鼎談 スポーツによる社会参加の実現 ~電動車椅子サッカーとの出会い~ 登壇

パネリスト 野田 拓郎 電動車椅子サッカー横浜連絡会 会長
三上 勇輝 電動車椅子サッカークラブ「横浜クラッカーズ」(電動車椅子サッカー日本代表)
司会進行 大場 純一 横浜市総合リハビリテーションセンター

大場/横浜市総合リハビリテーションセンターの大場です。この時間はスポーツによる社会参加の実現~車椅子のサッカーの出会い~ということで、お二人の方をお招きしています。会場の皆さんも、オンラインでご覧になっている皆さんにも電動車椅子サッカーのことをよく知っていただきたいと思っています。本来でしたら実は、この企画は3年ぐらい前に実行委員で話し合った際に、そのときは来場いただいた皆さんに、電動車椅子サッカーを体験していただこうと考えていました。その後感染状況により、なかなか体験を伴うことは、困難となりました。それに匹敵するような企画ということで、この鼎談を設けました。

 体験ができないのなら、せめても、ということで、今日は、私も初めて電動車椅子サッカー用の車椅子を乗って登壇しています。少し操作したところ、相当スピードとパワーがあって操作がなかなか厳しいというのが第一印象です。まず、電動車椅子サッカーのことをご承知ではない、あるいはあまり詳しくないという方もいらっしゃると思いますので、電動車椅子サッカー協会が作成した紹介動画がありますので、それを3分ほどご覧ください。では動画の配信をお願いします。
(動画配信 電動車椅子サッカー紹介動画についてはこちらとなります。 https://www.youtube.com/watch?v=WsXn1UErXPg

 それでは、今日の鼎談のお二人をお招きいたします。まずは三上勇輝さんです。三上さん、どうぞ。今日はドリブルをして来てくれました。このパスをどうするか。コントロールをしていただいております。おお、舞台ぎりぎりです。ちょっとひやっとしましたけれど、これも計算のうちですね。彼は日本代表のチームです。ナイスパスです。三上さんです。拍手をお願いします。

 それでは次は、野田拓郎さんです。どうぞ。拍手をお願いします。

野田/よろしくお願いします。

大場/お二人のご紹介を簡単に、まずは、今日は距離を保ちましたので、マスクを外してお話しいたします。

 野田拓郎さん、神奈川県藤沢市在住の50歳の方で、生まれつきで脊髄性筋萎縮症という神経難病で、筋力が衰えて車椅子生活をなさっております。今日はピンマイクをつけているのですけれども、普段もマイクとスピーカーでお話、発声をなさる方です。二十歳を過ぎて創成期の電動車椅子サッカー競技では、以来、25年に渡り競技生活を続けています。

 1999年に立ち上げた所属クラブ、横浜クラッカーズ、4度の全国優勝をされています。2007年のワールドカップでは、日本代表キャプテン、その後、2017年には電動車椅子協会のドリームマスター、伝道師に認定されています。その前に電動車椅子サッカーの横浜連絡会の会長として、横浜地域を中心に横浜Fマリノスカップなどの運営なども取り組んでいらっしゃいます。また詳しくはお話の途中でもご紹介します。

 次は三上勇輝さん、今すばらしいドリブルを演技していただきましたが。本来はもっと速いスピードで動きます。今日は舞台なのでスピードをセーブしていただきました。横浜市在住、32歳の方です。障害は脳性麻痺、四肢麻痺です。出生時は、未熟児で幼年期に横浜市総合リハビリテーションセンターで診断され、外来療育やリハビリで通院なさっていた。小学校3年のころ、様々な障害スポーツが体験できる、ここ横浜ラポールの事業で電動椅子サッカーに出会い、以来、20年以上競技を続けていらっしゃいます。今年度の日本代表に今、選考中ということで、既に何回か、4回ワールドカップに行かれています。だんだん国内の競争が激しくなってきて、代表合宿が終わって選考中。実は今、選考の結果待ちと、一番スリリングなときです。結果が出ていたら皆さんでおめでとうを言えましたが、まだ結果待ちです。

 このお二人で進めたいと思います。少し掘り下げたスライドを3枚用意してもらっています。

三上/先ほど映像にも流れましたが、電動車椅子サッカーをご説明させていただきます。電動車椅子サッカーは年齢や性別に関係なく行えます。見てわかるとおり、足でボールを蹴けれないサッカーとなっています。唯一のバンパーでボールを蹴って行います。

野田/サッカーなのだけれど、足でボールを蹴れない、足を使わないサッカーと覚えていただければと思います。

三上/主にバスケットボールコートを使って、4対4で行い、20分、20分、40分で使います。簡単なルールだと思います。ボールは、先ほど見ていただいたとおり、大きいボールです。7号球で、普通のサッカーよりも1.5倍の大きさです。かたさは、普通のサッカーボールと同じくらいです。ボールに空気をぱんぱんに入れると重いボールだと思います。直径33センチで当たると痛いです。空中に浮かないように、多少重くなっています。

 電動車椅子サッカーの主なルールとして、2 on 1があります。このルールは団子状態にならないようボールに対し一対一が基本となるようになっています。これが電動車椅子サッカーを面白くしているルールだと思っています。

野田/今見ていただいたように、これが電動車椅子サッカー。電動車椅子に乗って、電動車椅子のフットガードという、大場さんの前にもついていますが、この部分でボールをドリブルしたり蹴ったりするのがサッカーです。大場さん、このボールはすごく重いですよね。

大場/ボールを持ち上げると、けっこう重たくて、実は今日はボールが2種類あって、なぜかと思ったら、規格が変わったそうですね。

三上/年々車椅子の性能があがってきて、ボールをどんどん強く打てるようになって、空中に浮くような場面が出てきて危険となったので、それがだんだん飛ばないように、重いかたいボールが国際ルールでは採用されています。7号球なので、通常は5号球ですから二回りくらい大きな、普通の皮のボールになっています。

大場/重たくなると衝撃もそれだけ大きくなる。車椅子の性能と選手の技術があがってきて、醍醐味の回転しながらするパスとかシュート、2回転することもあるようですが、パワーがあるので、軽いと浮いてしまうということなのですね。

三上/だいたい回転速度は時速40キロぐらいあります。

野田/今は危ないので蹴りませんが、三上選手が乗っているのが競技専用の車椅子です。なので、この競技に特化して、低重心で、高速で回転できるようになっていますので、ものすごい速くボールを蹴れるようになりました。このタイプの車椅子ができてから、この競技の魅力、競技性がすごく上がってきて、見ていても楽しい競技となっています。

 また自分の場合は通常乗っている車椅子にフットガードの部分を取り付けてもできますので、電動車椅子であれば可能だと思っていただければと思います。

大場/ありがとうございます。それでは、レジメがお手元にあると思うので、それに沿って、さらにお話をお伺いします。電動車椅子サッカーとの出会いを、お一方ずつ、全部は語れないと思いますが、お話いただければと思います。これは、野田さんからでいいですか?

野田/実は私は電動車椅子サッカーとの出会いは、今まさにこの会場となっている横浜ラポール抜きでは全く語れないです。元々、自分の場合は、SMAという神経難病で、筋肉が動かなくなっていく先天性の病気でした。小さい頃から車椅子でしたが、スポーツはすごく大好きだったんです。でも、自分で車椅子を操作して動くことができなかった。友達とか周りがやっているのを体育の授業で見学するだけで、サッカーも、テレビでやっているのを見るのは大好きだったのですが、それを見るしかなかったんです。

 自分なんかスポーツができないと思っていたのは、今から25年ちょっと前、隣のリハセンターに車椅子の補装具調整で来たとき、それまでなかった建物が目に入って、10年ぶりに来て何だろうと思って中に入ったら、横浜ラポールというところで障害者がスポーツをやるところみたいだと。何気なく見ていたら、でも、自分は電動車椅子だし、できるスポーツないよねと思っていたんですけど、何となく受付に行って、僕でもできるスポーツってないですよね?と聞いてみたんです。そうしたら、スポーツ指導員の方がきて、いや、あるよ、やってみる?おいで、おいでと言われた。そのまま体育館の中に連れて行ってもらって、このボールでやるんだよと、一緒にやってもらったのが、このサッカーとの出会いでした。

大場/初日から電動車椅子サッカー?そうなんですね、今日初めて知りました。いろいろやったというより、まずこれという感じだったのですね。

野田/はい、そのときに電動車椅子でもできるスポーツがあるという情報と、実際に今やってみてよ、体験してみてよ、ということの2つを横浜ラポールでやっていただけたというのが、本当に大きなきっかけだったと思います。あの時に自分が勇気を出して、「自分にできるスポーツはないですか?」と言ってなければ、今でも出会ってなかったかもしれないです。

大場/それは感慨深いお話ですね。今年ラポールが30周年なので、30年ぐらい前の話になりますね。

野田/開館して数年後だと思います。

大場/三上さんの電動車椅子サッカーとの出会いは?

三上/私は兄がいますが、兄は健常者で、一般の人です。兄がやっている少年サッカーに幼少期につれていってもらって、練習風景をずっとベンチで見ていて、ずっと見ているだけだったんですが、兄が楽しそうにボールを追っかけている姿を見ていて、面白そうだなと思って、でも、僕できないなと思っていたところ、小学校2~3年生のとき、両親が横浜ラポールでいろんなスポーツが体験できるプログラムがあるよ、という情報を仕入れてきて、それに僕が参加して、そこでボッチャや車椅子テニスをやったりと色々なパラスポーツを体験した中で、電動車椅子サッカーに出会いました。

 今までずっと兄の姿を見て、サッカーがやりたいと思っていたが、そこで僕にもできるサッカーに出会え、この横浜ラポールで感激をしたというのが1つあります。その中で先生として来てくださっているのが野田さんです。

大場/野田さんが、既に先生役だったんですか?

三上/先生役で。先輩たちが講師として来てくださっていて、手厚く教えていただいたのが、今も、この電動車椅子サッカーを続けている一つなのかなと思っています。

大場/少年時代は、お兄さんが普通のサッカーをやっていて、見るだけだったけど、自分ができるとは思ってなかった。でも楽しそうだな、やりたいなと思っていて、お母さんにご紹介されて、ここへ来て。三上さんの場合は、ボッチャとかいろいろご紹介があったということなんですね。そのころも電動車椅子に乗ってらした?

三上/簡易電動車椅子というのに乗っていました。

大場/そのときに一つとして電動車椅子サッカーがあってお兄さんがやっていらしたから、あっ、これは俺にもできるんじゃないかという発想があって、実際に野田さんが乗ってて。もう少し重度な野田さんが先生役でやっていらして、それがきっかけでやれることになったのですね。

野田/ラポールでこのサッカーが始まったのも、電動車椅子サッカー教室を開いていただいていて、それがきっかけでチームができたというのがあるんですけど。5、6年、もうちょっとたった時に、体験用の電動車椅子を4台揃えていただいたので、それを使って教室を開いて小さな子たちを教えてみない?という提案をラポールからしていただいたんです。僕ら、まだまだ現役でずっとやっていましたが、競技やりながら、子どもたちとの場を持つことができて。まあ、今こんな立派ですけど、小さくて、かわいくて、時には反抗期みたいな。

大場/小学生?

三上/3~4年生、悪ガキだったと思う。

野田/その世代が今他にもいますが、そのときのメンバーで日本代表になったり、第一線で活躍したりしている人がいるので横浜ラポール中心として活動の中で、そういうものが生まれていったのはレアなケースというか、僕らの持っているルーツということですね。

大場/環境も、こういう箱物の環境、ものの体験、電動車椅子があったということと、あと人的環境、横浜ラポールのスタッフと、それに伴って、野田さんたちが選手としてやっていらした。小学校のときから体験ができるということになったわけですね。ありがとうございます。この電動車椅子サッカーですが、野田さんがずっと何十年も関わっていらっしゃる中で、創成期から比べて少しずつ成熟していき、ワールドカップにたどりついたと伺っています。その段階的なところを野田さんからお話いただけますか?

野田/僕がラポールでチームに入ってサッカーに取り組み始めたころは、関東エリアでも数チームしかないような、全国大会ができてまだ3年目とかそれぐらいの時期でした。そのときは、ルールも統一されていなかったのもあるし、こういうボールではなくてもっと大きなボール使ったりしていたんですね。フットガードもこういう鉄ではなくて自動車のタイヤを半分に切って、車椅子につけてやる、そういう時代でした。

 ただ、そのときは、同じ障害を持って電動車椅子に乗っていても、やっぱりサッカーをやりたい仲間が全国にこれだけいるんだというのを、大会に行くたびにわかって、それがまずはうれしくて。あっ、やっぱりスポーツっていいなという思いでやってたんですが、それが、ある時期は、本当に1年間で倍にチームが増えるように全国で増えていって、今では三十数チームあります。現在の登録選手は150名程度ということで、その規模も数も増えていったという感じです。そういう時代から知ってるもんですからまさかワールドカップなんてものが、できるなんて夢にも思ってもいなかったですね。

 それが、2006年に国際ルールを統一しましょうということになりました。面白いんですけど、フランスとか、アメリカ、北米、あとイングランド、日本ということで世界の各国で、電動車椅子を使ってボールを蹴るスポーツ、サッカーをやりたいというのは、人間の根源的なものなのかなと思うんですけど独自にルールがあったんですね。それを統一して、国際ルールを決めてワールドカップ、世界大会を開きましょうということになったのが、2007年。

 第1回のワールドカップが、実は東京で開催されました。その時に、自分は日本代表に選ばれて、キャプテンとして大会に出場しました。そのときに自分は初めて海外の選手と会って交流したのも、その時が初めてという状態でしたね。

大場/そのとき出場して4位だったということですが、その時には、既に海外の選手との違い、物理的な環境だったり違いというのはどうだったんですかね?

野田/今にして思えば、4位なので、一番メダルに近かったワールドカップでしたが、実際のサッカーをやっている内容とか、あとは、背景、どれだけチーム数があり、どういうふうに普及しているかを考えたときに、やっぱり日本はまだまだ世界に出たばかりの状態という差があったということと、海外の国はこのスポーツへの支援がしっかりしている国もあって、国だったり財団だったり、いろんな方法であるので、この競技を大きくするために、そして日本代表がワールドカップに勝つためには裾野を広げる、競技普及をしないと全くだめだなというのを僕はワールドカップのときに実感したんですね。それをきっかけに競技普及に本腰を入れて、自分の活動もメインになっていったという経緯があります。

大場/この鼎談のテーマは社会参加ということで、障害の方の社会参加を考えた時に、ご本人の変化の話と、社会の周りの人や物や企業だったり、団体だったりの変化というものが、キーワードになるかなと思います。今、おっしゃったのは、欧米に比べると、背景のチーム数も違うし、それを支えている企業もその当時から違っていた。

 個人としての成長の話を三上さんに伺います。ワールドカップに4回出られていますか?

三上/ワールドカップは1回です。

大場/全国大会とワールドカップに出て、選手として、おおげさに言うと人としてですが、青年として、社会人として、成長や進化、アップデートはどうですか。

三上/電動車椅子サッカーを通して、何が変わったか、得られたかというと、10代の頃からこのサッカーをやっていて、10代の頃は学校生活以外で本気になれることがあって、すごく良かったと思っています。学校生活でうまくいかないときも、サッカーがあるから頑張れる。学校生活以外で本気でやれることがあったのが1つ。電動車椅子サッカーをすることで、自信になって生かされるのが、10代の頃に実感していました。

大場/両方の効果があったんですね。学校生活が上手くいかなくなったり、悩みがあったりしても、サッカーという別の世界があって、そこで活躍できるし、活躍することで、それが自信になって、普段の生活がうまいこと回るようになった。

三上/自信になって、周りに自分の意見を言える。自分がうまくできなくて、周りに頼るような状況で、自分の意思を言いづらいという想いがあったのですが、でも、自分でも何か発信ができる、サッカーを通して得られて、それによって周りにも意思を伝える力がついた。

大場/自信によって、周りに意思を伝えるようになったということですね。ワールドカップを初めて行ったときはどうでしたか?

三上/ワールドカップは2017年の時に初めて出場しました。1回目だったので緊張して日の丸を背負ってという、気持ちも高揚して、自分が結果を出したいという気持ちで臨みました。その準備をしていったのですが、海外との壁を、実際行ってみて感じたところがあります。それは、日本が島国ということで、海外になかなか出られないという状況があります。

大場/海外に出られない状況とは。

三上/後で詳しく話されると思いますが、重度障害が日本は多いので、飛行機に乗って渡航することはハードルが高くなります。そうすると、日本代表として海外に出て練習試合とかがあまりできない。なので、経験値を日本はなかなか得られない。

 それをワールドカップに出場して思うのは、裾野を広げて、重度だけではなく軽度の選手をもっと増やせれば、海外でも通用できる日本が作れると思いました。

 さらにその先に、重度と軽度の人がコラボして、日本ならではのサッカーができるのではという思いで、ワールドカップの後は、そこをまい進してまいりました。

大場/詳しい説明は省きますが、重度と軽度の方がチームに何人というルールがあるので、両方底上げして選手を向上していかないと、全体としてのレベルアップにつながらないので、双方必要だということですね。

 航空機の話が出たので、野田さんの経験も踏まえて、航空機でのいどうについて障壁など、ちょっと大変だなと思っているところを教えてください。

野田/僕が日本代表だったのは東京の大会だったので、だから出れたというのがありました。僕は実際に海外遠征はしていないのですが、その後に行ったメンバーによると、映像でもあったように、人工呼吸器を装着したままプレイしている選手、それも日本代表でワールドカップに出ている選手がいるというのが、この競技の1つの特徴かなと思います。そういった状況でも、世界の一線で活躍できることなのですが、飛行機で遠征するのは、日本は限定されてます。それしかありません。

 呼吸器をつけた状態で上空1万メートルとか飛んだとき、トラブルが起こる可能性が、呼吸の問題で常にある。実際にそれが、ちょっとあったんですよね。

三上/初めて国際大会に行ったのは2013年で、アジアカップでした。実際に行って、上空1万メートルで呼吸器がトラブルを起こして止まってしまった。日本がオーストリアに行っていたのですが、その間中、帯同のドクターや看護師さんがアンビューバックで人口呼吸をやっていたというトラブルがありました。その時は、本当に生死をさまよう感じで、近くで見ていて、ドキドキハラハラして、大丈夫かなと心配しました。

野田/その時は、ドクターが帯同していて、スタッフがいたので可能でしたが、それがやはり日本国内においても、医療との連携でもそういった部分で、今後、この競技に専門家の方々に関わっていただいてサポートいただきながら活動できれば、もっと海外のチームと自由に遠征していけるのかなと思います。今、日本ではワールドカップや国際大会のときしか、実際には遠征できていない現状があります。その辺りも大事な課題になるのかなと思います。

大場/その課題は、大きい、重度の方にとっては、ということですね。一方で、打ち合わせのときに大変大好きな言葉になったのですが、電動車椅子サッカー自体がバリアのないサッカー、誰にでも参加できるサッカー。私でも乗れることは乗れるので、上手くなるには練習が必要だけれども。でも、その辺が魅力だと野田さんは説明してくださった。

野田/男性も女性も年齢も、彼が始めたような10代前半の選手から50代、60代まで、車椅子に乗って操作さえできれば、イコールコンディションなんです。体力差が出にくい。なので、僕なんかも普段10代の子にしごかれて練習をやっていますが、そんな状態で、みんながユニバーサルに参加して楽しめる。障害もいろんな疾患を持った方や、彼は脳性麻痺ですが、難病の人や、内部の疾患などを越えて、みんなが参加できるスポーツだというのはすごく魅力的なんですね。

大場/可能性は無限大、それがすべての方にチャンスが与えられている。社会参加の機会としても、全ての方に与えられている。協会の標語にもなっているんでしたっけ?

野田/協会ではなくて、ワールドカップに出た時に、日本代表のサポーターの方々が、ふだん、もうすぐカタールでありますけれど、そのときに出している横断幕で「我ら日本代表 可能性は無限大」というのを飾っていただいたんですね。すごく盛り上げていただいたんです。そのときに僕は選手で、その横断幕を見て今まで国際大会に出るなんて、全く想像しなかったことが、可能性が、実際に実現するんだなというのが目に見えたんですね。

 スポーツをすることすら諦めていた自分が今こうやって、こういう場に出ている、横断幕で応援してもらっている、その可能性の無限大という言葉が、僕の中では1つテーマになっていて、いろんな場面で、すべての方のスポーツの可能性というのを、選択肢にあった方が、そういう社会のほうが、絶対に豊かだし、住みやすいんじゃないかなという思いで競技普及をしています。

大場/今回の研究大会の2日間の標題なんですけど「リハビリテーション・スポーツの果たす役割」というのは、これは社会参加とか、生きがいであったり、QOLで果たす役割が、電動車椅子サッカーにもあるということをお話いただいたと思います。

 変化のことはお話しいただきましたが気になっていたのが、ジャパンブランドを作らないといけないよねと野田さんおっしゃって、三上さんも同じ意見でいらっしゃった記憶があります。ジャパンブランドはどういう目的でどうやって作っていくのが望ましいのか、夢でもあるかもしれませんが。

 三上さんはジャパンブランドというか、どういうふうに普及させていったらいいか、どう思っていらっしゃいますか?

野田/やはり電動車椅子はすごく大きな要素で、テクノロジーのかたまりだと思うんです。そもそもの車椅子としての走行性能もそうですが、いろんな障害に合わせて車椅子に乗れるように、フィッティングをして、操作できるようにする。僕なんかは、今、右手の人さし指、中指、親指の指先がちょっと動くくらいなんですけど、それでも、レバー操作さえできれば、これだけ激しいスポーツができるということなんで、すごくテクノロジーとエンジニア、メカニックの要素が大きいと思うんです。

 そういう中で、日本が持っている技術、産業の技術が、本来だったら車椅子開発に生かされる。あとモーターとバッテリーなので、今のSDGsとか、そういったことを考えてもすごくリンクしていく可能性があるかなというのが1つですかね。

大場/日本は、技術先進国とまだ言われていると思うのでその中で、もう少し電動車椅子の性能アップ、シーティングなど、向上するのではないかという可能性の話ですね。

三上/電動車椅子は日本製ではなく、すべて海外製になっています。それはなぜかといいますと日本の法律が道路交通法というので、6キロ以上、電動車椅子は出しちゃいけないとなっています。それがあることによって日本のジャパンブランド、電動車椅子を作る企業が制限を設けてつくっています。そのため電動車椅子サッカーで使える電動車椅子の多くが海外製になってしまっているのだと思っています。そこをなんとか電動車椅子サッカーが普及することにより、電動車椅子をジャパン企業が開発することによってすごく性能も、気持ちの上でも一緒に戦っている気持ちになるのかなと思います。

大場/速度制限ですね。結局、速度制限が普段の車椅子であるから、企業も通常つくっていないということですね。技術、モーター、バッテリーとか、そういうところが20km用になっていないから。つくろうとすれば、つくれるんだけど、普及していないからコストもかかるのではないかというウィークポイントがあるということですね。

 野田さんも競技普及のことで、Jリーグの横浜Fマリノスと連携してやっていらっしゃる、これは社会参加に対する周りの理解も深まりつつあることを感じてらっしゃいますか。

野田/本当に横浜ラポールで横浜Fマリノスとの接点もあって、マリノスが2002年の日韓ワールドカップの前後で障害者サッカーを支援したいというお話があった中で、電動車椅子もどうですかと言っていただいたのがはじめです。

 それ以外、どういったサポートができますかといった提案があった時に、「横浜Fマリノスカップ、Jリーグのチームの名前がついた大会を僕らのサッカーでやりたいです」と、思い切ってお話してみました。するとじゃ、やってみようかという。言われたんですね。どんなお手伝いできますかと。そのときに、一か八かで言ってみたんですね。じゃやってみようということで実現したのがこの大会で、今、大場さんが着てらっしゃるマリノスのユニホームの大会に僕らが出られることになりました。当初は4チームで始まったんですが、それがコロナ前では全部で10チーム、地域も全国各地から、関西とか長野とか、北海道とかいろんなところが集まって、横浜での大会ということで、定着した大会になったんです。三上さんも、横浜Fマリノスカップで経験積む中で、日本代表に選ばれたということがありました。

 マリノスの活動の中で小学校に訪問して、そういった子どもたちに、今よくあるのが人権週間の授業だったり体験教室だったり、そういった形で、学校訪問する機会も得ることができました。毎年、2、3校、僕らも回っていたんですが、小学校に行くと障害者ということで見てもらうんじゃなくて、まずは電動車椅子に乗ってみない?サッカー一緒にやろうよ、というところから交流が生まれるので。特に垣根も何もないんですね。特に小さな子は喜んでくれるので、もう全速力で子どもたちの周りを走ってパスをするだけで、一緒に友達になれる。後半に、じゃ、なんで僕たちは電動車椅子に乗っていると思う?という問いかけをしてあげて。実はこういう障害あるんだけれど、でも、皆と一緒にサッカーできるよねというところをわかってもらう活動をやっています。そういったことで、いろんな場面で、子どもたちとのふれあいを今後も増やしていきたいなと強く思っていますね。

大場/大会のテーマの「リハビリテーション・スポーツの果たす役割」の中で今のお話をなぞれば、社会参加をしていこう、紹介をしていこうというところで、垣根を外す。特にお子さんだったら、垣根を低くできるし、なじみやすい。お子さんのころから垣根が低いところから交流が持たれれば、社会のほうもそれが自然と、学校のときにこの人たち来てたよねとか、やったことあるよという話もあるかもしれない。観戦にいこうか、ボランティアに参加しようかという発展する可能性も大いにあるということになりますかね。

野田/そうですかね。あとは横浜Fマリノスでいいますと、横浜ラポールの隣が日産スタジアムになっていて、電動車椅子サッカーの体験コーナーを実施していただいてて、マリノスの応援に来たサッカー好きのサポーターにこの競技を見てもらって、実際に車椅子に乗って体験してもらうということを年に2回くらいやっていました。それは皆さん、サッカーに関心があるので、「あのとき見たよ」と言っていただいたり。マリノスの大会を見て、「あ、僕もサッカーできるんだ」と、競技の選手になった子がいっぱいいます。そして、横浜ラポールに来てもらってすぐ体験してもらえる、そういう循環が、横浜では生まれることができたというのが、僕らにとってすごく良い機会でした。コロナの問題があってここ数年、なかなかできていないのが残念ですが、今後はそういった活動を強くやっていきたいなと思います。

大場/コロナ禍の話で、ここのところちょっと変化があったと先ほど伺って、つくづく感じたとお二人ともおっしゃっていました。野田さんからお伺いします。練習がしばらくできなかったんですよね?

野田/そうなんですよね。僕らのサッカーの選手は、ほとんどが健康上のハイリスクと言うんですか、高齢者の方と一緒で基礎疾患を持ってる選手がほとんどなので、万が一感染してしまうと大変なんですよね。なので、通常のスポーツよりもすごく新型コロナというものに対して、セーブしなければいけない。1年目、2年目は、実際に1年間で練習できたのが、5~6回でしたかね。ふだん毎週やってるのに。という状況で、何カ月もやっていなくて、この競技をやってみたら、体の筋力が落ちてる。

 電動車椅子は電動で動いているので、特に筋力は関係ないように思うかもしれないけど、実は首や肩がこる。支えているし、あとは、指の動き。どんどん使わないと、廃用性の低下が進んでしまう。その部分はコロナになって実感しました。逆に言うと、ふだんから僕らみたいな障害があって動けない選手でも定期的にスポーツをすることで健康を維持できることは、そこで分かりました。

大場/時間が過ぎていましたので、まとめに入らせていただきます。昨日の高岡先生のお話で、障害のある方の生活には、スポーツを必須とした方がいいだろうというお話で、それは実感していらっしゃるというところでしょうか。

野田/本当に実感しています。

大場/私の不手際で時間を見間違えてました。続きは、別の機会に事業団で動画をまとめて、また配信したいと思います。お2人、こんなに急に終わりになってしまって、続きの鼎談をやろうと思います。野田さん、三上さん、ありがとうございました。どうもありがとうございました。

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