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JANNET研究会「カンボジアの村人たちはどうして障害に取り組んだのか?」

■講演「カンボジアの村人たちはどうして障害に取り組んだのか?」

沼田千妤子氏

沼田氏 今西さん、ご紹介ありがとうございました。日本発達障害連盟の沼田です。短い時間ですがどうぞ宜しくお願いします。

これからお話しするカンボジアでの事業は2003年に着手後、2005年に事業を開始し、2011年に連盟は事業から撤退しました。その間約6年間、連盟として事業を行っていました。私達が撤退した後も村の中で事業として発展していますので、事業のその後ということでお話しします。また、課題が残ったので、その課題への取組を別事業として、同じ地域でパイロット的にしています。今回の研究会のために、反省点やなぜそういうことが起きたのか、上手くいかなかったことは何なのかという点をお話しするようにとご依頼をいただきましたので、自分達でレビューするつもりでお話をします。システマティックにやっているわけではないので、皆さんのお力をお借りして出来ればと思います。まず、にどんな事業だったのかざっとお話しをして、今どのようになっているのか、どのように私達が考えているかについてお話しします。

事業前の状況と事業の結果

事業はカンボジアの農村で行いました。事業前の知的障害者の状況をまず見ていただきたいと思います。知的障害があるお子さんが小学校1年生で入学して6年生まで在籍する例はゼロでした。学校には行き始めるのですが、短期間で退学をしていました。なぜ、退学をするのかというと、学校まで歩いて30分位なのですが、その間に暴行を受ける、学校に行っても授業は分からない、ピョンピョン飛び跳ねて教室の外まで出てしまうと先生に叱られるし、いじめられる。行っても良いこと何もないから行かなくなるのです。また、通学途中の暴行を心配して保護者が辞めさせてしまうということもありました。次に、知的障害者の30%に放浪歴がありました。多くは、どこかに歩いて行ってしまうというか、日本でいう認知症のような感じです。1週間位経ってからどこかに倒れているところを意識不明で発見されるというケースが多かったです。また、50%の方は1日12時間以上1人で、何もせずに過ごしていました。これは非常に大変なことです。私の場合、12時間1人で放っておかれたら、テレビを見て本も読みたいし沢山やりたいことがありますが、知的障害のある人には難しいことです。そして、レイプが非常に多いため、60%の女性は自宅と隣の家だけが活動範囲でした。事業を始めた頃、村人達に「レイプはひどい事だ」と指摘したら、知的障害だから仕方がないという反応でした。そのため、父親が分からないお子さんを抱えている知的障害がある女性が多かったです。また、70%の人は村の活動に参加した経験がありませんでしたし、80%の人は家族以外と話しをしたことがないという状況でした。

それでは、事業の結果、それぞれの人達がどのように変わっていったのかを、幾つかの事例で見ていただきたいと思います。

(写真1)
写真1

初めて会った時12歳だった男性です(写真1)。この写真のように1日を過ごしていて放浪癖がありました。彼の家は母子家庭で、お兄さん、お姉さんは農業をしています。この人が居なくなると皆が仕事を休んで探しに行かないといけないので、お母さんは、もう嫌だ、捨てたいと言っていました。この地域で「捨てる」とはお寺に置いてくることです。お寺の軒下で寝て暮らし、ご飯はお寺で与えられますから生き延びてはいけます。事業では、村の人が放浪癖をなくすためにこの人に農業を教えました。この人は非常に頑張って農業をやるようになりました。また、養殖や養鶏もやりました。村の人達が雛をくれたり、池を掘ってくれて、そのうちに、この人に色々な能力があることが分かってきました。左下の写真にあるのはお寺の改修の時の軽作業です。他の人の50%の日当で、この人も参加しました。他には、ウエイターの仕事や体が弱い人の家に泊まり込んで世話をする仕事がありました。こんな風に、村の人があちこちから仕事を探してきて、この人へ提供しました。性格も良いし、頑張って仕事をしてくれるので、お金がどんどん貯まりました。資料右下の写真は、この人が買った土地にあるバナナ畑です。今はお兄さんと2人で住み農業に従事しています。

(写真2)
写真2

次の方(写真2)は軽度な知的障害があるのですが、割と裕福な家庭で育ちました。障害があるので家族から「穀潰し」と言われていたためか暗い感じの人でした。事業が始まってから村の人達はこの人を連れて出稼ぎに行き始めました。この地域では農閑期、男の人達は首都などに建設労働者として出稼ぎに行きます。その募集が届くと、村の男の人達がこの人を誘って皆で行くようになりました。建設労働現場での仕事をあまり上手くできないので、この人の賃金は他の人の半分程度でした。ただ、村の人達が彼を保護しながら仕事をしていくうちに、上手くできるようになりました。ただ生産能力は高くないので賃金は半分です。この人はそれをおかしい、自分も働いているのにおかしいと抗議をしました。その結果、この村の人だけではなく、現場で働いている人全員が、自分の賃金を一つのバスケットに入れて平等に分けるようになりました。

(写真3)
写真3

次の女性(写真3)は、私達が初めて会った時は46歳でした。家族ともほとんど口を利かない、口を利くのは隣村に住んでいる叔母さんだけでした。叔母さんは時々来てお金をくれて話をしますが、他の誰とも話をしたことがないと言っていました。これを聞いた村の人達は、この人のための女性エスコートグループを作り、マーケットに同行したり、村の事業に一緒に行ったり、無料のお芝居に一緒に行ったりしてこの人の地域との交流を助けました。約1年たつと、この人と地域の人たちとの関係ができ、彼女は自分から話しかけるようになりましたし、毎日誰かがこの人といるような状況ができました。そして、エスコートグループは解散しました。今は普通の生活をしています。

(写真4)
写真4

この男性(写真4)は1回小学校に行ったのですが、いじめられたので辞めて、その後はずっと家にいました。12時間以上1人で過ごしていて、結果、鬱になってしまいました。状況を変えるために、村の人が、人と接するようにしようと小学校と交渉して小学校に通うようになりました。しかし、既に19歳だったので小学校へ行くのは嫌だと言って辞めてしまいました。しかし、勉強はしなくてはいけないというのが村の人達の意見で、次に、家庭教師になる人を募集しました。応募したのが、左上の写真の人、牛飼いです。牛飼いの仕事は朝、牛を集めてきたら放牧しておいて夕方までのんびりできるので、この知的障害の人は毎日牛飼いの放牧場に行って、字を覚えたり、歌を歌ったりというような勉強を始めました。使っている教科書は、小学校1年生の教科書です。2人は穏やかでニコニコしていて人当たりが良いので、学校帰りに子供たちがここに集まるようになりこの人と一緒に遊ぶようになりました。子供たちが集まると大人も集まるようになり、農業の途中で皆集まってきて村の人の溜り場になりました。

(写真5)
写真5

次は軽い知的障害がある人です。結婚していて子供が4人いる男性です(写真5)。この人のお父さんが土地と家を残してくれたので割と豊かな農家です。ただし、奥さんに馬鹿にされており、この人だけ台所でご飯を食べ、台所で寝ているような生活をしていました。村長にこの人はいつも離婚したいと話していたのですが、コミュニケーションが上手くいかないし、村の人たちは、この人が悪いので結婚生活が上手くいかないのだろうと考えていました。事業で色々調べていくうちに、この人が悪いばかりではない、奥さんがかなり特殊な人だというのが分かってきました。家の収入は全部奥さんが握っています。この人は働くのですがお金が無い、一銭も無いのです。そこで、この人の収入になるようなものを作ろうと工夫をしました。最初に、本人に何をしたいか聞きました。この辺の村は大体1年に10回位集まってお祭りのような事をしますので、そこで風船を売りたいと言います。風船売りを始めましたがあまり売れなかったです。そこで、風船にガスを入れて上に飛ぶようにしたら売れるだろうというので、中古の自転車とガスタンクを買いました。すると随分売れるようになり、自分の村だけではなく、近隣の村でも風船売りをしてお金を儲けるようになりました。

その後、この人を雇いたいという薪を製造する会社の社長が現れました。薪を作る仕事で出来高払いです。普通の人は2時間で仕事を覚えるのですが、障害があるのでなかなか覚えず、仕事が出来るようになるのに1週間かかりました。また、危ないことはできません。そこで、社長はこの人用に仕事を作り、賃金を得られるようにしました。余分にお金を稼ぐようになったら、奥さんの態度も軟化し、今では上手くいっています。去年、お孫さんが出来て、薪割りの仕事は辞め、彼はまだ歩かないお孫さんの世話を主にしています。ミルクをあげるのを忘れるとか椅子から落ちても気が付かないなど色々あるので、村の人が定期的に見に来て、子守の補佐をしています。この人は孫が親よりも僕のほうが好きだと幸せそうです。

村人の活動、村人の言葉

村の人は知的障害者の支援方法を学んだことはありません。自分たちで考案してやっています。そして、そして、ある時期までこの方法で良いのかと不安をもっていました。そこで、日本のソーシャルワーカーや心理の人に訪問していただき、村人と話し合いをしてもらいました。その時の村人の言葉がここにご紹介するような事です(図1)。

(図1)
図1(図1の内容)

最初の行に、「最初は乗り気じゃなかった」とありますが、本当のことです。2003年に村の人たちにこの事業を提案したのですが、反応は良くなかったのです。村は貧乏だし、他にもやりたいことが沢山あるのに、どうして知的障害なのと。3年通って粘りがちでやってもらうことになったのですが。それが、しているうちに楽しくなってきて、今は自分達以外に誰がするのかと思っていると言ってくれたのです。また、知的障害者は友達だとも。日本の専門家に自分達のやり方に正しいと言ってもらえて自信がついたと言っています。でも、日本の専門家は給料もらってやっているからタダでやっている自分達の方が偉いとも言っていました。知的障害者は、野菜を作ってもマーケットより安いので助かるという人もいます。知的障害者で乾季に水を配達する仕事をしている人がいてくれるから乾季の水汲みから解放されたという村人もいます。この事業のお蔭で図書室や子供会が出来たことがとても嬉しいと言ってくれました。

結果として、この村では例えばUNDPの開発事業者が来た場合は、知的障害者を優先します。ですから、彼らの権利を彼ら自身や保護者ではなく、住民が主張するようになったのです。そして、村人が知的障害者を日常的に支援する生活ができています。村内の知的障害者は村民が守るようになり、レイプが無くなりました。

一つエピソードをご紹介します。事業を実施した村で軒並み、鶏泥棒が入ったことがあります。その泥棒も知的障害者の家だけは避けていきました。これは、村人全員が支援している知的障害者の家には入れない為だと思います。そして、先ほどご紹介したように、会社経営者が知的障害者の能力・体力にあった仕事を創出して、彼らを雇うようになりました。こうした活動で、知的障害者の70%が就業し、その結果、家庭内の立場の変化が起きています。

連盟は2011年の時点で撤退しましたが、その後も活動は続き、また、住民全体に受益をもたらす住民活動に発展しました。例えば、障害のある子どもと障害がない子供が一緒に活動することを目的に始めた子供会は障害児・非障害児の保育園になっています。村が先生を雇い、保育園として運営しています。そして、その子供会に参加していたダウン症のお嬢さんは今保育園で先生の補助として働いて給料を貰っています。知的障害のある子供と知的障害のない子供が毎日過ごしていた図書室は、衛生や農業の勉強会の為にも使われるようになっています。

医療費創出事業

この後、お話ししますが、この活動をしてもどうしようもないこともありましたが、それは医療です。貧しい村なので親は自分の老後を見てもらうために子供を育てるのです。知的障害のある子供は、老後を見てくれないと親は思うので、病気になっても酷い時には事故に遭った時も病院に連れていってくれません。若くして、亡くなった方も沢山います。彼らは自分で稼いでいたのですが、そのお金の管理は親がしていて、彼らの親はそのお金を病院には使いませんでした。病気になって村の人が彼らが稼いだお金で病院に連れていくようにと親を説得して何とかした例や、村の中で募金をして病院に連れていくこともありましたが、継続が難しく亡くなる方は少なくありません。この状況を何とかしようと、医療保障制度の創出事業を始めました。

この事業はパイロットとして3県各1村で始めました。村全体で行うのではなく、各村でメンバーを集めて実施しています。大体15~20家族位が参加しています。多くは貧困家庭で、多少中流家庭も入っています。障害者は全員参加しています。医療費は、メンバーの積立金と収入創出事業の果実で払います。合計で、年に1村あたり1,000ドル位を集められるようになりました。収入創出事業を育てるために2年かかりました。これに並行して、医療に補助金を拠出できるプロジェクトの調査や、村人が発症しやすい病気の調査もしました。そして、今は支払いルートの作成をしています。

収入創出事業は、養豚です。子豚1匹が約50ドルです。約1年で子豚を産むようになります。1回に10頭程産みます。2頭位は死んでしまいます。子豚の半分は雌です。育ててくれた家に数頭か、販売用に数頭、残りは他の家に分けて、また子豚を育てます。この写真(写真6)は2代目の母豚です。こうして1村につき約1,000ドルを創出するようになっています。この事業は未だパイロットとして継続中です。

(写真6)
写真6

この事業をしながら前の事業の反省を試みており、いくつか分かったことがありますのでお話しします。

事業の反省点

(図2)
図2(図2の内容)

この事業は全部で11県およそ90村にて実施しました(図2)。グループ1は2006年から始めました。グループ2は2009年、2010年から始まったところもあります。実はグループ1と2では住民の意識に差があるのです。これは医療費創出事業を開始して判明したのですが、グループ1では知的障害の人のために何かをしようという気持ちが強いのです。例えば、グループ1の村では医療費の支払いは1,000ドルしかないのですが、障害者に手厚くしたい、知的だけでなく身体障害の人への支払いは100%支払い、障害のない人に30-50%を払うことを決めています。それに対してグループ2の村では、障害のある人とない人を同額にしたい、また、できるだけ利益を得たい、儲けたいという村もあります。連盟が介入して障害者に手厚くしようというように持って行っていますが、グループ間の意識の差は歴然とあります。収入創出事業でもグループ1では事業に貢献したい人が多く出るのですが、グループ2では少ないです。ですから、グループ1と2では障害者に対する意識が違うといえます。

(図3)
図3(図3の内容)

2つのグループの違いは何かと考えました。資金の出所が違いました(図3)。グループ1は内部資金(つまり連盟の資金)ですべてを賄いました。グループ2は外部資金(外務省のNGO連携無償)でした。各村への投入額は、グループ1ではほぼゼロでした。連盟は貧乏なので各村へはお金を落としません。一番多いところで1村当たり30ドルでした。これは知的障害者のために農業を始めたいと言った村に、その村では栽培したことがない作物の種とか農具を少し買ったためでした。また、成果を性急に求めることはしませんでしたので、村民ファシリテーターの育成に時間をかけました。この事業は連盟が現地でファシリテーターを育成し、ファシリテーターが各村で村民をファシリテートしながら事業を推進しましたのでファシリテーターは重要な存在なのです。グループ1では60人を対象にファシリテーター育成をしましたが、残ったのは3名でした。時間をかけて本当に良い人だけをファシリテーターにしましたので。ファシリテートしながら知的障害者の様子を分析してアクションプランを作成し事業を実施しました。そして、2ヶ月に1度、ファシリテーターがやったことを皆で集まって検証しました。これは良くないとか、この分析は甘いと言って突き返すことを続けて手間暇をかけて人材を育成しました。

外部資金のグループでは、資金提供者から1年毎に成果を示し、また、現地にお金を落とすことを要求されました。それで、各村に100ドルずつ投入しました。1年毎に成果を見せなければならないのでこちらも焦ります。ファシリテーター育成も対象者の半数を残すことになりました。その結果、各村の活動には類似性がありました。各村の事業に対して資金提供者からの意見もありました。また、量的な成果を求められるなど色々な縛りがありましたので、それぞれの事業にかけた時間も違いました(図4)。例えば、グループ1では、ファシリテーター養成、調査、分析に2年、各村の計画作成だけに1年を費やしました。活動に1年かけました。グループ2では1年で成果を報告する必要があったので、ファシリテーター養成後に、調査、分析、事業計画作成までに1年間、各村の活動に1年と、急ぎ足で実施しました。

(図4)
図4(図4の内容)

さて、反省点ですが、まず、大きくするよりもじっくりと小さくやった方がよいこと、そして、村人の意見、やり方、各村の文化に沿ったやり方をするためには成果を急がない方がよいということがあります。以上です。

今西座長 質問はありますか。

参加者 内部資金と外部資金の話は元の事業を指していますか。後半の医療費扶助・創出事業を指しているのでしょうか。

沼田氏 元の事業を意味しています。今の事業は自己資金のみで実施しています。

今西座長 ありがとうございました。では、5分間休憩した後にグループディスカッションをします。