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文学にみる障害者像

小泉八雲著 『耳なし芳一の話』

銭本健二

 小泉八雲の死の年(1904年)に出版され、世界的に有名になった『怪談』の巻頭を飾るのが「耳なし芳一の話」である。

 『平家物語』を語る琵琶法師芳一が壇の浦に没した平家の怨霊にさそわれて、赤間が関の墓所で、毎夜壇の浦合戦の悲劇を物語る。そのことを知った和尚が体中に般若心経を書きつけ、怨霊から護るが、耳にだけ経文を書くことを忘れ、その耳を怨霊が引きちぎって立ち去ったという物語である。

 この物語は一夕散人著『臥遊奇談』という天明2年に出版された木版本を妻のセツが、できるだけ憶えて、八雲に語ってきかせ、その話をもとに再話したものである。その様子をセツは「思ひ出の記」の中で生き生きと描いている。

 『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。なかなか苦心いたしまして、もとは短い物であったのをあんなにいたしました。…(中略)この「耳なし芳一」を書いています時のことでした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と内からいって、それで黙っているのでございます。…(中略)書斎の竹薮で、夜、笹の葉ずれがサラサラといたしますと「あれ、平家が亡びて行きます」とか、風の音を聞いて「壇の浦の波の音です」と真面目に耳をすましていました。

 ここで気がつくのは、八雲が芳一になりきって書いているその共感の深さである。盲目の芳一の語り芸と物語り作家八雲がこの作品の中に溶けあって、独特の雰囲気をもつ語り空間を生み出している。

 この共感の深さは、八雲自身の眼と関係がある。八雲は極度の近視の子どもとして生まれ、生涯失明におびえながら、新聞記者として記事に追われ、作家として執筆にいそしみ、教師として読書に多くの時間を費やした。松江の小泉八雲記念館にある机と椅子は八雲が自分の執筆活動に合わせて特別に造ったもので、その異様に高い机の面と椅子の組み合わせに驚かされる。紙に顔をすりつけるようにしてペンを走らせていた姿を想像させられる。

 しかも16歳の頃、イギリスの寄宿学校で「ジャイアント・ストライド」と呼ばれる遊びの最中、飛んできたロープの結び目で左眼を打ち、失明した。「私は左眼を失って恐ろしく醜くなっています」と遠国の読者に書き送っているように、生涯失明し白濁した左眼を恥じ、写真を撮る時には必ず左眼を隠すため、わずかに左側に顔をうつむける独特なポーズをとったほどである。

 2メートル先からは霧の中のような強い近視で、あのように美しい自然描写がなされることに驚嘆させられるが、日常眼鏡は使わず、時々すばやく片眼鏡を当てたり、望遠鏡を使うが、その瞬時の印象を世に言う「写真的記憶」にとどめ、その残像を丁寧になぞる日本画家のような能力を身につけていったのである。

 妻セツの口述の中で気付くのは、笹の葉ずれに平家の亡びを、風の音に壇の浦の波を想う八雲の聴覚的想像力である。「耳なし芳一の話」はそうした聴覚的想像力の描写に溢れている。安徳天皇のみ陵の前に手を引かれて行く芳一を描いた一部を引用しよう。

 それにしても、自分がいったいどんなところへ連れてこられたものやら、芳一にはとんと見当がつかない。が、とかくの思案をするひまもなかった。人の手に助けられて、5、6段の階をのぼったと思うと、その階のいちばん上のところで、履きものをぬげといわれ、それから女の人の手にひかれて、磨きこんだ板敷の、際限もないような長い廊下をわたり、おぼえきれないほどたくさんの柱の角をいくたびか曲がって、びっくりするほど広い畳敷きの床をとおって、やがて、大広間のまんなかに通された。ははあ、この大広間に、えらい方たちが大ぜいお集まりになっているのだな、と芳一は思った。きぬずれの音が、まるで森の木の葉のささめきのようである。(平井呈一訳)

 現実には墓地の葉ずれの音であり、廊下の角の柱は墓地を囲む木々であり、畳敷きの床は敷き石であるという風にこの物語全体が聴覚的想像力を起点にした盲人の想像力の豊かな結実となっている。

 平家の怨霊に耳を持ち去られたという「ふしぎな危難のうわさ」が広まって、多くの貴人たちが芳一の琵琶を聞きに赤間が関まで足を運ぶようになり、もっぱら「耳なし芳一」と呼ばれるようになったというこの物語の結びは、怨霊の貴人から現実の明るい貴人の集いへと明暗を変え、ネガフィルムを一転させて、芸能の舞台、芸術の陽光の中に連れ出してくれる。

「耳なし芳一」の呼び名は原典では「耳きれ芳一」とあり、民話の世界では「耳きり団一」の名で伝えられ、柳田国男の『一つ目小僧その他』でもそのように記述されている。

 怨霊に耳をち切り取られた芳一がその理由で有名になるということに、身体の一部に障害をもつ人々を神的なものへの犠牲として意味づける宗教的偏向が多くの人々を不幸にし、暗い存在の影をかぶせてきた歴史がある。しかし八雲は自然の調べを聴き、作品の創造にいそしむ芸術家の営みを名篇「草ひばり」の中で、自分の足を食らって歌い続ける小さな虫の生涯になぞらえている。故・武満徹は『時間の園丁』の中で、イサム・ノグチの言葉を引用し、「芸術家とは、幽霊、幻覚、前兆、鐘の音など-精霊が流れてくる水路以外の何ものでもない」と語っている。八雲の生涯も芳一のそれも自然の風の通る通路であり、精霊が流れる水路であった。

(ぜにもとけんじ 島根大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年9月号(第16巻 通巻182号) 36頁~38頁