1000字提言
障害者と国際協力
千葉茂樹
今年5月5日、東京池袋のレストランでユニークな端午の節句パーティーが開かれた。国際親善の会(NGO)が主催した留学生たちのこの集いでは、国際障害者団体の金治憲(キム・ジーホン)さんが同伴した盲学生と一般の留学生らがひとつにとけ合い、楽しい一夕を過ごしていた。
食事が済んで留学生の歌や踊りの時間に入ったとき、インドネシアの若い外交官が「兄弟と一緒に歌いましょう」と、同国の盲学生の肩に手をかけて一緒にインドネシアの歌をうたいだした。それは素晴らしい情景だった。
金治憲さんは、約20年前初めて国際親善の会の集会に参加した全盲の留学生だった。その後、あらゆる困難をのりこえ、現在はアジア諸国のみならず、アフリカの盲学生も受け入れて盲学校での教育を支援している。指圧、鍼灸の職業訓練を経て、母国に帰り自立している元留学生も少なくないという。
1995年秋、この活動団体は厚生省から福祉法人の認可を受けて、会の名前も「国際視覚障害者援護協会」となった。自らも視覚障害者であった金さんの今日までの努力と情熱に、出席者たちは大きな衝撃と励ましを受けた一夜だった。
本誌3月号で、「特集『障害者の機会均等化に関する基準規則』からみた日本の現状」が編まれている。その中で「日本の現状 国際協力」について、成瀬正次氏は次のようにのべている。
「NGOでは、障害者自身による国際協力も盛んに行われるようになってきている」と。
私たちは、その点にもっと関心をもつべきではないだろうか。例えば、視覚障害者の支援にかかわらず、障害者全般の留学生受け入れについて、私たちはどれだけの関心と支援を払っているだろう。
約30年前、ろう者だった私の従兄のひとりは、仙台の広瀬川で模型ヒコーキをとばして遊んでいた。偶然通りかかった進駐軍の将校との出会いから、その従兄はアメリカに5年間留学することができた。機械好きの彼は、帰国すると外資系のタイプライターメーカーに就職し、のちに技術部長を経て経営陣にのこる人材となった。もし、この従兄に留学の機会がなかったら、彼の生涯はどうなったか。
いま日本の各地には、国際交流協会がつくられている。海外との文化交流やNGOによる国際協力は年ごとに盛んだ。だが、そこに障害者の存在はほとんど欠けている。
こうした活動の中に、障害者と供に生きる「国際協力」の視点をぜひ加えていきたいものである。
(ちばしげき 日本映画学校)
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年7月号(第16巻 通巻180号)35頁