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国連障害者の権利条約

JDF(日本障害フォーラム)・条約推進議員連盟セミナー
「障害者の権利保障~権利条約とアメリカ障害者法」

ADA15年~雇用と合理的配慮から

ウィリアム&メリー大学ロースクール教授
マイケル・スタイン

合理的配慮とは何か?

ADAは、民間雇用者、職業紹介機関、労働組合、合同労使委員会を含む“適用対象となる事業体”が、雇用関係のすべての局面において、有資格の障害者に対して差別することを禁止しています。これらの事業体を私は「雇用者」と簡単に呼びますが、雇用者は雇用関係のあらゆる側面において、有資格の障害者個人へ差別することを禁じられています。
合衆国議会は、障害者を「主な生活上の活動の一部あるいはある部分に実質的に制限を受ける人」、そのような機能障害を経験している人、そしてそのような機能障害をもっているとみなされている人と定義しました。誰が障害のある人か、とりわけ誰が「有資格の」障害のある人かという問題は、法学上、多くの議論の的であり、豊富な論点を提供してきました。現在では、あえて言うならば、最高裁決定では、幅広く機能・活動を損ねる制約要因を有する重大な障害を、障害の要件として求めています。
 ADAの適用を受けるためには、障害者は「有資格」でなくてはなりません。つまり、合理的配慮の提供によってあるいは提供されない状態で、その地位に本質的な機能を果たす能力のある人だけがADAによって保障されるということです。たとえば、トラック運転手の本質的な機能は運転する事ですから、全盲の人はトラック運転手としての地位を得る資格はありません。しかし、分子生化学者の場合、物質を混ぜるという本質的な機能は自身の能力か、あるいは点字などの配慮の提供によって可能なわけですから、全盲であっても有資格になりえるわけです。
 合理的配慮には、既存の職場環境の個別的な調整を幅広く盛り込んでいますが、大きく2つのカテゴリーに分けることができます。1つ目は、物理的状況を変えるか新たに提供する必要性です。たとえば、車いすを使用する労働者のニードに合わせて、段差にスロープをもうけることがそうです。こうした配慮は「ハードの」コストが含まれます。つまり、数量化が可能な具体的な支出を伴うということです。スロープを購入したり設置したりすることは、通常、1回限りの支出であり、いくらかかるかははっきりしています。

 2つ目の配慮には、業務が行われる方法の変更が含まれます。たとえば、高い書棚に車いすを使う店員が手を伸ばして商品を積み上げる必要はないということです。こうした配慮には、「ソフトの」コストが必要ですが、これは数量化が難しいものです。この店員の場合、自分はレジを担当して、だれか別に高い書棚に物を積む人を必要とするかもしれません。こうした環境を整備するには、職場の人事担当者が他の労働者に日常業務の変更を説明したり、業務全体を見直す際に店長がそうした変更を考慮に入れることを学ぶ必要が出てきたりするかもしれません。
 ここでシステム上の問題を2点挙げておきましょう。まず1つ目として障害に対応するための配慮には、ハードコストかソフトコスト、あるいは両方が同じに必要になることがあります。2つ目として、ADAが公共施設のアクセスをすぐに確保するよう求めていることから、雇用に関係する配慮にかかるコストの一部がすでにADAのほかの規定を守ることで、雇用者によって支払われている場合があります。この場合、雇用者は施設所有者・管理者としてそうした他のADA規定を守っているわけです。先ほどの例では、障害労働者の有無にかかわらず入り口にスロープをつけることが求められていたかもしれないわけです。

 職場における配慮は、雇用者の財政環境全体からみて「重大な困難もしくは費用」が必要となる場合は、雇用者にとって過度な負担となります。過度な負担を考える際には、実際に配慮に必要なコストの他に、「全体的な財源」、「規模」、職場の「労働者数」、「費用の影響と資源」、場所、構造、「労働力の要素」、そして、配慮の及ぼす全般的な「影響」が対象となります。より具体的に言いますと、こうした要素には、スロープ設置にかかる実費、スロープを敷くことで失われる店舗面積、店舗の収益性、労働者の人数、業務調整が店舗の日常業務に与える影響が含まれます。もし、店舗が大企業のものであれば、車いすを使用する労働者が他の場所でフルタイム労働する方が意味をなすかどうか(例えば、1人が低い書棚に物を積み、他の店員が高いところに積む)、あるいは代替的な場を提供するか(レジや接客に回る)といったことも合理性を評価する際に考慮できるかもしれません。
 このように、ADAは、あらゆる提供される配慮が合理的かどうかを測る際に、考慮されるべき要素を多く提供しています。しかし同時に、従業員、雇用者、裁判官、または政策立案者に対して、過度な負担を生まない限り配慮が合理性をもつという条件以上の実質的な指針は示していません。

ADAはいかに効果的か?

 ADAが成功したかどうかは、どのような指標で結果を測ったかによって大きく変わってきます。

a.就業率

 態度面での変化を測ることは、ADA以降の障害者雇用に与えた影響を測る1つの方法です。就業率の算定に用いられる適切な測定基準や、その結果の意味するところをめぐってホットな議論が繰り広げられてきました。有力な反証が出てくれば別ですが、今のところ、障害者の就業率は非障害者のそれに比べて減少、もしくは実質的な伸びが確認できないと言った方が正しいでしょう。たとえば、ADA以降の障害者雇用への影響に関する2つの実証的な研究では、障害のない労働者の就業率に比べて障害労働者のそれが減少していることが明らかになっています。これにはいくつかの理由が考えられます。たとえば、調査対象期間(90~94年)の間、不景気であったことや、障害者を対象にした職業プログラムがないこと、健康保険の不備、福祉改革などがあげられます。ADAは障害者の自立を進める願望によって大きく動かされてきたわけですが、就業率の問題はADAの暗い一面でもあります。

b. 裁判の勝訴・敗訴率

 似たような問題が、ADA全体を法学上の側面から見たとき、この場合では雇用に関するADAに基づいた連邦地裁での勝訴・敗訴率を見たときに言えます。通常ですと、勝ち負け半々となるべきですが、米国弁護士協会の報告によると、92~97年のADAに基づく雇用に関する裁判では、雇用者が92%以上勝訴しています。この数字はRuth Colker教授の別の研究でも裏付けられました。米国弁護士協会の98年の追加調査では、雇用者の勝訴率は95%に伸びています。多くのもっともらしい理由がこの現象について説明できると思いますが、その中には、事前審理における技術的なミスで被告側が有利になっていること、障害者や法令に反対する裁判官の見解、原告適格性の欠如、原告が勝てない訴訟を続けようとすること、弁護士の意思決定に関する情報の非対称性、貧困な弁護、二流の専門家の証言などがあります。

c. 質的なアセスメント

 量的な分析と異なり、質的な分析は、障害者に対する社会態度の形成について、ADAがもたらした異なる効果を示してくれます。まず、多くの事例から、障害労働者に対する任意的な配慮の提供がなされていることがわかります。経済的な非効率を考慮するような典型的な理由も含めて、障害をもつ労働者に対して配慮を選ぶときの雇用者側の理由は、かなり複雑になっています。雇用者と障害者になる前の健常労働者段階での強い関係、社会公正や多様性に対する雇用者の個人的な動機、障害者を雇ったいい経験、単に雇用者のあるいは人事担当者が抑圧されたグループの人の能力を示す機会を与えようとする意思など理由はさまざまです。
 残念ながら、配慮の任意的提供については、障害者の雇用を調査する上で、ほとんど報告されません。Peter Blanck教授は数社の大企業の企業文化と障害労働者を雇用し配慮を提供する理由について分析しました。システム的な(そして数量的な)研究よりむしろ、この種の問いかけは実は、どのようにして社会的規範が変化したかを深く問いかけるものになっています。

d. 態度の変化

 ADAを法的に分析した結果、障害者に関して3つの方法で変化をもたらす能力がADAにあることがわかりました。つまり、一般大衆に障害者について情報をもたらしたこと、一般の障害者に対する態度を変えうる司法による制裁を科したこと、そして差別的態度に対する損害賠償です。
 ADAは、障害者について一般大衆を教育する役割を果たしています。しかし、障害者は他のマイノリティー集団と違い、環境や潜在能力に関する一般的な社会的関心を高める前から、公民権法によってエンパワーされてきました。ADAは障害者の社会での相対的な地位を法的に位置付け、情報を提供することで一般大衆を教育しています。このことは特に、固有の必要性よりも社会からの排除の原因となる意図的な排除について、ADAが述べていることからも明らかです。また、ADAは公共施設を直ちにアクセシブルにするよう要求することによって、障害者が社会機能に参加する機会を大きく広げています。両者があいまって、障害者を「他者」として捉えることを減じさせ、非障害者の一般的な障害者に対する認識を高めています。ですから、ADAを読んだ(あるいはADAの影響について弁護士にコンサルティングを受けた)雇用者は、以前とは違う形で、障害のアイデンティティを理解することになります。もしこれまで、社会での障害者の役割についての知識がなかったとしても、ADAは、その雇用者の見方や知識を新たにさせてくれます。もし雇用者が障害をもつ労働者の排除について迷っていたとしても、ADAは、そうした雇用者を単なる傍観者から統合を受け入れる側へと傾けさせてくれます。さらに、交通機関や野球場など社会の他の場面で障害者に出会うことで、以前締め出していた人たちの存在を当たり前に感じるようになります。こうしたことは、ADAに含まれている教育的な情報とあいまって、障害者が職場を含め、社会に統合された存在である、という考え方を雇用者に抱かせるように作用します。障害者を排除する力は、一般的に、悪意を持たない、善意の無視からもたらされることからも、これらの考え方は真実であります。

 さらに言うと、ADAは助成金プログラムではなく自由権の救済に関する法律ですから、その目的は、社会的、経済的な従属関係を織り成している受け入れがたいシステムに寄与してきている雇用者の態度を変えることにあります。差別禁止の枠組みのなかで、ADAは障害者に対する社会規範を変える3つのレベルの制裁を持っています。第1に、ADAが議会を通過するということで、障害者に対する差別をモラルに反する悪であると多数が信じているというメッセージを一人一人に伝えています。たとえ、ADAが、障害者を排除し続けようとする個々の雇用者の考え方を変えないとしても、障害を理由とした排除がモラルに反するという枠組みがあることから、雇用者たちは社会的非難を恐れ、そうした行動をとらないようになります。そうした非難が公式、非公式のいずれであったとしても、雇用者に影響を及ぼすのは事実です。また、ADAがあることで、障害者を排除する雇用者が排除をやめるまで、他の雇用者たちが社会的圧力や非難を続ける理由となります。

ADAの経験からどのような政策上の教訓を学ぶことができるか?

 おそらく、社会学で言うところの「他者」と目される、これまで知られてこなかった集団のことを社会により知らしめることが、社会的規範の変革にとって最も有効な方法でしょう。障害に関係したスティグマを個人的(障害者として)あるいは直感的(障害者の世話をする側として)に理解している立法者たちによる「隠れた戦士」たちから、ADAに多くの支援が寄せられました。年齢を重ねることで障害をもたらす状況になっていったり、他の障害者との接点を持つようになってくると、人々はより「障害」と称されるものに対して敏感になっていきます。事実、以前に健常者であった人が障害者に変わっていく現象は、他のマイノリティー集団と比べると、独特なもので、こうした現象によって「他者性」というものは薄らいでいきます。ですから、私は、ADAに基づく賠償請求をしている中で最も多いのが腰痛持ちの健常者だという現状があったとしても、ADAの障害の定義を「重度な」障害に狭めていくことには反対してきました。価値の高い健常労働者が病気や怪我によって価値の高い障害労働者になることで、障害者コミュニティー全体が利益を得るという話は、信じるに値します。さらに、ADAが公共施設のアクセスの即時改善を求めていることから、施設所有者・管理者でもある雇用者はすでに雇用に関連した配慮に必要な費用の多くを別の形で投じています。また、州政府も地方政府もADAの公共交通や公共施設におけるアクセス基準を遵守することから、障害者は社会機能へ物理的に参加するということだけではなく、一般社会と相互関係を持つ多くの機会を得るでありましょう。

 ADA施行後の障害労働者の雇用への影響に関する法的、政治的、経済的な分析では、全体として、労働市場への参加の拡大とADAの外にある環境的な要素との関係を説明できていません。つまり、公民権法としてだけのADAに焦点を当てたために、これらの分析は、公的なイニシアティブが公民権法の機能を形作る上で果たした役割を無視してしまったのです。そうした支援メカニズムの中には、ヘルスケアの利用可能性、公共交通へのアクセス、職業訓練プログラムの存在、差別禁止規定をどの程度政府機関が適用するか、そして障害者に対する雇用主の態度や世論の結果が含まれます。特に法的な分析においては、法律の範囲を超えた要素はほとんど無視されています。
 アメリカの政策立案者は、最近まで、環境的な要素と労働市場への参加との相互関係を見落としてきました。これは、障害者が職場や社会全体からシステム的に排除されていることを詳細に報じ、議会が障害者の完全参加を求めているとしたADAの議会報告に反するものです。しかし、政策立案者が統合を促進する上で、環境的な要素の役割を知ったのはこの数年のことです。ADA制定から8年後の98年、成人障害者の雇用に関する大統領特別委員会は、環境的な要素の重要性を認識し、クリントン大統領に政策イニシアティブを開発するように勧告しました。99年、労働省は、障害労働者の労働市場への参加をより進める特別な方法について広範な対話を行うよう促す報告を行いました。その年の後半にはTicket to Work and Work Incentives Improvement Act(勤労奨励促進法)が議会を通過し、公的支援を受けている障害者は有給の雇用を得た後でも健康保険を受け続けられるようになりました。ADA10周年の2000年7月26日、クリントン政権は、社会保障の障害関連の給付を受けている障害者が現金給付を失うことなく、より多くの収入を得られるような、一連の政策イニシアチブを発表しました。

 ADA後の雇用への影響に関して、法的枠組みの外からの影響について触れた研究がほとんどない中で、2つの例外的な研究がMarjorie BaldwinとRichard Burkhauserによってなされました。Baldwinと彼女のチームは、アメリカの障害者の賃金や雇用レベルに雇用者の偏見が与えた影響について数量的な研究を行いました。この研究から、1990年には、障害者は110億ドルもの所得を失ったことが明らかになりました。その損失のほとんどが雇用者の偏見に基づくもので、所得を失った度合いは障害の種類によってまちまちでした。BaldwinはADAが偏見の影響を適切に考慮していないために、障害者の就業率の実質的な増加をもたらしていないと述べました。Burkhauserは、ヨーロッパにおける障害者を社会福祉のネットの中から労働力へと「移転」させる種々の政策と比較した上で、ADAが労働に関する連続したイニシアティブを欠いていると批判しました。Burkhauserは、国内政策におけるインセンティブや障害者の就労への期待を抱かせる度合いが、こうしたイニシアティブの成功と直接関係していると指摘しました。
 両者の研究は賞賛に値するものですが、いずれも、環境要素が質的にも量的にも障害者の就労にどのような影響を与えたのか、さらなる研究を必要性としています。障害者を職場から遠のかせるような、意欲を低下させる度合いを明らかにするような調査もさらに必要です。障害者の労働市場への参加を促す触媒の役割を果たすものについても検討されるべきです。法の範囲の外にある要素についての研究も、政策的なイニシアティブを作っていくうえで、豊かでより完全な知識的基盤を提供しうるでしょう。

まとめ

 ADAは国内外に強力で建設的な影響を及ぼしました。なぜある種の条件が不必要に排他的で、なぜ改められるべきかについて、モラル面で強い主張をすることで、ADAは障害者に利益をもたらしました。しかし、ADAが自由権的な視点から導き出されているために、いくつか必然的に欠点が生じています。矯正的正義という概念を掲げているわけですから、ADAモデルは、障害者を排除するために不当に作られた世界があるという考え方を認めようとしない根強い(しかし根拠のない)信念に、打ち勝たなくてはなりません。より重要な点ですが、ADAは自由権に重きを置いていますから、経済的、社会的、文化的な権利を完全に実施し活用することができません。

 ADAは似たような状況にある人が同様に扱われるべきであるとする、矯正的正義の考えを掲げています。ですから、配慮という概念を差別禁止の課題として位置付ける考え方を認めようとしない、誤っているのに根強く信じられている信念に打ち勝つために、ADAは政治的資本を使わなくてはなりません。言い換えると、ADAは裁判のみにその枠組みを設定しているために、その指針に効力をもたせるためには、抵抗勢力がはるかに勝る理念の戦場で勝つことが必要になっています。次に、ADAは同じ境遇に置かれている人の機会の均等を包括的に描いています。ですから、ADAは、障害者に益するであろう追加的な経済的、社会的、文化的な支援を否定しています。これらの権利は、2つの側面をカバーしています。まず、広範で包括的な原則を用いても現時点では個人の差異が考慮されないために、標準的な同一性の議論から漏れてしまう障害者の利益になりうる資格付与という側面があります。2つ目としては、すべての障害者が、基礎的な基準への平等としてではなく、人としての平等のために付与される、重要な経済的、社会的、文化的権利という側面があります。両者とも、ヘルスケアや教育が労働市場への参入を即時に可能にするために使われるといった具合に、第一世代の権利を効果的にするのに必要です。また、そうした権利は、でこぼこなグラウンドをならすために必要な、たとえば雇用の分野では、アファーマティブアクションや特別な権利のように、社会的展望を広げていくことにもつながっています。自由権に限ることで、ADAはそうしたエンパワーをもたらす規定を無視しています。

 すなわち、障害者の雇用を考えるにあたっては、平等な取り扱いと偏見からの自由を確実にするだけではなく、平等がもたらされるための手段も欠かせないということです。