音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

特集/災害時における対応

仮設住宅における障害者支援活動

-神戸市東部を中心に支援活動を続ける『被災「障害」児・者支援の会』の場合-

鈴木昌子

1 はじめに

 最近では、阪神・淡路大震災について、新聞、テレビに報道されることも少なくなったが、震災直後はマスメディアを通して、被災地の極限状況が映し出された。それらの報道によって、多くの人が「何かできることはないか」という思いに駆られ、救援のボランティア活動に立ち上がった。その活動は「ボランティア元年」といわれるほど盛り上がり、民間団体が、個人が、日本全国から、海外から、と大きく広がっていった。しかし、時間の経過とともに、まるで熱が冷めるように、被災地に対する関心も、ボランティア活動に対する関心も薄らいでいくように思える。

 そのような状況の中で、震災直後から今日もなお、継続して「障害」者の支援活動を続けているのが『被災「障害」児・者支援の会』である。

 ここでは、被災時における「障害」者の厳しい生活と併せて、支援活動の内容を紹介していきたい。

2 京都で支援の会結成

 夜明け前のわずか20秒足らずの出来事によって、私たちの街は一瞬にして崩壊した。そして“街の崩壊”はすなわち“生活の崩壊”でもあった。私たちの街に住むすべての人が、何らかのかたちで生活の基盤を失い、避難生活を余儀なくされた、といっても過言ではないだろう。そして、そこには1人で、あるいは家族と自立生活を送っていた多くの「障害」者がいた。ただでさえ困難が多い日常生活の上にこの震災である。その避難生活が一層厳しく、極限状態であったことは福祉関係者なら誰でも容易に想像していただけるはずである。

 そのような状況下で弱い立場の人々の“生命と生活を守る”ために結成されたのが『被災「障害」児・者支援の会』である。

 震災から3日後の1995年1月20日、京都市周辺の共同作業所や障害者団体など16団体で組織された支援の会は、事務局を京都に置き、活動の拠点を神戸市東部(灘区・東灘区)とし、さまざまな支援が行われた。

 まず取り組んだのが、避難所や「障害」者の家庭を一つひとつまわっての安否確認と情報収集であった。さらに、活動内容を知らせるビラ(資料1)を配り、要望も聞いて回った。当時、神戸でボランティア派遣の拠点となった「神戸学生青年センター」には常時コーディネーター数名と10名から20名のボランティアが泊まり込み、ほぼ24時間体制で、

 ①入浴サービス(お風呂への送迎・介助)

 ②ガイドヘルプ(病院、施設への送迎)

 ③訪問(話し相手)

 ④物資の提供

といった活動を続けていた。それらの活動に不可欠である車は、神戸市の福祉施設からリフトつきワゴン車を借りるなどして対応した。一方、京都では、

 ① 緊急一時避難場所の提供

 ② 募金活動

 ③ミーティング:神戸から届く活動報告を検討し、要望を把握する(写真1 ミーティングのようす 略)。

などの活動が続けられていた。

 結成から3か月の間に何らかのかたちでかかわったボランティアは、延べ1213人に及ぶ(資料2)。

資料1 支援活動スタート時に配られたビラ

資料1 支援活動スタート時に配られたビラ

資料2 ボランティア参加のべ人数
街頭募金 316人
神戸学生青年センター 526人
すばる舎 208人
京都一時避難 24人
めぐみホーム(事務局) 139人
総計 1213人

(1995年4月現在)

3 避難所から仮設住宅へ

 “命を守る支援を!”といわれるほど避難所での「障害」者の生活は厳しかった。車いすトイレやエレベーターの不備だけでなく、過密状態の中で常に人の視線を気にしながらの生活は大きなストレスとなる。

 トイレにも行けず、配給の列にも並べず、ボランティアが訪ねるまで何日もほとんど飲まず食わずで、車いすから一度も降りなかった、といった話もめずらしくないのである。

 仮設住宅の募集、入居が始まっても「支援の会」の活動内容はほとんど変わらず、仮設住宅においても「障害」者を取り巻く環境は改善されなかった。

 仮設住宅には1戸に台所、トイレ、風呂が付く「一般」と、それらが共同の「地域型」がある。一般仮設は段差が多く「障害」者には生活しにくい。一方、地域型仮設は段差をなくし相談員をおくなど、高齢者・「障害」者に配慮はあるものの、1家族(1人でも5人でも)1部屋(6畳)という大雑把さや夜間、休日に相談員が不在になるなど不便さは否めない。中でも風呂が狭く、埋め込みが浅いため(写真2 地域型仮設住宅の風呂 略)自宅外の入浴施設、つまり、介助がしやすい大きめの風呂での入浴(支援の会では「神戸学生センター」を使用)の要望が強く、また避難生活の疲れからか病院の送迎、話し相手といった支援も変わらず続けられている(資料3)。

資料3 支援の会兵庫活動報告(1996年5月1日~6月30日)
総活動数 207
活動延人数 約355名
活動内容 送迎 53
訪問 66
清掃 21
入浴 30
  学生センター

11

 
  大和仮設

18

 
  岸地公園

1

 
引っ越し
(事務所引っ越し含)
8
代行 4
ガイドヘルプ 2
付き添い 2
その他 21
活動場所 大和公園仮設住宅 44
御影中学仮設住宅 21
川井公園仮設住宅 11
御影中町仮設住宅 7
高羽仮設住宅 5
御影公園仮設住宅 3
魚崎北町仮設住宅 2
魚崎第2仮設住宅 2
寿公園仮設住宅 2
魚崎5丁目仮設住宅 1
福井沢仮設住宅 1
瀬戸仮設住宅 1
福井池仮設住宅 7
六甲病院 15
東神戸病院 14
六甲アイランド病院 9
労災病院 7
甲南病院 5
神鋼病院 4
市橋クリニック 3
芦屋病院 3
金沢病院 2
鈴木眼科クリニック 1
兵庫医大病院 1
中央病院 1
東灘診療所 1
くずはら整形外科 1

4 京都から地元へ引き継がれる活動

 結成当初から「生活してきた地域での自立」をめざしてきた支援の会の活動は、1996年4月現在でかかわったケース227件、そのうち52件が継続的な支援を必要としている。

 これらの活動を地元が主体となり継続していこうと、「支援の会兵庫」が誕生した。

 新しいコーディネーターとして近隣に住む3名が交替で入り、活動内容はこれまでの流れに沿ったかたちで引き継ぐことになった。

 復興事業が進む中で、取り残されていく弱い立場の人々の“市民生活”をどのようにして取り戻すのか、問題はさらに深く、重くなっていくように思える。わたしたちはボランティアとしての限界と背中合わせで活動を続けていると感じざるを得ないのが現状である。

 既存の制度では対応しきれない今、新しいシステムを構築してこそ、震災は“体験”を越え、真の福祉社会の実現につながるのではないだろうか。

(すずきまさこ 被災「障害」児・者支援の会兵庫企画委員)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年9月号(第16巻 通巻182号) 31頁~34頁