自然なコミュニティに取って代わろうとするべきではない。自然なコミュニティは、他のコミュニティが行う能力または意思がない特別な義務や役割を果たすために存在するのである。精神障害者は、スキルを持ち、また励まされることによって精神保健サービスへの依存を減らすことができる。サービスは、精神病と保健、治療、危機管理および予防、健全な生活スタイルの維持、差別への対抗、権利と自己主張、サポートネットワークの利用、コミュニティ資源の利用について、私たちに教育を行う必要がある。

私たちを歓迎するコミュニティ

コミュニティは、国の支援をもって精神障害者の権利と生活の安定を確たるものにするために、現状より遥かに活動的になるべきである。

私たちは他の国民と同じ権利、責任、そして機会を求めている

精神障害者はその権利を法律で守られるべきである。政府は、私たちが他の国民と同等の機会を持つようにすべきである。いかなる国も教育、仕事、収入支援、物資やサービス、住宅を私たちから奪ってはならないし、また地域社会や家族に属する私たちの能力を否定してはならない。家族、コミュニティ、健康、福祉サービスは私たちをサポートし、少なくともコミュニティへの参加を妨げるようなことはするべきではない。コミュニティの中でその存在や決定が私たちに影響を与える人々は、精神障害者を尊重し平等にそして参加させていく形で精神障害者に接するべきである。

私たちは教育や雇用に同等なアクセスを望んでいる

私たちが精神障害者であるのがわかっていることで、それ以外の点では資格があるのに、その理由で雇用や教育を受ける機会を奪うことがあってはならない。一度教育の環境または職場に置かれたときに、私たちの中にはある程度の条件が必要となる場合がある。例えば融通の利くスケジュールや、病気休暇、または通常よりもよりきめ細かい指導やサポートなどである。可能であれば、雇用者や教育者が妥当な便宜を計るために資源を使った場合、政府が彼らに対しそれを補償するべきである。

私たちは十分な収入を求めている

十分な収入を確保するには雇用が最適な方法であるが、もしこれが可能でなければ、基本的な人としてかつ障害から起こる全てのニーズを満たすよう、政府が十分な収入を供給するべきである。ある国では、政府の収入援助によってかえって人々が働かないようになっている。それらの人々は、仕事に戻ると経済的安定が失われたり、仕事をしてもより多く収入が得られなかったりするのではないかと恐れているのである。政府はこの問題の創造的な解決法を見つけなければならない。

私たちは適切な住宅を望んでいる

私たちは、施設や路上ではなく、家と呼ぶことができるところに住みたい。快適で、あらゆる天候から守ってくれる家に住みたい。近所から拒否されたり、敵対視されたりする恐れのないところを選んで住みたい。

私たちは家族の一員でありたい

精神障害者は友達をつくり、パートナーを見つけ、そして親権を失う恐れなく親になるための支援と機会を得たい。

概要

精神障害者は、世界中のどこにおいても、コミュニティの物置小屋や裏口のポーチに住んでいる。近年、私たちはコミュニティのドアをノックして、私たちに対して開くよう要求し始めている。

政府と精神保健サービスは、精神障害者「ケア」が温情主義的慣行、強制、差別、そして排除を支持することがよくあるという不愉快な現実を見据えなければならない。国としては、精神保健サービスやコミュニティが21世紀に入り、「ケアの再考」を試みる時、これらの慣行を廃止しなければならない。その代わり、「ケア」は、いつも精神障害者の立場に立って考え、希望どおりにし、自由へのドアを開き、コミュニティに参加させ、重要な居場所を与えるよう、支援していかなければならない。