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マラケシュ条約批准までの経緯と今後に期待すること

井上芳郎(埼玉県立飯能南高等学校・教諭/日本デジタル教科書学会・監事)

1.日本政府のマラケシュ条約批准

マラケシュ条約の正式名称は、「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約(日本政府公定訳)」(1)であり、モロッコのマラケシュにおいて2013年6月28日に採択された、著作権などに関する国際条約である。2009年3月開催の世界知的所有権機関(WIPO)の委員会において、途上国を中心とした参加国から世界盲人連合(WBU)による条約案が提示され、採択のための協議が続けられていたものである。なお、日本政府は条約案の最終文書への署名をしている。

2016年6月30日にはカナダによる条約批准書の寄託がなされたことから、「20カ国以上の批准または寄託」という条件が満たされ同年9月30日に発効となった。日本政府としては、この発効以前に国内での批准承認をしたい意向(2)であったが、批准のための国内担保法であるとされる著作権法改正や、障害者団体や権利者団体等との調整作業などを経て(3)、2018年4月25日に参議院本会議で承認され批准の運びとなった。

2.マラケシュ条約の受益者とそのニーズ

世界盲人連合(WBU)によれば、出版される書籍のうち、点字、録音図書、アクセシブルな電子書籍などの形式で利用できるのは、途上国においてはわずか1%以下であり、これは先進国においても高々7%程度にすぎないと推定されている。そしてこのような状況を「書籍飢餓(book famine)」と名付けている(4)。この厳しい現実から生じる切実なニーズは、いわゆる視覚障害者だけに限られるものではなく、プリントディスアビリティ(様々な理由により通常の印刷物へのアクセスが困難な者)と呼ばれる、総人口の数%から10%程度を占めると推定される人々にも及ぶものである。条約第3条の定義においては、プリントディスアビリティも受益者として含まれることを明記している。すなわちプリントディスアビリティとは、読字障害者(ディスレクシア)、上肢麻痺などの身体障害、眼球焦点や眼球運動などの障害などにより通常の印刷物での読書が困難な者などで、きわめて多岐であり広範囲にわたっている。

3.マラケシュ条約の意義

条約批准の意義について日本政府の認識(5)としては、① 視覚障害者等の著作物利用の機会を促進するため、アクセシブルな複製物の製作、配布などに関する著作権法上の権利制限規定や例外規定などの整備。② 国境を越えて、アクセシブルな複製物の交換を可能とするための制度整備。③ 視覚障害者等の著作物利用の機会を促進するため、我が国の国際的な取り組みとして、途上国などへの支援等を通じた貢献。などをあげている。

はじめに ① の著作権法上の課題については、2010年施行の改正第37条第3項に規定される権利制限による受益者の表現からは、「肢体不自由などを含む」とは読みづらいものの、権利者団体と図書館関係団体による協議により、施行直後に策定されたガイドライン(6)が運用され始めたことから、実質的にはすでにほぼ整備済みであるとみられていた。そしてさらに今回の2019年1月施行の改正により、権利制限の受益者が「認識に障害のある者」から「認識が困難な者」へと改正されたことで、「肢体不自由などを明示的に含む」ものとされたことから、我が国においては整備済みになったものと考えられる。

次に ② の国境を越える複製物の交換については、条約により各国政府から権限を与えられた機関どうしにおいて、その権限により譲渡された複製物の相互交換が、権利者の許諾を得ることなしに可能となる。このための日本国内での機関指定については、関係者間での検討が進捗しつつある(7)ものと聞いている。

最後に ③ の国際的な取り組みへの貢献については、例えば日本国際協力システム(JICS)や国際協力機構(JICA)などからの資金助成を受け、途上国におけるDAISY(8)図書製作の技術移転や、そのための人材育成及び人材交流などを目的とした、民間団体などによる事業(9)がすでに開始されており、世界の各地域で一定の成果が上がりつつある。これからも、更なる積極的な取り組みが期待されるところである。

4.アクセシブルな電子出版物への期待

条約第2条において、「利用しやすい様式」すなわち「アクセシブルな形式(accessible format)」についての定義がされており、国会での政府答弁(10)では「利用しやすい様式の複製物というものにつきましては、具体的には、点字、大きな文字の書籍であります拡大図書、さらに録音図書などが想定されている」と示している。またこれらの「様式」のうち、もっとも多くの潜在的利用者数が見込まれるのは「録音図書」であるとみられるが、その規格については「デジタル・アクセシブル・インフォメーション・システム(DAISY)というのは国際標準規格の一つだというふうに認識をしておりますが、日本の視覚障害者等の方々による国内外の著作物の利用の機会がこの条約の締結によって更に促進される中で、今御指摘をいただきましたDAISYを含めた、利用しやすい様式の複製物の活用が国内において更に進むことを期待していきたい」という答弁(10)がなされている。

すでに出版された膨大な著作物を「アクセシブルな形式」に変換し複製する作業については、もちろん喫緊の課題ではあるが、それとは別に今後新たに世に送り出される著作物については、はじめから「アクセシブルな形式」で出版されることが望まれる。このようなアクセシブルな電子出版物の国際標準規格としては、現在EPUB(11)がもっとも有力なものとみられている。

この背景には、DAISY規格が、2011年にEPUB規格の一部として統合されたことがある。そして、テキストの読み上げやハイライト、リフローによるレイアウト調整された文字拡大、文字と背景色のマッチング調整、ナビゲーション機能の充実など、障害当事者のニーズに寄り添った規格の開発がDAISY Consortiumの協力の元、World Wide Web Consortium(W3C)で続けられている。

今後は商業出版においても、アクセシブルなEPUB版(DAISY版)での出版が促進されることが望まれる。そのためには米国で実施されすでに効果を上げている、公共調達条件としてアクセシビリティを必須とさせる施策も必要ではないかと考えられる。我が国でも2018年3月30日に閣議決定された「第4次障害者基本計画」(12)において、「アクセシビリティに配慮した機器・サービス等の政府調達を一層推進するため、WTO(世界貿易機関)政府調達協定の適用を受ける調達等を行うに当たっては、WTO政府調達協定等の定めるところにより、適当な場合には、アクセシビリティに関する国際規格が存在するときは当該国際規格に基づいて技術仕様を定める」として「アクセシビリティの国際規格を公共調達の入札用件に入れる」という方針が示されている。この方針にそった施策の早期実現に向けて、今後の政府の取り組みに期待したいところである。

5.おわりに

2010年施行の改正著作権法における権利制限規定の観点のひとつ(13)として、「著作権者などが自らアクセシブルな著作物を提供している場合、権利制限の対象から外したのは、本来権利者などが自ら提供するのが望ましいとの考えからで、そのインセンティブを損なわないようにするため(要旨)」ということがあった。今回のマラケシュ条約批准や、第4次障害者基本計画で示された「公共調達によるアクセシビリティ促進」などを契機として、こうしたインセンティブがさらに強まることが期待される。

具体的には、例えば公共図書館や学校図書館などの蔵書としてアクセシブルな電子書籍の受け入れや、アクセシブルなデジタル教科書の無償給与に係る公費負担などといった課題解決のための施策が望まれる。このような「公共調達を通じてのインセンティブ促進」といった政策活動は、米国やEU諸国などに留まらずラテンアメリカ、アフリカ諸国などにも広がりつつある(14)。こうした国際動向も見据えつつ、我が国においてもマラケシュ条約の理念が社会一般に広まり、通常の印刷物へのアクセスに困難のある人々の、著作物利用の機会が増進されることを期待したい。


【資料】各ウェブページへの最終アクセス:2018年7月27日

(1) マラケシュ条約(日本政府公定訳)(2018年4月25日承認)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ila/et/page25_001279.html
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000343334.pdf

(2) 文化審議会著作権分科会国際小委員会(第2回)2013年11月15日
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/kokusai/h25_02/

(3) 衆議院文部科学委員会 2018年4月4日、参議院外交防衛委員会 同年4月19日など。

(4) The Marrakesh Treaty - Helping to end the global book famine - WIPO(2016)
http://www.wipo.int/edocs/pubdocs/en/wipo_pub_marrakesh_overview.pdf

(5) マラケシュ条約の説明書(外務省)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000343336.pdf

(6) 図書館の障害者サービスにおける著作権法第37条第3項に基づく著作物の複製等に関するガイドライン(2010年2月18日決定 2013年9月2日別表一部修正)
http://www.jla.or.jp/portals/0/html/20130902.html

(7) 「障害のある児童生徒にアクセシブルなデジタル教科書を -マラケシュ条約と著作物にアクセスする権利の国際動向に関する勉強会-」河村 宏(日本DAISYコンソーシアム)発表用配付資料(参議院議員会館 2018年6月15日開催)
http://atdo.sakura.ne.jp/20180615/kawamura.docx

(8) DAISY(Digital Accessible Information SYstem)とは
http://www.dinf.ne.jp/doc/daisy/about/

(9) 「ハノイで理数系文書アクセシビリティの講習会 - ベトナムの視覚障害者の理数系書籍のアクセシビリティ向上事業(JICS助成)-」支援技術開発機構(ATDO)
http://atdo.website/2017/05/29/jics1/

(9) 「エジプトの読みに困難を抱える人々を『誰もが読めて使いやすい』マルチメディア電子書籍(DAISY)で支援(JICA民間技術普及促進事業)」シナノケンシ株式会社
http://www.shinanokenshi.com/japanese/news/cat9/post_22.php

(10) 衆議院外務委員会 2018年3月28日

(11) EPUBとは(epub café 電子出版環境整備事業)
http://www.epubcafe.jp/home/aboutepub

(12) 障害者基本計画 -第4次-(内閣府) 2018年3月30日
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/kihonkeikaku30.pdf

(13) 文化庁「平成21年通常国会 著作権法改正等について」
http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/h21_hokaisei/

(14) James Thurston(2017)ICT Accessibility Policy: Global Trends & Good Practices.
2017年6月26日「情報通信政策フォーラム(ICPF)」での講演資料
https://drive.google.com/file/d/0BwFBcKErdkTyTmlGSlJOekxXZ3M/view