障害と向き合い自分らしく生きる

「新ノーマライゼーション」2023年3月号

平井佑典(ひらいゆうすけ)

私は19歳の頃にADHDと診断されました。きっかけは、6歳年下の妹が先に発達障害と診断されたことでした。当時、高校生だった私は、妹の困難や障害を理解し家族の関係も良くしたいと思い、発達障害について調べていました。ところが、私の困難や不適応にも当てはまることが多いことに気がつきました。ADHDの本を読んでいた私の部屋がゴミ屋敷のようでした。そこで、まずは自分の困難や問題と向き合おうと考えました。そして、その経験を家族にも役立たせたいと思いました。こうして病院に行き診断に至りました。部屋も自分なりに片付けられるようになった頃からは、支援の研究に携わったり、支援職としてキャリアを積みました。現在は起業し、世田谷区内を中心に知的・発達障害児者の支援事業に携わっています。

日頃、私は診断名や特性にこだわらないことが大切で、自分らしく生きられるように身近な人との関係づくりを重んじています。このように思い始めた理由は、妹が診断され、その特性が明らかになった頃にさかのぼります。当時、不登校になっていた彼女は、うまくいかない原因が脳機能の障害であり、また治らないものであると考え絶望していました。よく泣きながら、「この悪い頭を治したい。取り替えたい」と言い自分の頭を激しく打ち付けていました。その様子を見ながら、診断名や特性がわかっただけでは、生きづらさは変わらないのかなと思いました。それでも、私にとっては診断名と障害特性を用いて困難や問題を解釈できることは、気持ちを整理する上で助かる部分もありました。しかし、障害をもつ自分が「これからどう生きるのか。抱えている困難や問題にはどう向き合っていくのか」という点は診断そのものとは関係ありませんでした。

そこで、しばらくは「ADHDの特性を活かして生きられないか」と考えていた時期がありました。例えば、私には不注意の障害特性があります。「いろいろなことに気が散りやすい」ことがよく作用してると「発想が豊か」と見なされるし、悪く作用すると「決められた手順を守れない」のかもしれないと自分なりに分析しました。そこで、不注意な特性を活かすため、企画など発想に重きを置く仕事が向いてそうだな、入力作業などの事務は成果が出しにくそう、などと考えてみました。ところが実際にいろいろと働いていくと、「気を散らしているだけ」で成立する仕事は見つからないものでした。また、強みとして活かすためにも、苦手なことへの対策やその自覚を持って具体的な協力や手伝いをお願いする必要がありました。多くのことと向き合うことには変わりません。それに、私が「ADHDの特性を活かしたい」と主張した結果、周りから「わかった。ADHDなんでしょ?自由に発想していいよ!」と言われても、あるいはそういう場所を用意してもらったとしても、そもそも関心がないことにはあまり力が発揮できませんでした。こうした経験から障害特性の活用や対策を意識することは減っていきました。

それからは、まずは「やりたそうか?」「好きそうか?」「できそうか?」を考えるようになっていきました。やっていく中で、特性が良い作用をしてるならば気にならないですし、特性による困難や問題がある時は、「対策を工夫するのか」「協力を頼むのか」あるいは「環境を変えるのか」の3つをじっくりと考えるようにしています。また、他者と関わる際にもこうした考え方は良いのではないかと思います。相手を理解しようとする時、障害や特性というものがあったとしても、そこだけに焦点を当てないように心がけています。障害の有無に限らず、お互いを尊重し、理解し、あるいは支え合えるようになれば、発達障害も多様なあり方の一つと思えるようになるのではないでしょうか。身近なところから私なりの実践をしていますが、世の中にそういう気持ちの人が増え、少しずつでも社会が変わっていけばうれしいです。

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