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1000字提言

「ろう文化」と「聴文化」の間で育った人々

澁谷智子

 街で声を出さずに手話で話していると、聞こえる人でも聞こえない人だと思われることが多い。歩くのが難しい人が車いすを使うのと同じような感覚で、手話もとらえられているのだろう。しかし、実際には、手話をするということと、聴覚障害があるということは、それほど「=」(イコール)で結びつくわけではない。
 たとえば、聞こえない親をもつ聞こえる人々の中には、身体的には聞こえても、手話を第一言語として育った人もいる。ある年配の女性は、私に次のように話してくれた。
 「主人がよく言ってた。『おもしろいね。君は寝ている間にも手が動いてるよ』って。自分ではわからないんだけどね、結婚して15年ぐらいは寝言が手話だったみたい」
 この女性のように、手話で育った聞こえる子どもは、幼稚園や小学校に入学した時に、しばしばカルチャーショックを受ける。「妹」という手話は知っていても、「イ・モ・ウ・ト」という音がそれを表すのだと知らなかったと話す人もいる。
 先生の言っていることが理解できなかったという人もいる。「自分は先生の言っていることがわからないのに、周りの子は「はーい」と言って何か作り始める。ただただ怖くて緊張してた。次に何が来るんだって感じだった」。これが外国人のバイリンガルの子なら、それなりの配慮はされるだろうが、外見も名前も日本的なこの子たちが日本語で苦労しているということは、理解されにくい。
 もちろん、聞こえない親をもつ聞こえる人すべてが手話を得意とするわけではない。手話を使うのは恥ずかしいと社会で思われてきた時代は長く、聞こえる子に手話で語りかけようとしない親も多かった。しかし、そのように手話で育っていない人の場合でも、コミュニケーションにおける表情や身体の使い方は、聞こえない親のやり方を身につけていることが多い。
 手話や視覚を中心とした「ろう文化」と音声をコミュニケーションの基本とする「聴文化」。聞こえない親をもつ聞こえる人々は、この両方の世界が存在することを体験として知っている。そして、聞こえない親と聞こえる人々の間に立って、それぞれの側がわかるような方法で、説明したり、伝えたり、仲介したりしている。この人々が受け継いでいるこうした二文化性(バイカルチュラル)を知ることは、聞こえない人々の文化の豊かさに私たちの目を向けさせ、聞こえる人にとっての「あたりまえ」を問い直すきっかけを与えてくれるのである。

(しぶやともこ 東京大学大学院)