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文学に見る障害者像

テネシー・ウィリアムズ著
『ガラスの動物園』

―愛なき慰め―

高橋正雄

 1945年、テネシー・ウィリアムズが34歳の時に発表した『ガラスの動物園』(小田島雄志訳、新潮文庫)1)は、1930年代のセントルイスを舞台にした戯曲で、作者の自伝的色彩が濃厚な作品である。特に作中、子どもの時の病気がもとで脚に障害が残り、高校を中退して、「自分だけの世界に閉じこもっている」姉のローラには、5歳の時にわずらったジフテリアがもとで脚が不自由になったというウィリアムズ自身の体験が色濃く投影されている2)。ローラは、彼女が集めている小さなガラス細工の動物たちのように、脆くて壊れやすい存在なのである。
 しかし、この作品の終わり近くには、ローラのもとを、高校時代に彼女が秘かに憧れていたジムという青年が訪れる場面がある。ジムは、ローラとの結婚を画策する彼女の母親によって招かれたのである。
 ジムは、高校時代の思い出話を語る中で、当時のローラが脚を固定する金具が歩くたびに大きな音がするのを気にしていたということを知ると、「そんな音、ちっとも聞こえなかったな」と応える。そのうえでジムは、「きみだけでなく人間ならだれでもが、なんらかの悩みをかかえている」「きみはね、悩みがあるのは自分だけ、失意の人は自分一人、と思いこんでいる。だが周囲をちょっと見まわしてごらんよ、きみと同じように望みが満たされないでいる人間はいくらだっているんだぜ」と言って、次のようにローラを励ます。「たかが足音のためにきみは学校をやめた、自分から教育を放棄した、その足音にしたって僕の知るかぎり事実上なきにひとしいものだったんだ」「きみにはほんのささやかなからだの欠陥がある。だれも気がつかないぐらいのものだ! それをきみは想像力で何千倍にも拡大している! だから、声を大にして忠告したい。自分がなにかの点で人よりすぐれていると思うことだ。」
 そして、「どんな点でそう思えばいいの?」と尋ねるローラに対して、ジムは「人間だれでも一つは人よりすぐれた長所がある」「だからその長所がなにか、見つけさえすればいいんだよ」と畳みかける。そんなジムの言葉に、ローラはすっかり感動してじっと見つめるのだが、ジムはさらに、「ひととちがうということは、ふつうの人とは似てないわけだが、そのこと自体、ちっとも恥ずかしいことじゃない。ふつうの人って、別にすばらしい人じゃないんだから。なにしろ何十万、何百万っているんだ」「ところがきみはたった一人! ふつうの人は地球上いたるところにうようよしている。きみは、ここにしかいない」と、自分に誇りを持つよう諭し、最後にはキスまでするのである。
 こうして、かつての憧れの対象から温かく思いやりある態度を示されたローラは、恍惚とした表情になるが、その直後、ジムは自分には婚約相手がいてローラとは付き合えないことを告げる。しかもジムは、落胆のあまりほとんど倒れかかっているローラの様子に気づくことなく、「愛を知ってぼくは生まれ変わったんだ」と無神経なことを言い続けた。ジムにとって大事なのは自分だけで、ローラはあくまでも「遠い存在」なのである。
 ローラの顔から輝きは消え去り、彼女は「はてしない寂ばくの表情」に戻った。

 以上が、『ガラスの動物園』に記されているローラとジムのやりとりである。このように、ジムは、ローラのことを障害ゆえにコンプレックスに苛まれている人間と見なして、言葉をつくして彼女を慰め励ましている。ローラの人知れぬ悩みを打ち明けられたジムは、本人が悩むほど周囲はそのことを気にしていないこと、人間にはだれにも悩みがあること、人間は自らの障害を想像力で誇張して考えがちであること、自分の中に長所を見つけてそれに誇りを持つべきであること、人と違うということは恥ずかしいことではなく、逆に「ふつうの人」であることもそれほど素晴らしいことではないこと、自分はこの世にたった一人のかけがえのない存在であることなど、ダイナミックな説得力をもってローラに語りかけるのである。
 こうしたジムの言葉には、今日にも通じる普遍性が含まれていることも事実で、ローラも一旦はジムの言葉に感動してその表情に輝きを取り戻している。しかし、その輝きもジムに婚約者がいることを知った途端に消え失せているわけで、ローラには、どんな慰めや励ましよりもジムの愛情のほうが治療的だったことになる。
 そして、このような愛情の持つ治療的な意味を考えるならば、悩める人への対応においてその重要性が指摘される受容や共感にしても、そうした態度の背後に自分のことを思いやり気づかってくれる相手の愛情を感得できるからこそ治療的に働くのではないかと思えてくる。実際、人格障害と呼ばれる人々の中には、受容や共感を旨とする治療者に反抗的な態度をとる者が少なくないが3)、それは彼らが単に優しさを示されることに慣れていないというのみならず、治療者が示す表面的な受容や共感といった態度の背後に、自分に対する真の愛情を看取することができないからこそ、そこに欺瞞的な臭いを嗅ぎつけて苛立ち、反発するのではあるまいか?
 おそらく、治療上真に重要なのは、受容や共感といった態度そのものではなく、自分を愛し気づかってくれる人間の存在なのである。実際、真に愛情を感じ合っている人間の間では、一見受容や共感に縁遠いような態度でも十分治療的な対応が可能である。「病みながら生きる存在」としての人間に必要なのは、「愛し気づかう存在」としての人間なのかもしれない。
 もっとも、「友だちに言わせると、ぼくは心理分析にかけてはプロの医者よりうまいんだ」と自慢するジムの場合、ローラへの受容や共感というよりは、そんな言葉を吐く自分自身に対する自己欺瞞や一人よがりの自己陶酔的なニュアンスが強く、乙女心を弄(もてあそ)ぶだけの結果に終わっているのではあるが…。
 なお、ローラの直接的なモデルともいうべきウィリアムズの姉ローズは10代後半から被害妄想的な症状を示し、精神病院に入退院を繰り返した後、1937年に州立精神病院でロボトミー(前頭葉切徐術)を受けて、重い後遺症を残したという2)。ウィリアムズの姉はロボトミーの犠牲者でもあったわけだが、それから7年後に書かれた『ガラスの動物園』は、そんな姉に対するウィリアムズの痛切な思いが込められた鎮魂の書として読むこともできるのである。
 劇作家として成功したウィリアムズは、姉を最高級の私立サナトリウムに移し、生涯その面倒を見たという。

(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)

【参考文献】
1)テネシー・ウィリアムズ(小田島雄志訳);『ガラスの動物園』新潮社、1988
2)小田島雄志:解説・『ガラスの動物園』新潮社、1988
3)高橋正雄;病跡学と人格障害・こころの科学93;72~78、2000