音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

障害者の権利条約-その意義、条約策定過程、今後の課題

伊東亜紀子 国連障害フォーカルポイント(国連経済社会局)

2007年10月

(略歴)
上智大学法学部国際関係法学科卒。シカゴ大学にて
政治学国際関係修士号、カリフォルニア大学バークレー校Boalt Hall School of Lawにて法学修士号を取得後、 国連麻薬統制計画法務担当官を経て1994年より国連における障害問題に取り組む。

1.障害者の権利条約-その意義、条約策定過程、今後の課題

1 現状

障害者権利条約は、2007年3月30日、署名のために開放され、国連総会議場で行われた署名開放セレモ ニーでは82カ国が署名、ジャマイカは批准もした。4月11日現在、86カ国が署名し、選択議定書も45カ国が 署名済み。この条約は20カ国が批准した時点から30日後に効力を発する。10月1日現在は批准しているのは5カ国だが 日本が9月28日に高村外務大臣が毎年行われている国連条約加入に関する式典に 参加、国連障害者人権条約の115カ国目の署名国となった。
(詳細は次のサイトを参照 http://www.un.org/disabilities/

発効後は6ヶ月以内に締約会議が国連事務総長によって召集され、実施やモニタリングのための委員 会を正式に設置する予定。国連事務局経済社会局(以下DESA: Department of Economic and Social Affairs)の情報によれば、条約の実施に関する事務局はDESAと国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が担当となり、履行に関する報告書の審査などの業務を行うことになるだろう。

2 内容及び策定過程

障害者権利条約は、アクセシビリティ(9条)、教育(24条)、十分な生活水準及び社会保護(28条)など50条からなり、別途選択議定書(注:国内手続きを尽くしても権利が保証されない場合に、個人の資格で国連に置かれた委員会に通報できる制度を定めたもの。)がある。

障害者の人権を守るための包括的な条約を作る策定過程の当初、この条約の位置づけが話し合われた際、1)被差別を唱える (ヨーロッパ諸国が主張)、2)子どもの権利条約のような包括的な人権保障を明記する、という二つの意見があった。国連の今までの障害者政策や人権アプローチ(rights-based pproach)を鑑みて、包括的に障害者の人権を定めることを目的とし、条約策定が始まった。

本条約の特徴:
本条約は、障害者のために新しい権利を定めたものではなく、普遍的な人権を障害者の観点から定めたもの。権利の内容は、経済活動、文化、教育など誰もが有するべきものだが、これらを障害者が実現していくために必要な権利として、例えばアクセシビリティ (9条:自由に公共のサービスや施設を利用したり様々な情報を入手したりできること)が条項として挙げられており、これは他の条約には見られない。

日本語訳については、条約策定過程を通し、日本のNGO代表である日本障害フォーラム (Japan Disability Forum: JDF) のメンバーでもある川島聡・長瀬修(共に東京大学大学院経済学研究 科)が仮訳を行ってきた。 JDFは、日本の障害者NGOのプラットフォームで、国際障害コーカス(International Disability Caucus) に参加し、本条約起草においても重要な役割を果たした。

条約策定過程における特徴:
当事者である障害者自身がリーダーシップを持って条約策定に向けて取り組んだ。
この条約策定以前は、障害者は人権保障の枠組みを作るために自らが主体となって取り組んだ経験がほとんどなかった。一方、国際人権法の専門家の中にも、障害者の抱える問題に取り組んできた人は少なかった。本条約の策定過程を通して、障害者は国際人権を障害の観点から定義し直し法の枠組みを学ぶとともに、法律の専門家は障害について学ぶという双方向の学びがあった。

例えば、自立した生活及び地域社会への統合(19条)の討議においては、障害を持つ人々が自由を奪われてきた自らの歴史を訴え、それを法律の専門家が法律の文言に変えていった。また、障害者自身が会議に専門家として参加し、自分達の経験を話すことで関係者が障害についての理解を深め、それが条約に反映されていった。
条約策定は、障害者と法律の専門家、そして国連諸機関にとっても能力向上(capacity building)の場となり、条約の策定過程自体にも意義があった。

策定にいたる経緯:
そもそもこの条約をつくるという動きがどう始まり、なぜその過程に障害者が主体的に参加することになったのか?

この条約以前は、1982年の世界行動計画および1993年の障害者の機会均等に関する標準規則(以下 標準規則)が障害者施策上の主たる柱であり、この二つをもとに各国の障害者の権利向上に関する政策の履行や進捗をモニタリングしていた。その中でももちろん障害者の参加はあったが、国際社会の場でリーダーシップを取るまでの動きではなかった。

50-60年代は、社会福祉の観点から、技術協力(例:障害者への職業訓練)などが主に行われていた。

70年代に入ると、人権や開発という言葉が国際社会で多く用いられるようになり、障害者の分野でも使われるようになった。

これに併せて、障害者の人権という意識が向上し、 それらが文書化されていった (例:71年知的障害者の権利宣言、75年障害者の権利宣言)。この機運が82年の障害者に関する世界行動計画採択につながる。このようにして、それまでの福祉的観点から人権を中心とする観点へと移行していった。

1983年から1992年の国連障害者の十年の最後に、人権条約を含め障害者の人権に焦点を当てた文書を作ろうという動きがあったが、この時点では人権条約を作るまでには至らず、妥協の結果として1993年障害者の機会均等に関する標準規則(障害者の人権を守るためのガイドライン)が採択された。

この標準規則の特別報告者として、スウェーデンの福祉大臣も務め、自らも視覚障害を持つベンクト・ リンクビスト氏が任命されたが、これにより、障害者も国際的な活躍が出来、またこの標準規則は障害者自らのためにある文書なのだという意識が高まり、世界中に障害者人権向上のための活動が広まっていった。このころ私も障害者の権利に関わるようになったが、標準規則をどう普及し実施していくかについて広く議論されていたことを記憶している。

1995年前後は、国連開発環境会議(リオ・デ・ジャネイロ、1992年)、世界人権会議(ウイーン、1993年)、社会開発サミット(コペンハーゲン、1995年)などに見られるように、開発に関する議論の中で、人権を重視する意識がより高まっていた。人権アプローチが障害者の開発にも取り入れられていったものの、この時期はまだ標準規則を広めることが主眼であった。

1997年に国際規範と障害者の人権という国連専門家会議がカリフォルニア大学で行われた。ここでは障害の専門家と人権の専門家が集まり、既存の国際規範を使ってどのように人権を保障していくのか?というテーマで、初めて具体的な議論が行われた。その中で出された課題は、障害者の人権保障に関しては専門家の間でもまだ経験や知識が不足しており、 既存の人権条約の適用もさることながら、国際的・国内的人権保障システムの構築に努める全ての人々が障害に関して学ばなくてはいけないということであった。

1999年には米州機構(OAS)が障害者差別撤廃条約を採択するが、履行において各国の裁量が大幅に認められたため、実効性に問題があることを否めない状況であった。
この年の12月、香港特別行政区(中国)で国連および国連機会均等委員会の協力により大規模な地域間フォーラムが開かれた。このフォーラムでは初めて障害の専門家、障害者の世界的指導者や政策決定に関わる政府要人が集まり、国際人権法と障害、障害とIT、アクセシビリティ、障害の文化や障害の定義について大規模に話し合われた。そして障害者の権利、学術研究を巡る大きなネットワークが形成された。

しかし、2000年の国連における障害者の人権に関する時も、まだ標準規則が活動の根拠の中心であり、権利条約を作ろうという案はだされたものの中心的な議題にはならなかった。

2001年、国連・人種主義、人種差別、外国人排斥およびそれに関連する世界会議がダーバンで開かれた。ここでメキシコ代表団が「障害者権利条約を国連総会の議題としたい」という提案を行い、その行動計画 (第180段落) に第56回国連総会で条約に関して討議を行うことが明記された。

同年9月、メキシコ政府代表者から具体的に権利条約策定に向けてのプロセスを始め、国連総会で提案したいという話があった。3ヶ月間の難航した交渉の末、11月、国連総会において「2002年に人権条約に関する提案を考慮する会議を行う(“consider the proposal for the convention”)」という合意に達し、アドホック委員会を開き新条約に関する提案を検討する旨の決議がなされた。しかし、この時点でヨーロッパ諸国はまだ新条約を策定するという案を文字通り“考慮する”だけ、一方メキシコは草案策定交渉を始めるための決定がなされたというようにそれぞれ理解しており、総会決議の解釈と取り組みの温度に各国間で相違が見られた。

国連総会決議を受け、2002年7月に条約策定に関する第1回アドホック委員会が開催された。これに先立ち、メキシコは草案を提出し、専門家の意見を反映した上で、アドホック委員会の場で提案したいという意気込みで、非常に積極的に条約策定を推進しようと様々な活動をしていた。このことは、今まで障害者支援の分野で主導的な役割を果たしてきた国々にとっては意外なことであり、意見の相違が表面化した。結果的にこのアドホック委員会ではメキシコの作成した草案自体がすぐに委員会案になることはなく、メキシコとヨーロッパ諸国との間で調整が必要になった。

この条約は最初に言ったように署名開始時点で82カ国という歴史的多数の国の署名を得るなど、最初から各国の理解を得て策定が進んだかのような印象をもたれるかもしれないが、当初はこのように提案国とそれを支持する国や地域対他の国や地域という政治的対立があったことも事実だ。これに対して障害者の組織は、国際的な障害者団体の連合体である国際障害コーカスを発足させ、世界的連携を図る道のりを辿ることになる。

その後、2003年6月から具体的に条約の起草過程が始まることになった。当初は、どういう条約を作ればいいのかというテーマで専門家のパネルを三つも開くなど、例を見ないほど時間をかけた討議がなされた。しかし、ルイス・ガジェゴス議長案を叩き台にした作業部会草案を基に討議が重ねられ、一時期は一進一退の観もあったものの、その後マッケイ議長のもとで迅速に討議が進み、2005年10月には現在の条約の原型がほぼできあがった。その後、2006年8月、第8回アドホック委員会にて条約草案が合意され、その後文言の調整を経て、2006年12月13日、第61回国連総会が全会一致にて新条約を採択、障害者権利条約が誕生した。

ではなぜ、メキシコがこの条約策定において主導的役割を果たしたのか?
これにはメキシコの国内的な動きが大きく影響している。フォックス大統領が選出される際同じく大統領候補だったのが、市民人権活動家でもあるリコンガジャルド氏。彼は色々な苦労を重ねた人で、また障害者でもある。人権や社会保障の分野においてフォックス大統領から信任を受けるという関係が構築されていた。彼にはOASの条約の策定に関与した経験を国連における国際人権条約に結び付けたいという意志があり、メキシコ政府の代表としてダーバン会議でメキシコが条約を提案する際の立役者になった。

それまで障害分野で先駆的役割を果たしてきた国々からすれば、本条約策定に関してはメキシコに先を 越されたという感があったのかもしれない。しかし、様々な政治的過程を経て、多くの加盟国が積極的に条約策定過程に参加し、最終的には全ての加盟国の賛同のもと、新条約が成立することとなった。

3 条約の今後

今後は、この条約をいかに履行していくのかが大きな焦点となる。この条約によって、人権保障システムはどのように変わっていくのか?既存の人権条約(女性差別撤廃条約、子どもの権利条約など)の履行にかかわる経験をもとに、国連は障害者権利条約を推進していくこととなる。

この条約のユニークな点として、障害というのは固定概念ではなく時代や環境によって変化していく概念であることを確認したことが挙げられる。例えば車椅子の人もバリアフリーの環境であれば障害が“障害”とならずに生活できるし、医学や技術の発達によって生活上の障害がなくなることもある。
また子どもの権利条約では、子どもとは18歳以下の人と明確に規定され、はっきりと対象が想定できるが、高齢化社会では全ての人が障害を持つ可能性があり、障害者というグループは決して固定できるものではない。そこで、条約自体幅広い人々を想定し、障害を持つことイコール社会参加に障害を持つ、ということにならないよう、社会を変革してくための礎になろうとする精神が貫かれている。

障害者の定義は時代や環境によって大きく変わるものであり、条約も柔軟性を持って使われるべきだと 考える。常に社会の状況に照らして個人の人権を守っていく方策を具体的に考えていかなくてはいけない。

また、いかにして開発問題に障害者の人権の観点を統合していくかということも課題。条約策定過程に 見られたように、他の分野との協力体制をあらゆる分野で確立していくことも重要である。障害がジェンダーのように社会分析の一手法となるために、その先進性が多くの研究者によって迅速に取り入れられ、法律やIT、科学技術一般などあらゆる分野で学術研究に実りをもたらすことが、条約の実効性にとって今一番必要とされている。

2.国連障害プログラムにおける今迄を振り返って
    国連職員として、国際人権法の一研究者としての障害への取り組み

国連の職員としてー 障害問題担当に至る迄。

随分早い時期から国際公務員を将来の仕事として考えていましたが大学進学にあたって、世界が抱える多くの問題を解決するためにはどういう手段があり、自分がどのように具体的に貢献できるのかを考えた時、法律を選びました。法律は社会のさまざまな問題に関わっています。私は特に女性の人権問題、つまりどうすれば差別を是正し女性の地位を向上できるのかということに関心があったのですが、こうした問題に取り組むためにも法律は非常に有用な手段です。そこで上智大学に進み、国際法を中心に国際関係を 学びました。当時のベルギー皇太子が来日された際にベルギーの研究者の方の知己を得たり、また恩師の友人であるベルギーの教授への紹介もあったことから、大学卒業後はベルギーにある大学院に進むつもりでした。 書類手続きなどもすべて済んでいたのです。ところがたまたま応募していたサンケイスカラシップ奨学生に選ばれ、予定を変更しシカゴ大学の大学院に進学して国際政治、国際関係を学びました。その後さらにカリフォルニア大学バークレー校に進み法学修士号(LL.M.)を取得しました。

バークレーでの研究も終わる頃、サンフランシスコにあった日本企業の法務を担当していました。その時期日本領事館を通して国連競争試験を受け一次試験に合格し、数か月後に同じようにニューヨークに向かい面接を受け、最初の試験から合格発表まで6か月かかりました。国連競争試験合格後、ウィーンの麻薬部勤務のオファーがありこれを受けてウィーンに移りました。当時、麻薬に関する問題を担当する部署は三つあったのですが、私が赴任して半年くらいしてから、これらは国連麻薬統制計画として統合されました。私はここで、政府間の交渉を担当する麻薬統制委員会付きの社会問題担当官、その後法務担当官としても働きました。ウィーンでは計4年間勤務しましたが、その間いろいろな仕事をする機会に恵まれました。南太平洋における麻薬関係のマネーロンダリングの調査にも携わり、 南アフリカ共和国(以下、南ア)での選挙監視にも行きました。

この南アでの選挙監視の仕事は非常に心に残っています。上智大学での指導教授で、大変高名な国際法学者でいらした恩師が、長年反アパルトハイト運動、人種差別をなくすための活動に参加していらっしゃいました。大変強い義務感を持っていらした方でその世界観、法律家として社会正義を突き詰めていく姿に大変感銘しておりました。ですから国連のミッションとして南アの選挙監視に行くという任務には迷わず手を挙げました。

私はオランダ殖民地の歴史を名に残すOrange Free State(オレンジ自由州:オランダ王家の色がオレンジ現在の自由州) における選挙監視を担当したのですが、この地域は見渡す限り農地。ただ、農地といっても土地は荒野で、何十年も開拓して初めて収穫を見込めるような場所です。ここで私はオランダ人のジャーナリストとチームを組んで、車で投票所から投票所へ移動し、投票が公正に行われているかどうか、選挙を管理する係の人たちが適切に監督しているかどうかなど、国連の手順書に沿って監視しました。何か問題があると、携帯電話のない時代ですから、宿に帰って交換手が電話線をつなぐ1920年代かとも見間違うような電話機で本部に報告をしました。

この仕事は、それ自体がかなり重責であったとともに、アジア人であることもあり、肌の色による強烈な差別を自分で感じたことも、とても強く心に残っています。 保守的白人層の人々から“なぜお前が監視側で働いているのだ”という視線は当たり前のようにありました。でもそれ以上に怖いと思ったのは、私が 泊まっていた宿でのことです。この宿の女主人はオランダ系白人だったのですが、「私の夫は和解委員会で働いていて、今後の新しい南アに貢献しているのだ、私はそのことを誇りに思う」と私達に言うのです。そしてそう言ったそばから、私達の黒人の運転手に向かっては「あなたは黒人だからここには泊まれない」と言うのです。

和解や平和と口では言っていながら、おそらく自分ではそれと気付かぬままに歴然とした差別を繰り返していく。この対比に私は大きなショックを受けました。そんな女主人の運転手に対する態度に私は断固として抗議し、結局運転手だった人たちも大部屋をシェアーすることはなんとかできることとなりました。

何十年も人種差別が当然の生活をしていたのだから差別、偏見がすぐには消えないのは仕方がないかもしれない。でも、目の前にいる人を公然と差別する、そのあまりに“自然な態度”に、私は頭では理解していたアパルトハイトという人種差別問題の根の深さを見たような気がしました。この経験は、私がその後1994年からニューヨークに移り障害者問題を担当するようになったことにも影響したかもしれません。

私も含め、人は誰でもある程度生まれた社会や時代の産物なのだから、差別の意識が刷り込まれていることはあるかもしれません。でもせめて、自分を客観視できる立場にいる私達は、社会への義務として、自分の中に潜む差別の意識を分析し、いろいろな媒体を使って一般の人の目線で問題の解決に向けて考えていかなければいけない。そして国連の多くの任務は、問題を解決するためのきっかけをつくることだと考えています。

ニューヨークの障害者プログラムへの配属

私がニューヨークに赴任した時、前任者はいるにはいたのですが私の赴任後すぐ定年退職してしまいました。まだ経験もなく障害者問題についての専門的知識も限られている。そんな状態で一人、国連の障害プログラムを担当することは大きな挑戦でした。
プログラム担当者としての仕事は、国際障害者の日(注:12月3日)などのイベントから報告書を書くまで多岐に渡ります。国連の会議で、加盟国から私の所属する社会経済局の事務次長補に対して障害者問題に関して質問が出た場合は、その回答案も起案しなくてはいけませんでした。障害者問題に専門的に取り組み始めたばかりなのにも関わらず、国連の障害者問題に対する取組みを代弁しなくてはいけない立場にあったため、最初は戸惑うことばかりでした。一つ私にできることといえば、自分の専門である国際人権法を使って、どうしたら障害者の権利を守ることができるのか考えること。既にある国際的な人権条約に限らず、例えばミレニアム開発目標のような広い意味での国際的な規範や合意を策定していくことが、専門を活かし、かつ障害プログラムの発展に貢献するために自分がするべき仕事だと思いました。

そこでまず、人々に広く障害プログラムについて知ってもらうため、インターンの方たちと協力して国連の障害に関する古い記録をすべて掘り起こし、国連創立50周年に併せて「国連と障害者-初めの50年」 (The United Nations and Disabled Persons -The First Fifty Years) という刊行物を出版しました。これによって障害者プログラムの歴史と今後の活動の基盤を明確にしました。次のステップとしては障害プログラムの使命を明らかにすること。そのために、国連総会や社会開発委員会が障害者問題についてどんな行動をおこすべきだと言っているのか深く理解することが大切でした。そしてさらに根本的な課題としては、国連機関のさまざまな活動の中に、どうすれば、そしてどのように障害者問題を取り入れてもらえるのか。この三点が、私が障害者プログラムを展開していく上での支柱になりました。

具体的に説明しますと、まず今ある国際規範はどのように障害者のために使うことができるのか、ということを学ぶためのプロジェクトを実施しました。 手始めとしては自らいろいろな学会などに出かけ、国際人権法の学者や障害者問題の専門家などとのネットワークを構築し、勝手に自分のための障害問題専門家グループをつくりました。

その上で、1998年にカリフォルニア大バークレー校で障害者の問題に関する専門家会議を開きました (UN Consultative Expert Group Meeting on International norms and Standards Relating to Disability, Berkeley, USA)。この会議では、ネットワークで知り合った専門家から、今まで障害者問題に関わったことのない国際法学会の会長の方まで、色々な方に来ていただきました。彼らは、最初のうちはそれこそ皆なぜ自分がここに呼ばれたんだろうと考えているようでしたが、話し合いを進めていくうちに、国際法の専門家と障害者問題の専門家、それぞれ「自分達にはこういうことができる」、「こういう点で協力することができる」、そして、例えば障害の専門家は「国際法を使えばこういうことができる」ということが分かってきたのです。この双方向の学びを通して、障害者と国際法の接点を探すステージからより具体的な提案をするステージまで到達することができ、非常に実践的な報告書もできました。

翌年1999年には香港で今度は地域間会議を行いました(Interregional Seminar and Symposium on International Norms and Standards relating to Disability, Hong Kong, SAR)。ここでは三つの問題が取り上げられました。一つは国際規範をどう戦略的に使って障害者の人権を擁護していくのか。二つ目はITの企業なども招いてアクセシビリティーの問題を取り上げました。三つ目は障害の定義の問題。あらゆる分野の専門家がこれらの問題を中心に、どのように障害の問題に取り組んでいけばいいのか話しあいました。

 私の仕事はこのように、ロードマップを描き、研究案をまとめるなどして、専門家の方々に広く障害に関する問題を話しあってもらうよう促進することです。学際的な議論を実現するための機会を提供し、さまざまな分野の人々の出会いをつくる、これにより自分自身も国際人権法と障害について研究をすることができ、この90年代終盤は非常に充実した時期でした。

その後2000年ごろから社会開発委員会でも障害者問題について何か国連が新しいイニシアチブをとれないかという機運が高まりました。同じ頃メキシコが障害者の権利に関する条約を策定しようという提案をし、これがきっかけとなって、2006年末に採択された障害者権利条約が生まれたのです。当初はこの条約策定プロセスの事務局としての作業は非常にたいへんでしたが、4回目のアドホック委員会が行われる頃からでしょうか、議論や手続きがスムーズに動き始めました。そこでこの頃からは、条約の採択・批准の後にくる履行に関しての準備を始め、今もこれに取り組んでいます。

 日本では近々JICAとJBICが統合し、世界で最も大きな規模の開発援助機関が誕生します。その活動の規模も与える影響も大きいですから、非常に期待しています。障害はいつでも誰にでも起こりうる問題であり、障害者の方々と家族の方々とそのコミュニティーの人々含めれば、世界のかなり多くの人々が抱える問題でもあります。ですから、開発における障害者問題対策の分野において、日本の貢献は世界でも期待されていると思います。例えば、今後開発プロジェクトを行う時には必ず障害者の参加、障害者との対話を促進し、障害者と共に 実施していくことを原則とする、あるいは、日本の進んだ科学技術でこれから更に障害者支援に役立つものを開発援助のパッケージに盛り込むといったことなどが考えられます。

開発にはさまざまな分野がありますが、開発援助に携わるすべての人が障害に関して高い専門的知識を持つ必要はないのです。それぞれがそれぞれの分野において、「自分達のプロジェクトではこのように障害者支援を取り入れていこう」という姿勢で取り組んでいけばいいのです。既に世界銀行や地域開発銀行、またJICA,USAID, FINIDA, DANIDA, SIDA をはじめ、障害者の参加を取り入れてプロジェクトを進めている開発援助機関もありますから、そうした機関の活動から、どうすれば開発の中でより多くの障害者が参加していけるのか、成功例などを抽出し方程式をつくっていけるといいですね。現在国連システムのなかでもDisability mainstreaming が始まりつつあります。たとえばミレニアム開発目標を達成していくためのプロセスにも、全てのレベルで障害が含まれていくことが最も重要な突破口になると思います。