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特集/もう1つのオリンピック 日本の3月、パラリンピック。

パラリンピックの歴史

中川一彦

1 パラリンピック競技大会の始まり

 1989年、国際パラリンピック委員会(IPC)が誕生し、パラリンピック競技大会は今、新しい流れの中にある。
 IPCは、1960年、イタリア・ローマで開かれた第9回国際ストークマンデビル競技大会を第1回のパラリンピック競技大会と位置づけ、1996年のアメリカ・アトランタでの大会を第10回パラリンピック競技大会としている。
 ところで、周知のように、この大会は、1944年、イギリス・ストークマンデビル病院において導入されたスポーツ活動(パンチボール、ダーツ、ロープクライミング、スヌーカー、ボーリング、車いすポロ)が発展し、1948年7月28日、ちょうど第14回オリンピック・ロンドン大会の開会式の日、同病院内で、16人(男性14人、女性2人)の車いす使用者によるアーチェリー競技大会として催されたことに始まるものである。
 ストークマンデビル病院にスポーツを導入し、アーチェリー競技大会を催したグッドマン(1899~1980)は、医師であり、スポーツを治療の一手段として用い、障害者が社会へ再融和するための手段として位置づけていた。そして、1957年の国際身体障害者福祉協会世界大会における彼の講演『身体障害者の更生療育(レハビリテーション)におけるスポーツの重要性』(内藤三郎訳)では、スポーツが“障害に対する勝利”に最もふさわしいものであること、「障害者に関して重要なことは、失ったことではなくして残存する能力の如何である」ということを示し、ストークマンデビル競技大会の存在をアピールしたのである。
 この中では、これだけでなく、「将来のオリンピック・ゲーム―恐らくは次回のローマに於ける大会―にでも身体障害者が各自適のスポーツで競争ができるような特別な分会が設けられるかも知れない。」と記し、「私はレハビリテーションに熱意をもつ人々に切にこの夢が実現されるよう助力されんことを訴えるものである。何んとなれば、身体障害者をスポーツマンとしてオリンピック・ゲームに彼等の自由な権利に於て参加を認めることはわれわれの障害をもつ同胞が社会へ再統合(復帰)を意味する点に於て人類の最も輝かしい偉業の1つに他ならぬからである。」としていたのである。
 1948年に始まった大会は、1952年、オランダからの参加を得て国際的規模のものとなり、以来、これを第1回ストークマンデビル競技大会と位置づけ、1960年には、関係者の努力により、第17回オリンピック・ローマ大会の直後に、同じオリンピック施設を利用して開催され、グッドマンの夢実現に1歩近づいたのである。

2 パラリンピック競技大会の歩み

 1960年、後に“ローマ・パラリンピック”とも表現される第9回国際ストークマンデビル競技大会は、「4年ごとにオリンピック競技大会が開催される当事国において開催する」という主旨に添い、夏の大会について言えば、1964年、日本・東京、1968年、イスラエル・ラマットガン、1972年、西ドイツ・ハイデルベルグ、1976年、カナダ・トロント、1980年、オランダ・アーヘン、1984年、アメリカ・ニューヨーク(一部はイギリス・ストークマンデビル)、1988年、韓国・ソウル、1992年、スペイン・バルセロナ、そして1996年、アメリカ・アトランタと引き継がれている。
 これらのうち、1968年(メキシコ・メキシコシティー、高地であるという医学的理由)、1980年(ソ連・モスクワ、障害者がいないということで引き受け拒否)の大会は、それぞれオリンピック競技大会の開催当事国での開催ではなかったが、この4年ごとの大会は、1976年には切断者と視覚障害者の部門を加え、また、1980年には、さらに脳性マヒ者の部門を加えた大会として発展し、1996年には、精神薄弱者の部門をデモンストレーション競技として加えるようになってきているのである(表1)。

表1 パラリンピック競技の概要(文献5より、一部改変)
    開催地
(オリンピック)
開催期間 参加国及び人員 日本選手団 日本の成績 種目等
車椅子 切断 視覚 CP 機能 役員 合計
イタリア
 ローマ
 (ローマ)
1960年
9月18日~25日
(8日間)

23

400

0

0

0

0

0

0

0

0

        日本不参加
日本
 東京
 (東京)
1964年
11月8日~12日
(5日間)
22 567 53 0 0 0 0 53 31 84 1 5 4 10 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、車椅子バスケットボール、スヌーカー
イスラエル
 ラマットガン
 (メキシコ)
1968年
11月3日~13日
(11日間)
29 1,047 37 0 0 0 0 37 26 63 2 2 9 13 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、車椅子バスケットボール、スヌーカー、5種競技、ボーリング
西ドイツ
 ハイデルブルグ
 (ミュンヘン)
1972年
8月2日~10日
(9日間)
43 1,346 25 0 0 0 0 25 37 62 4 5 3 12 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、車椅子バスケットボール、スヌーカー、5種競技、射撃
カナダ
 トロント
 (モントリオール)
1976年
8月3日~11日
(9日間)
40 1,000 20 9 8 0 0 37 45 82 11 9 5 25 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、車椅子バスケットボール、スヌーカー、射撃、ボーリング、5種競技
オランダ
 アーヘン
 (モスクワ)
1980年
6月21日~7月5日
(15日間)
42 2,556 19 7 8 3 0 37 24 61 9 11 7 27 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、車椅子バスケットボール、スヌーカー、射撃、5種競技、
日本不参加
アメリカ
 ニューヨーク州
 (ロスアンゼルス)
1984年
6月16日~30日
(15日間)
45 1,800 8 5 4 0 17 21 38 3 2 5 10 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、スヌーカー、バレーボール、サイクリング、乗馬
英国
 アイレスベリーグッドマンスポーツセンター
1984年
7月21日~8月1日
(12日間)
40 600 35 35 20 55 6 5 2 13 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、スヌーカー、車椅子バスケットボール
韓国
 ソウル
 (ソウル)
1988年
10月15日~24日
(10日間)
61 4,220 62 22 25 16 16 141 69 210 16 12 17 45 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、スヌーカー、バレーボール、サイクリング、車椅子バスケットボール、ゴールボール、ボッチャ、柔道、射撃、サッカー、ローンボウル
スペイン
 バルセロナ
 (バルセロナ)
1992年
9月3日~14日
(12日間)
83 4,200 34 10 17 4 10 75 50 125 8 7 15 30 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、ウェイトリフティング、バレーボール、サイクリング、車椅子バスケットボール、ゴールボール、ボッチャ、柔道、射撃、サッカー、テニス
10 アメリカ
 アトランタ
 (アトランタ)
1996年
8月15日~25日
(11日間)
103 4,912 44 7 14 7 9 81 42 123 14 10 13 37 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、パワーリフティング、車椅子バスケットボール、射撃、柔道、バレーボール、ゴールボール、ボッチャ、車椅子テニス、乗馬、サッカー、自転車、ローンボウル、(ラグビー)、(ヨット)
11 オーストラリア
 シドニー
 (シドニー)
2000年
10月14日~24日
(11日間)
                             

 (  )オープン競技


 そうした中、1984年の大会では、それまで障害別に実施されるだけだったいくつかの競技(アーチェリー、卓球、ローンボウル)が、障害の枠を超え、障害分類の適用を外して実施され、オープン化を目指し、車いすのバスケットボールやフェンシングでは、車いす使用者であればだれでも出場資格があるとかのように、各種の身体障害者自身が、競技大会を同時に開催するだけでなく、より積極的なインテグレーションを自ら求めるようになるのである。
 障害者自身が、障害分類の適用を外し、オープン化を目指すようになり、障害別ではなく能力別にクラスをつくり、競い合うという考え方は、1988年の大会にも引き継がれ、メダルの価値は、リハビリテーションとして与えられたものから獲得するものへと意味が変化し、インテグレーションのため、言い換えれば、国際障害者年(1981年)のテーマ「完全参加と平等」のためへと、可能性を追求し、努力し、競争することの大切さを示すものへと変貌し、メダルの価値も統合(インテグレーション)されようとしている。
 このような夏の大会の発展につれて、冬のスポーツを楽しむ人々の意識も高まり、1976年、第1回のパラリンピック冬季競技大会が開かれ、夏の大会同様に、1980年、ノルウェー・ヤイロ、1984年並びに1988年、オーストリア・インスブルック、1992年、フランス・アルベールビル、1994年、ノルウェー・リレハンメルと回を重ね、1998年、日本・長野へと引き継がれている(表2)。

表2 冬季パラリンピック競技の概要(文献5より、一部改変)
  開催地
(オリンピック)
開催期間 参加国及び人員 日本選手団 日本の成績 種目等
車椅子 切断 視覚 CP 機能 役員 合計
スウェーデン
 エーンシェルドスピーク
 (インスブルック)
1976年
2月23日~28日
(6日間)

17

400

0

1

0

0

0

1

1

2

        自費参加
ノルウェー
 ヤイロ
 (レイクブラシド)
1980年
2月1日~7日
(7日間)
18 700 0 6 0 0 0 6 5 11 0 0 0 0 アルペン、クロスカントリー(アイスホッケーの競技を行ってみせた。)
オーストリア
 インスブルック
 (サラエボ)
1984年
1月14日~20日
(7日間)
22 1,000 0 6 1 0 5 12 9 21 0 0 0 0 アルペン、クロスカントリー、アイススレッジスピードレース
オーストリア
 インスブルック
 (カルガリー)
1988年
1月17日~24日
(8日間)
22 800 5 11 0 0 0 16 7 23 0 0 2 2 アルペン、クロスカントリー、バイアスロン
フランス
 アルベールビル
 (アルベールビル)
1992年
3月25日~4月1日
(8日間)
24 900 4 8 0 1 2 15 12 27 0 0 2 2 アルペン、クロスカントリー、バイアスロン
ノルウェー
 リレハンメル
 (リレハンメル)
1994年
3月10日~19日
(10日間)
31 1,013 10 8 3 1 5 27 24

12

63 0 3 3 6 アルペン、クロスカントリー、バイアスロン、アイススレッジスピードレース、アイススレッジホッケー
日本
 長野
 (長野)
1998年3月5日~14日
(10日間)
                            アルペン、クロスカントリー、バイアスロン、アイススレッジスピードレース、アイススレッジホッケー
(知的障害者のクロスカントリーを正式種目とする。)
アメリカ
 ソートレークシティ
 (ソートレークシティ)
2002年(予定)                              

 この大会は、5回目のフランス大会からオリンピック競技大会の開催地で開かれ、日本の大会では、精神薄弱者のクロスカントリーが正式種目として位置づけられている。

3 パラリンピックの意味と意義

 IPCは、グッドマンの遺志を継ぎ、1960年の大会を第1回とし、4年ごとの大会をパラリンピック競技大会と位置づけるようになったのである。
 ところで、パラリンピックという名称は、1963年の国際ストークマンデビル競技委員会規約にある「“下半身マヒ者”のための競技会である」という目的に添い、“対マヒ”を意味するパラプレジック、“対マヒの”の意のパラプレジア、あるいは“マヒ”を意味するパラリーリス、そして、“マヒさせる”という意味のパラライスの“パラ”とオリンピックの“リンピック”をつなぎ合わせ、日本が、1964年の大会で、大会の愛称として用いたものであり、パラリンピックの旗や歌、そしてポスターなどを作り、リハビリテーションとしてのスポーツの役割を広く啓蒙したものである。
 しかし、今では、大会に出場する者が対マヒ者だけではないこと、オリンピックと並んだ、対等の大会でありたいとの願いから、IPCは、IPCのPつまりパラリンピックの“パラ”を「平行の」「同目的の」「相等しい」などの意のパラレルの“パラ”に置き換え、今までどおり、パラリンピックとして用いているのである。
 そして、当初、マヒ者のリハビリテーションに主眼を置いていた大会は、障害者のスポーツ参加を権利として求め、例えば、1976年のカナダ・トロント大会が「身体障害者のための1976年国際オリンピック大会」と呼ばれ、1980年のオランダ・アーヘン大会が「1980年障害者のためのオリンピック競技大会」などと呼ばれたように、今では、ノーマライゼーション(正常化)、インテグレーション(統合)あるいはメインストリーミング(主流化)を、そしてインクルージョン(併合)を目指しているのである。

4 21世紀のパラリンピック

 パラリンピック競技大会は、第3回までリハビリテーション(社会復帰)の手段としての大会であったが、第4回大会(1972年)では、大会会長が、スポーツはもちろん各分野で障害者をインテグレーションすることの必要性を強調するものとなった。その結果、第5回大会(1976年)から、障害者の統合がなされるようになり、第7回大会(1984年)以降、障害者自身が障害別にこだわらず、獲得した能力別に競い合うという形を求めるようになり、メダルは、単に与えられるものではなく、獲得するものであるという性格をもつものに変化し、この大会は、障害者自身の自己実現、そして存在価値を求める欲求を満たすことに役立つものになってきている。
 2000年のオーストラリア・シドニーにおけるオリンピック競技大会では、1984年以来、デモンストレーション種目として実施されていた陸上競技、女子800メートルと男子1500メートルの車いす競走が、オリンピック競技大会の正式種目に組み入れられ、インクルージョンも達成されるであろう。そして、いよいよパラリンピックの夜明けがやってくるのである。
 明るい夜明けの光の中で、政治、宗教、経済、障害、性、人種を超え、パラリンピック競技大会はもちろん、オリンピック競技大会を頂点とするスポーツの催しが、地球上の各地で開かれるようになるのである。

(なかがわかずひこ 筑波大学)

<参考文献>

1 中川一彦:パラリンピック競技大会の夜明け 筑波大学体育科学系紀要第20巻、1~7、1997
2 中川一彦:脊髄損傷者とスポーツ 理学療法第3巻第1号、51~59、1986
3 内藤三郎:身体障害者の更生療育(レハビリテーション)に於けるスポーツの重要性 私家版、1958
4 国際身体障害者スポーツ大会運営委員会:ローマパラリンピック報告書 私家版、1964
5 日本身体障害者スポーツ協会:身体障害者スポーツの歴史と現状 私家版、1997


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年12月号(第17巻 通巻197号)26頁~29頁