1.パラリンピアンの立場から

 大日方 邦子
一般社団法人日本パラリンピアンズ協会 会長

 よろしくお願いします。座って失礼します。皆様、こんにちは。ご紹介いただきました日本パラリンピアンズ協会会長の大日方邦子と申します。本日はよろしくお願いします。ハイブリッドということで、多くのみなさんがオンラインの向こう側にいらっしゃり、一部の方はこちらにもお越しいただいているということですので、やり慣れないのですけれど、進めさせていただきます。

 まず、前半は、私がスポーツにどう出会ったのかということ、少し長めの自己紹介、スポーツジャーニーの話をいたします。その後、自身が経験した長野パラリンピック、そして少し立場を変えて経験した東京パラリンピック、こちらのレガシーについて、皆様と一緒に考えていく。そんなお話をいたします。

 私は、パラリンピック、アルペンスキーの選手として約20年間にわたって活動してまいりました。1994年のリレハンメル。今から30年近く昔ですね。最近は、若い人達に話をすると、まだ生まれていない、と言われることが多くありますけれども。そんな時代から、パラリンピックを見てきております。そして2010年のバンクーバーのパラリンピック。こちらまで5大会に出場しまして、金メダルを含む10個のメダルを獲得しました。

 そして、2018年平昌パラリンピックには日本選手団の団長。東京2020大会では選手村の副村長といった活動もさせていただいています。

 私が、障害者というアイデンティティーを持つことにいたったのは、3歳10か月のときの交通事故によるものです。右足を膝上から切断し、左足にも交通事故の後遺症で機能障害が残りました。

 日常生活では義足を使って、杖を使って歩くこともあれば、速く歩くことが難しいため、車いすも併用しています。 

 スキーとは17歳のときに出会いました。場所はこの横浜市総合リハビリテーションセンター、ここです。先ほど基調講演でも話がありましたが、チェアスキーの開発をしているところを偶然目にして、あれっ?座ってすべるスキーもあるんだということで、これなら自分もスキーができるのではないか。そう思ったのがはじまりです。

 スポーツの開始という点では、私の原点は幼稚園の運動会だったと思います。事故の後、約3年間の入院生活を終えて退院し、小学校に上がる前の数か月間だけ、地元の幼稚園に通うことができました。幼稚園の運動会では、私が参加できるプログラムを先生方が考えてくださいました。何を披露したかというと、鉄棒、逆上がりをすることができるように、ちょっと前になっていました。それを皆さんに見せようというプログラムを一緒に考えてくださって、そこで拍手喝采。皆さん、温かいお友達や先生方だったので、自分もできるなということを感じることができました。

 小学校も地元の一般の小学校に通いました。30年以上前で当時は身体障害がある児童が一般校に通うことは珍しく、身体障害のあった子どもは私だけだったかもしれません。そんななかで最初、体育の授業は見学してください、課外授業も無理に参加しなくてもよいと、言われていましたが、両親が、何とかできる形を探して体育の授業や課外授業にも参加させてほしいと、先生方と話し合いを重ねてくれました。運動、スポーツをすることは自分の中では当たり前なことと思っていたので、運動会でも、例えば、地面にしゃがんで、立ったり座ったすることが難しい、そのとき椅子を持って行って、参加すればよいとか、工夫をしました。

 小学校2年生だったと思いますが、30m走というのがあり、当然私が走れば他の人よりも遅いけれども、その30mをゆっくり自分なりに一生懸命走りました。そのとき、周りの人がすごく拍手して迎えてくれたんです。そんな中で、自分にもできるやり方を考えながらスポーツを楽しむことができるんだな、そういう実感を小さいながらも、成功体験の積み重ねもあったと思います。

 他の人とは違うかもしれないけど、自分なりのやり方を工夫したり、周りの人、一緒にやってくれる人を探したり、あるいはルール、用具を考えて、工夫してやっていくと、スポーツって結構楽しめる。こんなことを小学校・中学校のときに経験することができ、そして、今、スライドにも映っているチェアスキーという競技用具との出会いを通じて私の人生がスタートしました。私自身も、立って滑るのがスキーだと思っていたので、座ってすべることができるんだというのは驚きでしたし、何よりも、やってみて楽しかったです。

 こんな出会いがあって、本格的に競技を始めたのは大学生になってからです。当時私にチェアスキーを教えてくださったのが、この横浜ラポールの指導員の方でした。その後、94年、98年、2002年とパラリンピックにも選手、コーチ、監督という立場で一緒に行った山川さんには、私が競技者として何もわからない頃から、アスリートとして身につけていくべきことを一から指導していただきました。横浜ラポールが競技力向上のスタート地点でした。

 そして98年の長野大会、2006年のトリノ大会で、2つの金メダルをとることができました。長野パラリンピックのときのことは皆さん、覚えていらっしゃいますでしょうか。社会的なフィーバーが一瞬おこりました。

 パラリンピックが新聞、スポーツ紙の一面にチェアスキーで滑っている私の写真が掲載されまして、そこに、強い女はかっこいい、だったか、そんなキャッチコピーでした。

 当時、皆さん、電車の中で新聞を見る時代。そんな時代にチェアスキーヤーを新聞1面で初めて見たときのインパクトは、ものすごいものがあったんだろうと思います。何より良かったのは、そこでパラリンピックを知っていただくことかできました。当時は、オリンピックはもちろん知ってるよ、でも、パラ何とかって何?という反応が、国内では大部分だったんです。けれども、パラリンピックを見た後は、皆さん、名前は少なくとも知っている、そんな形にはなったと思います。そして8年後、トリノパラリンピックで再び金メダルを取ることができました。

 こんな形で、私はパラリンピックに20年以上選手として挑戦し、その後も様々な支える側という形で関わり続けています。夏のパラリンピックには現役選手の時代からメディアとしてかかわっていました。大学卒業後、NHKで番組制作のディレクターとして勤務し、選手と番組ディレクターという二足のわらじを履いていた時代が10年あり、2000年シドニーパラリンピック、2004年アテネパラリンピックは取材する立場で参加をしました。長野パラリンピック以降、本当に日本からは、ありがたいことに、メディアの方が、毎回、パラリンピックのときには現地にたくさん取材にきてくださいます。

 そして、パラリンピックをどう伝えたらいいかという議論と準備を、4年に1度ずつ、ムーブメントのように繰り返しながら、ちょっとずつ成熟していった。そんなことがこの10年、15年ぐらい繰り返されているのではないかと思います。

 残念ながら、2022年の北京パラリンピックは、東京2020大会同様、感染症の影響で、日本から観客が駆けつけることができなかったですし、メディアの方々も、かなり人数を絞って参加される形になり、選手団への取材もかなり限定的な形になってしまいました。さらにウクライナへの侵攻もあり、メディアで報道される時間数は、東京大会以降の初めての大会としては、少なかったかもしれない、そんなふうに思っています。そんな中で、今日のテーマでありますレガシーについて、少し定義についてお話しさせていただきます。

 まず、レガシーという言葉、「遺産」と日本語では言われていますが、オリンピック・レガシーという言葉を皆さんはご存知でしょうか?こちらのスライドにも示してありますが、オリンピック・レガシーは、オリンピック憲章に記載があり、オリンピック競技大会のよい遺産がレガシー、これを開催都市と開催国に残すことを推進しましょう、こんなことが書かれています。

 オリンピック開催を機会として、きっかけとして、社会に生み出される持続的な効果、ここがポイントだと思います。この持続的な効果をオリンピック・レガシーと呼んでおります。現在はオリンピックとパラリンピック、1つの組織委員会として、一体的に大会を進めることになっており、2012年のロンドンの頃から、特にパラリンピックに関する開催についてのレガシーについても、記載がされるようになりました。ここではパラリンピックも含めたオリンピック・レガシーという概念でお話を進めたいと思います。

 オリンピック・レガシーには、図に示しているとおり、5つの分野で考え方が整理されています。スポーツ、経済、都市、環境、社会、という幅広い分野ですが、本日、私がお話できるのは、スポーツのなか、そしてとりわけ競技スポーツ、先程、田川さんからご整理いただいたところの競技力向上という視点でのレガシーに限定して言及させていただきます。

 また、スライド資料のレガシー・キューブという考え方も少しだけご紹介させてください。レガシーには、ポジティブなものとネガティブなもの。よいものもあるが、残念ながらあまり良くなかったものもある。また、有形のもの、例えば施設設備のような目に見える有形のもあれば、人々の意識の変化というような無形のものもあると言われています。また、このレガシーにはあらかじめ、こういうものを残したいと考えて残す計画的なものと、結果的に残ったものという偶発的なものという、こういう3つの軸で整理する、そんな考え方があります。

 リハビリスポーツに関わるみなさんにもオリンピック・レガシーの概念を知っていただく機会になればとご紹介をしました。

 次に、日本における障害者のスポーツ環境、3つの転換点と変化について整理をしていきます。

 まず、1964年の東京パラリンピック。このことをきっかけに、スポーツをする障害のある人がいる、ということが知られたのではないかと思っております。そして有形のものとしては、組織として、日本身体障害者スポーツ協会というものが設立されました。

 そして私自身が選手として参加した1998年の長野パラリンピック。この大会の後には、障害のある人がリハビリとしてスポーツをすることに加え、なかには、競技スポーツとして取り組む人がいて、競技団体が選手を強化して世界大会に派遣する。そういう競技スポーツの基本的な理解と制度ができたのではないかと思っています。

 長野大会の翌年には、日本パラリンピック委員会が日本障害者スポーツ協会、現在の日本パラスポーツ協会ですが、こちらの1部門に置かれました。

 では、東京2020大会のレガシーは、何だったのだろう。これは、オリンピックとパラリンピックに差をつけず一体的に強化をすることや、あるいは共生社会、多様性と調和、スポーツの意義という本質を考えられる大会になったのではないか、あるいはこれからなるのではないか、そのような評価をのちに、されるのではないかと思います。

 1964年の東京大会の頃は、日本選手の多くは病院や療養所で生活をしていて、仕事をしている人も少ない状態だった。一方、海外からきた選手達は、仕事をし、恋をし、そして家庭生活を楽しみ、子供もみなさん一緒にいる。そんな生活を社会でして、スポーツに取り組んでいる。そんな人達がいるんだと、すごく驚かれたと聞いています。

 そして先程の長野大会の時、この資料が先ほどの申し上げた新聞で、パラリンピック快挙連発とか書いてありますね。非常にみなさん、盛り上がっていただきました。

 そして右の写真ですが、これは優勝したときかと思いますが、私にとって宝物のような写真です。周りにいらっしゃる方は、自衛隊の方だったり、地元の方だったり。実はほとんど、パラリンピックのこと、あるいは障害者スポーツのことを知らない方たちで、私自身も、お目にかかるのが初めての方々。そんな方々だったのですが、日本の選手がメダルを取る、金メダルを取ったということを、とても喜んで、こんなふうに祝福をしてくれたんです。

 ここには、もう心の壁なんてなかったと思います。担ぎ上げたら危ないだろうとか、どんなふうにどうしたらいいかなんてことを、頭で考えるよりも、もう何よりも、自分たちが喜んでいるんだ、おめでとうという、そういう気持ちをこういう形で表現してくれたこと、すごく私は今も印象に残っています。

 一方で、こんなポスターが話題になった時代でした。長野パラリンピックの組織委員会が作成して視力があっても、なくても、人間です、両足があっても、なくても、人間です。これも非常に話題になりました。

 私、広告の仕事等にも関わっているので、インパクトのあるアイキャッチな言葉選び、あるいはあえて議論を呼ぶことで考えてもらう表現、という意味では必ずしも悪いものではなかったと個人的には思っています。当時の私たちは、当たり前のことをわざわざなんで言ってるんだろう、義足使っていても、それは人間でしょう、今更何を言っているんだろうなと、パラリンピック選手たちは笑って見ていました。

 一方で、パラリンピックそのものを報道することに対して否定的な意見がありました。障害のある人を商売の道具にするのか、視聴率を稼ぐために障害者を使っていいのか。あるいは、新聞の一面に載ったときも、大体の人はサイレントマジョリティなのですごく支持をしてくれて、ごくわずかだったようですが、一部の人は、新聞の一面に片足の人が載るのを見たくない人もいるんじゃないの? 障害のある体を多くの人に見せることになり、本人の心が傷つくんじゃないですかと、言われる時代でもありました。これが日本ではわずか四半世紀前の時代です。

 いろいろなことがありましたけれども、長野パラリンピックのレガシー、私が最大のものだと考えるのは、応援する人が増えたということだと思います。そのことによって生まれたレガシー、変わったことがあります。

 例えばチェアスキーでリフトに乗れるスキー場が増えました。今だとなかなか考えにくいですが、長野パラリンピックのとき、日本の選手たちが一番最初にやったことは、スキー場で練習できる場所を探すことでした。チェアスキーで滑れるスキー場、競技の練習ができる場所はさらに限られるんです。全国でも2~3箇所しかなかった練習場所を4~5箇所に増やすために頑張りました。チェアスキーでリフトに乗るためには、リフトのスピードを落としてもらうとか、最初のうちは、うまく乗れないこともあるので、そういうときに手助けをしていただくことが必要なこともあるんですが、当時はそんなのそりみたいだからダメ、ダメ。うちはスキー場だからねと、いっぱい断られました。

 そういうところに行って、一つひとつ説明をして理解を得る、というのが、まさにコーチたちの仕事であり、選手たちがパフォーマンスを見せるところでもありました。長野の後は、私が知るかぎり、スキー場でリフトに乗ってはいけないと断られるところはなくなりました。パラリンピックをきっかけに、段差解消をしてくれたスキー場直結のホテルや、車いす用の多目的トイレを作ってくれたところ。それから、まさに無形のレガシーとしては、障害のない人たちと一緒に、パラアスリートが練習をすることができるようになりました。

 実は、長野パラリンピックの後、日本チームは解散しました。このことをご存じの方、覚えてる方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。

 パラリンピックが終わったので日本選手団は解散したのですが、強化指定選手として集められてたものも全部、土台がなくなっちゃったんです。そうすると我々は練習する場所もコーチもいない。そんな中で手を差し伸べてくれたのが、じゃあ、「一緒に練習しますか?」と、パラリンピック会場になった志賀高原で練習していた中学生や高校生のチーム。あるいは、社会人たちもいるスキーレーシングキャンプから、「一緒に練習しましょう。ポールに入っていいよ」と声をかけてくださるところがけっこう増えました。

 一緒に練習すると、最初、皆さんびっくりするんです。どうやってチェアスキーで滑るんだろう、ラインは取れるのか、と。やってみると、スタートとゴールは一緒。その中で、こんなふうにスキーを操作しているんですね、とか、同じアスリート同士なので、過重のポイントはどの位置ですか、あるいはターンのきっかけの時、私たちはヒザや関節を使いますが、その代わりはこれですか?など、皆さん興味津々で聞いてくださり、なんやかんやしている間に、あっ、一緒だね、という話に結局落ち着きます。全然違う道具を使ってるのかと思ったけど、板も同じだし、スタートもゴールも一緒なんだと理解していただきました。

 同時に、何を手助けしなきゃいけないことも理解をしてもらいました。

 私自身も、回りのかたにはいろいろ助けていただいたり、心配してもらいながらもやって来ました。例えばチェアスキーでは派手に転倒すると板が外れてしまいます。自分でスキー板を取りいけないし、スキーを履くのも誰かに手伝ってもらう必要があります。すると、一緒に練習してる人たちがスキーを拾いにいってくれて、「どうすればはけますか?」、こうやってはかせて、手伝ってくださいます。その中で、コース整備はしっかりしないと危ないねとか、いい練習するためにはこういうところを丁寧にやっていく必要かあるんですね、などと相互に理解が進み、こういうことが徐々に起きてきたのが長野パラリンピックのレガシーだったと思います。

 しかし、残念ながら一過性として盛り上がったけれど、全体的に見ると、競技環境では、日本チームも解散して、コーチもおらず、日本障害者スキー連盟という今の団体も、当時はなかったので、なくなってしまった。8年間、私にとっては次の金メダルまでは長い時間だったと思います。

 次に、東京2020大会の話に進みたいと思います。よく皆さん、2回目のパラリンピック、日本での開催と言われますが、私は3回目の日本開催パラリンピック、2回目の東京パラリンピックだとぜひお伝えしたいと思い、1枚スライドをはさみました。東京大会のビジョンは3つあり、そのうちの1つが多様性と調和という言葉で説明されていました。オリンピック・パラリンピックで多様性、そして調和です。英語で、「ちがいを知り、ちがいを示す」もビジョンとして掲げられました。

 では、何なのか。さらにコンセプトの中でもう少し丁寧に説明されています。あらゆる面での違いを肯定する、自然に認め合う、共生社会をはぐくむきっかけとなる大会にしましょう、こういう決意が語られています。ここに参加している多くの方にとっては、そうだよね、ってきっと分かっていただける、当たり前のことだと思います。でも、これがスポーツ大会、オリンピック・パラリンピックで多様性と調和を打ち出したい、まさにこれをレガシーとしたいんだといった大会の意義は大きかったと思います。

 そして結果です。パラリンピック、メダル、日本選手団というところで見ていくと、金メダル13個、銀メダル15個、銅メダル13個という、選手たち、大活躍しました。東京大会は、過去の歴史から見ても、アテネのときが一番メダル数としては多かったんですが、非常に多いメダル獲得数。選手たち大活躍することができた。

 そしてもう1つ、優勝する選手達も非常に増えたということも言われています。好成績の後ろ側に、何があったのかというところ。ここがまさにレガシーをつくる、そういう意味では、残そうとしてきた人達の歩みです。行政もそうですし、みなさん、今日ここにいる様々な方達も、様々な形で支えていただいた、環境変化についてお話を進めていきます。

 東京オリパラ開催までの道のりを、少し年表としてまとめました。98年の長野パラリンピックの後、日本パラリンピック委員会が設立されました。それから約8年、10年近く、ちょっと時間があいているこの時代が、なかなか残らなかったレガシー、あるいは一過性に終わってしまった競技という部分で、私自身があがいていた時代でもあります。そんなことがありましたが、2011年、流れが大きく変わりました。スポーツ基本法というものが施行され、障害のある人達のスポーツ推進というものが、法律の中でしっかり進めていこうと明文化されました。

 ここは私個人にとっても、すごく実は思い出があります。当時、2011年のスポーツ基本法に向けて、スポーツ振興計画という、国の基本計画を立てる。そういう審議会の場に初めて参画させていただいたんですね。その当時の委員たちは、障害のある人がスポーツをする、ということを半分ぐらいの人しか知らなかったんです。障害のある人のスポーツって、スポーツなんですか?スポーツじゃなくてリハビリですよね?とか、福祉分野の話ですよねと言われたりしました。えっ?長野パラリンピックを経験しているのに、みなさん、忘れちゃったんですかということで、必死にお話しました。いわゆる健常者と言われる人が、様々なスポーツのレベルで楽しむように、障害のある人達も、同じようにスポーツを楽しむ。様々な立場で楽しみたいんです。そして私は、競技としてスキーをやりたくて世界に挑戦していましたなんていう話をしました。これは障害のある人も、ない人も一緒です。こんなことを繰り返しお話しながら理解を得ていった。こんな時代が、わずか10年前です。

 そして、2013年に、2020年のオリンピック・パラリンピックを東京で開催することが決まりました。開催招致の時には、実はオリンピックとパラリンピックのアスリートがペアになって、日本で開催をしたい、という思いをワークショップとかトークショーなどで、全国を回りました。

 オリとパラの交流、というのはアスリートたちのほうでは早く進んでいて、オリンピックとパラリンピックのアスリートが一緒に練習するということ、水泳や陸上、それからスキーなんかでも、少しずつ進んできていました。一緒に大会を開催することの意義、スポーツが持っているすばらしさ、自分達が信じているもの、こういったものを一緒に伝えると、何か変わるんじゃないかな。東京大会がよりよいものになるのではないか。そんな期待を込めて、オリパラのアスリート達が一緒に話をしたのを覚えています。

 そして2014年には障害者スポーツが文部科学省に、大部分という意味ですが、移管されました。そして2015年にスポーツ庁が設置、2016年に障害者差別解消法も施行されたと。この中で、非常にこの10年間、ギュギュっと短い中で、いろいろな競技環境が整備されていきました。ナショナルトレーニングセンター拡充棟というものも作られるようになりました。

 やはり大きかったのは、主管省庁が変更されたことだと思います。いろんな方がいろんな議論を丁寧にしながら、場合によっては力わざになったかもしれませんが、スポーツ庁が創設されたら、障害のある人も一緒にスポーツとして取り組むんだということが原則としてできたことによって、オリンピックの競技とパラリンピックの競技が同じように一元的に強化することが可能になりました。

 そして、ナショナルトレーニングセンターは東京都の北区にありますが、こちらにパラリンピックのアスリートもより使いやすい拡充棟が開設されました。これが2019年4月に開設、オープンしたのは10月です。そしてオリンピックとパラリンピックの共同利用化が進んでいきます。今では、オリンピックとパラリンピックのアスリートが、同じ食堂でご飯を食べて、同じ施設でトレーニングをして、障害の有無に関係なく、いろんな競技の選手が交流することが、ここでは、ごく当たり前の姿になっています。

 もう一つ、パラリンピックの好成績を支えた大きな存在は、日本財団の取り組みです。パラスポーツサポートセンターという競技団体を支援する組織を立ち上げてくださったり、パラスポーツの専用体育館を作ってくださったりとか、教育や、研究といったこと、こういったことをやってくださいました。そういう様々な方達の競技環境の整備という力のおかげで、選手たち、強化合宿が増えたり、強化合宿にかかる個人の負担が減っている。そんなことも、日本パラリンピアンズ協会が行ったアンケート調査の結果ではわかってきました。

 選手の協議活動を全面的にサポートしてくれる企業も増えてまいりました。私が長野パラリンピックに行った頃は、多くの人は自営業か公務員で、仕事を平日はして、比較的休みやすい土日に練習する。あるいはスポーツ活動に理解が得やすい職場を探したり、自分で働き方を調整しやすい仕事に就いて、仕事をしながらパラリンピックにも挑戦する。こんな選手がほとんどでした。けれども、東京2020大会では、多くのアスリートが企業に所属して、いわゆるアスリートとしての活動に業務として専念するような選手、あるいはプロ契約をする選手、そんな選手も増えてまいりました。

 ご記憶の方もいらっしゃると思いますが、国枝選手。グランドスラムも達成しましたが、パラリンピックの地位向上に貢献したということで、所属先から多額の報奨金を受け取る、こんな選手も出てきました。非常に素晴らしいことだなと思いますし、オリとパラに差をつけないというところ、そして、パラリンピックも障害のある人がスポーツをすることを同じように認められ、評価されたことと思っています。

 競技団体を協賛して、支援してくださる企業も増えています。ただ、少し注意をしてみなければいけないと考えているのは、やはり東京大会が終わった後で、競技団体の中には支援の打ち切りや減額を企業から相談されるなど、少しずつ後退モードが出ている点です。

 民間企業によるスポーツの支援活動が根付くことは本当に難しいことです。スポーツ選手、スポーツ関係者から、しっかりとスポーツができること、社会にできることを伝えていく努力が引き続き必要ですし、それがレガシーを作ることになると考えています。

 一方で、課題もまだ残っています。

 パラアスリート、パラリンピックに出場する選手の中にも、指導者に報酬をしっかり払えている人は、それほど多くはありません。つまり、まだまだ指導者が、指導するために、プロフェッショナルな指導者として活動する基盤が不十分。このことによって、支える人たちが十分に入ってこない、課題が残っていると感じています。

 また、もう少し残念なお話は、パラリンピックのアスリートでも5人に1人が、障害を理由にしてスポーツ施設の利用を断られたり、条件付きで認められた経験を持つ人が2割はいるということです。2016年と2021年の調査を比較したんですが、5年間でほとんど変わっていなかったのは大きな衝撃でした。ただ、断られた具体的な内容やシチュエーション、時間は聞けていないので、スポーツ施設の利用拒否や制限は減っている傾向にあるのではないかと思います。東京大会以降も、こういったことがなくなるように、続けて変化をさせていく、これが、レガシーを作っていくことだろうと考えています。

 スポーツ実施率です。スポーツ基本計画、今年の4月から始まった5年間の計画でも課題として大きく取り上げられています。健常者、いわゆる一般成人と、障害者・成人には、また実施率に相当、乖離がある。一方で明るい材料としては、障害のある若年層には、2012年の調査と比べると、飛躍的に実施率が増えています。これが22年、23年と調査を続けていった後にどう変化するのかはしっかりと見ていきたいと思っています。

 まとめです。東京2020大会のレガシーでパラリンピックにとって何より良かったのは、「見ておもしろかったね、すごいね、もっとみたいね」と感じる人が増えたことだったと思います。「すごいね」は長野でも言われました。でも、東京2020大会では「すごいね」の質がちょっと変わったように思います。すばらしい、おもしろい、自分と比較しても本当に力をもらえる。かっこいいね、そして、パラリンピックをスポーツとしておもしろい、といえることが完全に許容される時代が来たと思います。

 ハイパフォーマンススポーツの分野、競技力向上という意味では東京2020大会をきっかけに、大幅な競技環境の改善がありました。一方で、障害のある人があらゆる機会にスポーツを楽しむ環境を整備することは継続して取り組む必要がある、こういう課題も見えてきた大会だったと思います。まさにそれがスポーツを通じたインクルーシブな社会への持続的な取り組みをするということだと思います。以上です。ご清聴ありがとうございました。

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