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特集/災害時における対応

阪神・淡路大震災における精神障害者

麻生克郎

 阪神・淡路大震災では、神戸市を中心に大都市の中心部が大きな被害を受けた。この結果、下町の安価な賃貸住宅は特に大きな被害を受け、「弱者」といわれる人々に被害が集中した傾向があるが、地域で暮らす精神障害者の多くも大きな影響を受けた。

 一例として激震地区のある精神障害者の作業所の状況が報告されているが、その作業所のメンバー23名の全員が家屋の被害を受けており、3名が死亡(いずれも家屋は全焼)、14名が家屋が全壊しており、他は半壊ないし一部損壊であり、メンバーの中で避難生活を経験していない人はいない。最も被害の集中した人々であった。また神戸市の市街地のある精神病院の報告によると、入院患者の四割が自宅の全・半壊という被害を受けている。これも一般住民の被害に比べれば高率であろう。

打撃を受けた地域医療

 このような状況の中で精神障害者はさまざまな困難に直面している。まず医療の問題である。着のみ着のままで家を飛び出して避難所や知り合いの家に避難した人たちの中には薬を持って行く余裕のない人も多かった。そして震災によって日頃通っていた医療機関がほとんど利用できなくなっていた。もともと神戸市から阪神地区にかけての激震ベルトには数多くの神経科クリニックが開業していたが、ほとんどのクリニックは何らかのダメージを受けていた。激震地区で当日診療を行った診療所は4か所だけであると報告されている。その後次第に回復していったが、すべてのクリニックが再開されたのは3月中旬であった。再開といっても建物の被害やスタッフの被災など困難は、もっと長期にわたって続いている。郊外にある精神病院はほとんど被害はなかったが、交通網が寸断されて被災中心部の人には利用できなかった。神経科、精神科のある総合病院も数多くあったが、震災直後には救急患者が殺到して通常の外来業務はできなかった。

 筆者は激震被災地に住んでいたこともあって、震災直後の2日間は出勤しなかった。大災害に直面して自分の職場である精神保健センターが、何らかの役割を果たすなどとは考えてもいなかったのである。しかし3日目に出勤すると、すぐに2本の電話がかかってきた。避難した精神障害者から「薬がないのだが、どこへ行けば精神科の診療を受けられるだろうか」という問い合わせだった。災害への備えの欠けていた医療や行政の関係者は、この事態を把握するのに数日を要しているが、その後は急速に救援体制を整えた。1月21日には、神戸市の長田保健所で、保健所嘱託医でもあった地元精神科クリニックの医師が保健所での診療を開始している。1月22日に厚生省より精神科チームの派遣要請が出され、それに応えて1月24日より、近隣自治体を中心とする派遣チームが次々と被災地に入り、被害の大きな10地区の保健所で精神科救護所が開設された。2月の初めには、一般医療チームのいる避難所救護所に精神科チームが加わった。その他にも神戸大学病院の精神科病棟を拠点に活動したチームや、民間クリニックが始めた24時間電話相談の支援に入ったチーム、個人的に精神科の ない総合病院で診療に従事した医師など、さまざまな形で精神科医やPSWが被災地に入り、ピーク時と思われる2月中旬には、ボランティア医も含めれば、数十人の精神科医が、被災地で活動していた。

 打撃を受けたのは医療機関だけではない。保健所や精神保健センターのデイケアも中断されたし、精神障害者の共同作業所も大きな被害を受けた。最も被害の大きかった神戸市では市内にある12か所の作業所のうち五か所が全壊している。直接の被害のなかった作業所でも再開まで1週間を要している。精神科救護所による診療体制が整ってきた頃から、今度は避難所で生活する精神障害者に、集まる場、息抜きの場を作ることがテーマにのぼり、デイケアや作業所が順次再開されていった。

社会的入院も多かった

 今回の震災のように住民のほとんどが何らかのかたちで巻き込まれるような大災害時には、人々は平常とは異なった気分に支配される。精神麻痺といわれる直後の一時期のあと、多くの人はなにがしかの高揚感を感じる。多くの場合これは危機に対処するための生理的な反応である。この点では精神障害者も例外ではなかった。このために、いつになく活動的に救援に参加したり他の人々と協力行動をとった人がいた一方で、このことが症状の再燃につながった人もいる。1月17日以降2週間の間に兵庫県下の被災地からの精神科入院数は570名となり、これは通常の3倍以上である。この傾向はその後も続き、入院数が震災前のペースを下回ったのは2か月後であった。これら入院患者のほとんどは過去に何らかの精神科治療歴のある人たちであった。中には10年20年という長い期間、治療も受けることなく社会生活を続けていた人が、震災をきっかけに再発をきたしたというケースもある。震災の直接的な「こころ」への影響である。

 その一方で、症状面での変化が大きいわけではないが、入院に至ったケースもある。避難所の生活環境に耐えかねて自ら入院を求めた人がいる。いわば2次避難所的利用である。あるいは避難所生活が長期化するにつれて、些細な問題行動や少し変わった生活スタイルなどが他の避難者とのトラブルとなり、避難所にいられなくなった場合もある。ある被災クリニックの医師は「自分のクリニックに通っていた患者さんで震災後に入院になったケースをみると、自宅にいる時なら入院を考える必要もない程度の症状の変化で入院している」と話していた。もっともそのような事情であるから、震災における入院のケースは回復も早かったといわれている。住居を失っていても、仮設住宅を生活の場として退院をしたケースも多い。ただ痴呆症を含む高齢者の場合は、退院が困難であることが多い。ちなみにこの震災では死者の多くが高齢者であるだけでなく、被災の割合も高く、また老人ホームへの一時保護など施設入所に至ったケースも多く、高齢者受難の震災であった。

忘れてはならない生活支援

 この経過を振り返って感じることは、地震によって実は精神障害者のための地域のサポートシステムが浮き彫りにされたということである。これらは過去20年以上にわたって関係者の努力で営々と築きあげられたものであるが、まず鉄道のターミナルごとにある多くの開業クリニックである。これは単に薬や医療を提供するだけでなく、患者のネットワークの要であった。そして保健所のデイケアや共同作業所という行政が進めてきたシステムがある。そして最後に精神障害者の社会復帰施設の貧困な中で、「アパート退院」というかたちで多くの精神障害者を受け入れてきた賃貸住宅群がある。クリニック、作業所は順次回復してきたが、障害者や高齢者が暮らしてきた古い街は壊れたままである。数年のうちに復興住宅が作られていくが、以前のように人々を受け入れてくれるかどうか不安は残る。

 この震災で行われた精神障害者への救援活動は、多くの部分は医療の供給という側面で行われた。筆者自身が主としてかかわったのもその点であったので、この報告もほとんどがその観点からである。福祉的援助や生活支援の必要性は認識されていたものの、散発的に実行された程度であろう。精神障害者の避難所での適応の難しさが取りざたされ、2次避難所をつくるということも関係者の間では話題にのぼったが、結果的には実現できなかった。震災は精神保健法が精神保健福祉法へと変わる直前のことではあったが、義援金の配分や仮設住宅の優先入居に、精神障害者を対象とするために多くの方にご苦労いただいた。

 震災の数か月後の昨年6月から、被災者のメンタルヘルスのための援助と精神障害者の社会復帰の支援のために、復興基金から年間約3億円の予算を投じて「こころのケアセンター」が開設され、その一部の予算で、精神障害者のためのグループホームや共同作業所が、被災地に新たに次々と開設されることになった。この機会に精神障害者の社会復帰のための援助が活発になされるようになることを期待している。

(あそうかつろう 兵庫県立精神保健福祉センター)

文献 略


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年9月号(第16巻 通巻182号) 18頁~20頁